激動

 気が付けば私は、随分の間その場で呆けていた。勝手に自分の世界に浸って悲劇のヒロインを気取る私を、余裕のない声が呼び戻した。


「やっば遅刻遅刻!学校は兎も角こっちで遅刻するなんて〜!」


 慌てたように走る女性が、こちらへ向かってきた。彼女は一瞬私の姿を視界に捉えたが、見ず知らずの他人を気にかける余裕はないようで、大きな音を立てながらお店の扉を開いた。どうやら彼女もこの店に用があるみたいだ。


 思わず、そのきっかけを頼りに私も店の中へ入った。店員は今入ってきた女性の対応をしていて、こちらに気付いていない。その隙をついて私はこっそりと奥へ進んだ。少なからず興味が生み出した行動ではあるが、自分は何をしているんだろうという自己嫌悪の方が強かった。


 奥へ進むと、いくつか扉があった。扉には小さな窓ガラスがあって、僅かに中を覗くことができた。誰もが何かしらの楽器を手に自分たちの世界を生み出している。派手な見た目をしている人が多く、本当にこの部屋のどこかに姉がいるのかと疑問に思った。


 ふらふらと歩いていると、先ほどの女性がひとつの部屋の扉を開けた。少しだけ気になって私はその部屋の中を覗く。すると。


「やっと来たわね朱音。随分優雅な社長出勤ね」


「みんなごめーん!いやー、担任の説教が長くてさー」


「・・・!おねえ、ちゃん」


 その部屋には姉の姿があった。ギターを片手に、私の知らない友人達と一緒にいた。思わず私は、バレないようにほんの僅かに扉を開いて中の会話に耳を澄ませた。


「時間を大切にできねぇヤツは末代まで滅びろ」


「相変わらず口悪すぎない!?ほんとごめんて。というか今のところ私が末代なんだけど!?」


「でも説教されるに至った経緯は朱音のせいなんでしょう?説教が長いのが悪いんじゃなくて、そんな説教をされる朱音が悪いんじゃないかな」


「正論やめてー!?」


「はよ準備しろ」


「うへーい。みんなつめたーい」


「自業自得よ」


「今度みんなが遅刻したら、ボロクソ言ってやるもんね!」


「はいはい、もしそんなことがあったらね」


 やいのやいのと、皆が遅刻したその人を責め立てた。だけどそれはどこか優しさがあって、気まずい雰囲気の欠片もない。面と向かって相手をけなせるのは、本当に親しい間柄だけだ。不思議なものだけど、それが信頼というものだ。姉があんな風に気を張らず、気を使わず、誰かを相手に会話をしているところを、初めて見た。自分の感情を素直に吐き出す姉を、初めて見た。


 そして何より。


 楽しそうな姉の姿を、初めて見た。


「・・・・・お姉ちゃんのあんな顔、初めて見たな・・・」


 妹に向ける慈愛の眼差しじゃなくて、自分と対等な人に向ける、当たり前の眼差し。自分の隣にいることを許した、普遍の眼差し。


 あんな風に、私を見てほしかった。


 ・・・・・。


 お姉ちゃんが楽しそうなら、それでいい。その姿を見ることができただけで、私は満足だった。でも、それでも、欲が沸く。滲む。溢れ出る。色んな感情が。


 それはお姉ちゃんに向けた感情ではなく、お姉ちゃんの周りにいることを許された、友人達に向けた感情だった。


 羨ましいと思う気持ち。


 悔しいと思う気持ち。


 どうして私じゃないんだと、理不尽な怒りが。


 憎悪にすり替わる気持ち。


 羨望。


 嫉妬。


 自然と、下唇をかみ締める。


 本来なら喜ぶべき場面で、嫉妬の感情が爆発する私は。


 どこまでも、救えない。


 ・・・・・。


 大きく、息を吸う。そして吐く。自己嫌悪を武器に、負の感情を抑え込める。醜いという言葉で自分を殺す。姉の幸せを心から喜べないなんて、こんなのは、妹の抱く感情じゃない。


 分かってる。


 分かってる。


 でも。


 分からない。


 どうして、どうして私じゃない。


 私が凡人だったなら、私はあそこにいられたの?


 私が天才だから、こんな感情を背負っているの?


 なんで、何が。


 何がお姉ちゃんを、笑顔にさせた?


 友達?それとも・・・。


「・・・・・!」


 途端、心根を震わせるような音が響いた。それは、姉が生み出した世界の音だった。眼では追い切れないような指の動きは、心では追い切れないような音になる。一目で、いや、一聞きで分かった。


 それは、姉の努力の音だった。


 いつもの凜々しい顔つきで、真面目な顔で。姉は音を奏でていた。だけど私はその姿が、一番笑顔に見えた。一番、お姉ちゃんが幸せそうに見えた。


「・・・・・そっか」


 お姉ちゃんは、音楽が好きだったんだ。初めて知った、初めて知れた。お姉ちゃんの、好きなもの。


 それが、お姉ちゃんが笑顔になった理由なら。


 生きる意味なら。


「私でも、受け入れてくれるかな」


 私は、静かに扉を閉めた。気付けば私は、笑っていた。


 お姉ちゃん。


 私、もう一回頑張ってみる。


 お姉ちゃんに、受け入れてもらえるように!


 誰かじゃなくていいなら。


 きっとお姉ちゃんは、私を見てくれるよね。


 私の音を、見てくれるよね。


 私は走って、受付まで戻った。そして店員に食いつくように、カウンターから身を乗り出す。


「すみません、店員さん!」


「はい、なんですか?」


「ギターって、おいくらですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すれ違う二人 青葉 千歳 @kiryu0013

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ