異世界【二】
さっきまでの照れは慣れに変わったみたいで、繋いだ手はすっかり馴染んでいる。僕が歩き始めると素直に引かれるがままにメアがついてきた。シュナも同じようにしている。
「あまり離れないで。迷わないけど、見失うから」
分かれ道はないものの、虹色の霧が立ち込めたり消えたりを断続的に繰り返していた。セリナさんの言う通り、離れると何かあった時に対処ができない。
この黒い海に落ちるとどうなるのとメアが聞いてきた。僕もどうなるかは知らない。
着くまでのお楽しみ、と言ってルルコットが向こう側の世界のことをほとんど教えてくれなかったので、僕たちは歩きながら想像を膨らませて遊んだ。メアが「向こうの世界でお金って使えるのかな」と言い出してからその話が始まった。
そこに気付けたのはえらい。
歓迎されるだけ歓迎されて、何も勉強できずに太って帰ったら怒られるかな、とか無用の心配をしたりした。他には、そこは小人の世界で、お城といっても小さすぎて誰も入れなかったりとか。人魚の世界で、着いたとたん水中でみんな溺れたりとか。言葉が通じなかったりとか。いきなり襲われたりとか。果ては、すごく気に入られてしまって、元の世界に帰してもらえなかったり、とか。
「――ルルコットの紹介だからそんな危険なとこじゃないと思うんだけどね」
シュナとメアの想像がだんだん良くない方に向き始めたのでそっとフォローする。
「『針』は、向こうに着く前でいい?」
そういえば、とセリナさんがわざとらしく思い出したように僕に聞く。実はこの瞬間も、タイミングをうかがっていたに違いない。刺したがりのセリナさん。
「それなんだけど……なんていうか、もう少し軽いのってないの?」
「軽い、の?」
なんとも言えない表情を見せるセリナさん。僕に今のこの姿に見合った言葉遣いをさせることに対して、尋常じゃない執着を抱いているように感じるのは、僕だけだろうか。
「僕が僕じゃなくなるんじゃなくて、少しだけは僕の意識がちゃんと残るみたいな――」
「お兄ちゃん、なんかすごく頭悪く聞こえるよ」
「メア、うるさい」
セリナさんの針は闇魔法とか精神魔法のように思えるけど、脳を走る電気信号を操る魔法なので電撃魔法に分類される。セリナさんの得意分野だ。
「じゃあ、元の人格の意識はあるけど、表に出ている人格は自分の意思じゃ制御できないくらいに――」
「こわいねその設定」
「あ、見えてきましたよ!」
シュナが一番最初に声を上げる。それからメア。最後に僕が気付いた。今のこの姿はオーバードライブと違ってただ
霧の切れ目から、おぼろげながら目的地の柱が見えた。特に何の反応も示さないセリナさんは、ずっと前から気付いていたんだろう。
「あれ? でも様子が変ですよ」
近付くにつれて、よりはっきりと形が分かる。来る時にくぐった門より少し小さいくらいで、その他は同じ形をした門が立っていた。橋は、そこで途切れていた。僕たちを迎えるはずの門が、今は何の気配もなく、ただただ無機質な壁となって佇んでいた。
「お兄ちゃん、道間違えたんじゃない?」
「一本道だよ」
思わずセリナさんの顔をうかがう。
「まだ、少し早いから」
懐中時計を取り出し時間を確認しながらセリナさんが言った。
「ちょっとどきっとしました」
シュナが僕の手を握る手の力を緩めた。気持ちは僕も同じだったけど言わないことにした。
そして思い出す。
「そろそろ手は放しておいた方がいいと思うんだけど――大丈夫そう?」
せっかくだからメアとシュナにも魔力でのコーティングを練習してもらおうと思っていたのに、話に夢中になっていたせいでここまでずっと手をつないだまま来てしまっていた。
「あ、はい、そうですよね」
なんのためらいもなく、すっとシュナの手が離れた。僕が流していた魔力が指と指で繋がって、伸びて、切れた。
魔力で体を覆うには、簡単に分類して生成から精練、放出、定着、安定までの五つの工程を踏む必要がある。元の世界とは違うこの環境で安定状態までもっていくまでには、慣れないうちは数分かかってもおかしくはない、はずなんだけど。
「綺麗にできてる。薄くてムラもない」
セリナさんがシュナを見て言う。
僕みたいな普通の人は目で見るだけで魔力の流れを把握することはできない。
「ありがとうございます」
少し照れて応えるシュナ。
「クレフより上手」
「セリナさんそういうの言わなくていいから」
「クレフより、上手」
「なんで二回言ったの!?」
「ねえ、私もやってみたい」
「これでメアも僕よりうまくできたらもう立ち直れないかも」
「あれ、お兄ちゃん落ち込んでる? いつもならここで『シュナができたからってメアにできるわけじゃないから』とか言うのに」
「言わないから」
右の手も離す。
「えっと――どうやるんだっけ」
「離してから聞くの!?」
「昨日聞いたからできると思って」
「昨日やってみてできてなかったでしょ」
失敗するのは目に見えてる。
「じゃあメアが慣れてる『
けどメアもやりたいと言ってるし、せっかくだから実際に体験してもらうことにした。
「まずは普通に魔法を発動するみたいに――うわっ!」
思わず飛びのいて、シュナを僕のマントの影に押し遣る。
予想以上に早い失敗だった。
「わ、ごめんお兄ちゃん――」
スパークノック。
メアの周囲に、ぱち、ぱちと火花が弾ける。魔力を精練するより早く、生成後すぐに体外に放出してしまった時に起きる現象だ。
僕が言う前に勝手に魔力を大量に生成したな。
「あ、あれ?」
それはだんだん大きくなり、火花は炎となってメアの体を包み始める。
これは危ないな。
セリナさんが何かするより一瞬早く、僕は炎の渦に腕を突っ込んだ。
「大丈夫」
メアの肩をぐっと掴む。僕の魔力が目に見える形でメアの体を黒く包み込んでいく。炎は燃焼させる酸素を失ったかのように次第に小さくなっていく。
「落ち着いて」
「……昨日はこんなのならなかったのに」
メアがちょっとした涙目で僕を見る。僕の腕を両手でしっかりつかんで離さない。
「昨日は練習だったからね」
僕たちの世界でやるのと、ここでやるのとでは、まったく状況が違う。この環境下では本当に丁寧に抑え込まないと今みたいに弾けてしまう。
炎と火花が完全に収まったのを確認して、僕の魔力を六から
「だ、大丈夫なんですか」
シュナが心配そうな顔で聞いてくれた。
「うん、すぐ止めたからね。しばらくほっといたとしても今のメアなら五分くらいは倒れずに
魔力保有量が少ない人なら三十秒も保たずに倒れてしまう。
「じゃなくて、クレフ様の腕が――」
「――腕?」
「あれくらいなら、クレフは大丈夫」セリナさんが間に入る。「もしあれで火傷する程度なら私が――」
その後に続いた言葉は、声が小さくてちゃんと聞き取れなかった。聞き返すことは、もちろんしない。
「――――」
今度はメアだ。
「どうしたの」
声が小さくて聞き取れなかった。
「――お兄ちゃん」
今度ははっきりと聞こえた。落ち着きを取り戻したメアが、僕の腕をぎゅうと力強く掴む。
「だからどうしたの――っていたいいたい、なに、どうしたの、もう大丈夫でしょ!?」
「お兄ちゃん! こうなるってわかっててやらせたの!?」
こうなるっていうのは、スパークノックのことらしい。失敗するのは分かってたというか、昨日できてなかったんだから当然と言えば当然だった。
「やらせた、ってメアがやるって言って勝手に離れたんじゃ――いたいいたい!」
「なんで止めてくれなかったのっ!」
「いやだからメアが――いたいっ、わかった、ごめん、ごめんってば」
何度も謝って、ようやく力が緩まった。
理不尽だ。
実際に自分が経験してみないからわからないと思ってやってもらってみたんだけど、そもそもメアがやりたいって言ったからなのに。釈然としない。
「――もう、我慢できない」
声が聞こえるのと首筋に針で刺されるような痛みが走るのが、同時。
「いたっ。せ、セリナさん?」
昨日は気付かなかったけど、今日は針を刺されたことがはっきりと分かるくらいの感覚と痛みを感じた。
「…………そろそろ時間だから」
「ちがうよね。なんで今刺したの」
「その姿でなよなよしたセリフ吐かれるの、生理的に無理」
「そこまで!?」
もう少し僕の気持ちを考えてくれるとうれしかった。
「あっと、ごめんシュナ、これからちょっと言葉遣いきつくなるけど、気にしないで」
「は、はい」
「あれ、私にはお兄ちゃん」
「ない」
「わ、ホントだきつくなってる」
「いやまだ平常運転だからね」
針には即効性はなく、効き始めるまで少し時間がかかる。
「すぐ効いてくるから。もう少しの我慢」
「我慢するのは僕じゃなくセリナさんでしょ」
「そろそろ、本当に時間」
また懐中時計を取り出して、時間を確認するセリナさん。ちらっと文字盤が見えたけど、僕には読めなかった。針は五本以上あって、枠も十二分割じゃない。
風が吹くのを感じた。
凪の海が、さざ波を立て始める。空間を遮っているはずの、目の前の二本の柱に挟まれた白い壁から吹いているようだった。風は僕のマントを揺らし、シュナがその裾を掴んでいるのに気付く。
腕をつかんでいたメアは、今は僕の手に繋ぎなおしている。
「少し下がって」
セリナさんが、壁に手を触れた。
対角線上に、稲妻が走る。無機物の壁が命を与えられたかのように身震いし、不安定に色を変え始める。しばらくしてその姿は濁った赤褐色の水面になって落ち着いた。
「じゃあ、どうぞ」
垂直の水面から手を放したセリナさんが声をかける。
「え、ディア失敗した?」
ルルコットが作った門の景色とあまりにも違うのを見てメアが聞く。
「してない。向こうの世界は、こっちからちゃんと見えない」
ちゃんと見えないというのは、おぼろげに見えているからこの色になっているということなんだろうか。到着する先がマグマとか血の海とか嫌なイメージでしか想像できない。
「ここくぐるの、なんか服が汚れそう」
「メアさん、本物の水じゃないですから、大丈夫ですよ」
シュナがそう言いながら、しれっと先にメアをくぐらせようとする。
「向こうも待ってるから、早く」
「やっぱり
最初からそのつもりだったのでそれはそれでいいんだけど。
「向こうで『お兄ちゃん』なんて、間違っても呼ぶなよ」
「え、じゃあ何て呼べばいいの?」
「知らん。自分で考えてくれ」
俺はメアの手を離す。さすがに手を繋いだままの挨拶は憚られる。覚悟を決めて、目の前の濁った『航りの口』に足を踏み入れた。
水面に顔を突っ込んだかのような感覚に襲われ、思わず目を瞑る。
ただ、それは視界だけの話で、実際に何かが触れる感覚はなかった。門をくぐる間だけならば実際に二、三歩とないはずだと思い、俺は目を開けた。
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