濃霧のミュシャ
モジャモジャの頭。割れたゴーグル。汚れ切った白衣。
月光を捕まえた蜘蛛が上機嫌に巣穴に潜っていく様を
まじまじと見送った痩せぎすな男は、充血した双眸を私に向けた。
何故ここにいるのか? という私の質問に
彼はぼんやりと、しかし、説くような口調で答え始めた。
「人は水で出来ている。なれば母である海を求めて悪夢に来るのは自然な事さ。
ああ、君が言いたい事は分かる。肉体が無ければ水は伴なわない。
でも君は知っているだろう。我らは悪夢の中でも水を伴う。
……血が流れているのだ。非常に興味深い話じゃないかね。」
「病から逃れ、真菌の海で、さらに底知れぬ病に、またの名を呪いに罹る。
俗物に相応しい実に哀れな末路じゃないかね。君。
そうだ、しかし、どうしても求めてしまう、そうだろう、君?
理由など無くとも、物事を達観できずとも
熱狂のままに前進してしまうのは人であるが故さね。
心が若さ故の熱狂を得てしまった以上、身体は前進する事しかできない。
そして前進してきた若者がいたからこそ文明は発展してきた。
これも分かるかね君?
……それに生物は生まれながらに呪われている。
特に悪夢を悪夢と認識できる高度な知能を持つ獣は強く呪われている。
黙っていたら遅かれ早かれ餌食になっちまう。
誇り高く前進したまえよ? 君。」
「君、若者だけが持つ熱狂に疑問かね?
誇り高い熱狂は、若者しか抱かぬという事に疑問のご様子だ?
君はまだ、若いな、若い若い、見た目は壮年だが、ともすれば、うん。
実のところ、見た目以上なのかも知れないが、本質は若い。
君の故郷と思わしき、東の民が、……ああ、失礼、顔で判断してしまった。
しかし、君が育ったであろう東の民の人間が、君に言わなかったのであれば
この濃霧のミュシャが、君に良い言葉を教えてあげよう。
ル・イェの賢人達が導き出した考え、そして君にとって
とても有益な、そう、有益な言葉を教えてあげようじゃないか。
人はね、人は何かを得ようとする限り、皆若者なのだよ。
熱狂の最中にいるのだ……!
だから、事実、そう事実としてだ!
人間はなにかを追い求める限り老いなど超越するのだよ!
追い求める限り、神に触れる機会を与え続けられるのだよ!
分かるかね? 君?」
「君、なぜ血が、獣の中を流れる液体が赤いのだろうね。答えられるかね?
ああ、違う、違う! 科学的な答えを聞きたくて、この質問をしたんじゃない。
私が聞きたいのは熱にあてられて火照った脳みそが送る狂った信号。
骨がひとりでに動き出し、歪んだ声帯が外に送り出すその呪詛だよ。
ハハハハハ……!」
風変わりな巡礼者だ。
彼らを見ると、狂気とは人の内に存在するのではなく、
狂気の中に人の形があるように思える。
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