三章 異世界
異世界【一】
「わ、なにこれ?」
今朝は、準備ができた人から順に集合していた。一番最後にやってきたメアが、『
ダンジョンの中。ディアフォールが戦闘を繰り広げていたあの大部屋に、今は二本の巨大な石柱が出来上がっていた。それは天井に少し届かないくらいの高さで、両の柱の上に一本の組み木が笠掛けられている。そうして門の姿となったその柱の間からは、岩肌が囲む閉鎖的な空間とは全く違った景色が広がっていた。
黒い海の上に薄く透き通るような青い橋が、ここからは見えないどこか遠くに向かって架かっている光景。それははっきりとしたものではなく、
「ここから歩いて『向こう側』に渡るんだ」
「え、歩くの!?」
メアが手に持った大きなドラムバッグを落とした。
黒と赤を基調にした炎帝の装備を纏ったその姿は、肩を露出して涼しげだった。
「転移門と違うからね。それでも、三十分くらいだよ」
僕は腕と脚に、ルルコットに用意してもらった黒の魔導装身具を身に着けている。今のこの成長した姿は筋力も上がっているとはいえ、重く煩わしい。全身金属の鎧を身に着けてこのダンジョンに挑む勇者や戦士を尊敬する。
「そっかよかったー。隣の世界まで歩くって言うからどれだけ歩かされるのって――わ、お兄ちゃんそれ暑そうだね」
メアが僕の姿を見て言う。
僕は何も答えない。
何度も断ったのに、セリナさんに紫のマントを身につけさせられた。
小脇に抱えていた魔導書を栞の挟まったページで開いて持ち、逆の手でメアが落としたバッグを拾う。慣れていないから、こうしたちょっとした動作でもマントや装備が邪魔になる。
「手に持っておきたい荷物は入ってない?」
「あ、うん。ありがと」
「百二頁――覚えといてね」
「え、無理。シュナちゃん、ひゃくにぺーじ」
「あ、はい」
魔導書の力を発動する。僕の右手の荷物が風の渦に包まれ、ふわりと上昇して左手の白紙の見開きに吸い込まれていった。渦が消えると、左側の頁に平面になったメアの鞄が描かれていた。
僕は栞をはさんで本を閉じる。これでみんなの荷物が揃った。
「まだちょっとだけ時間があるかな」
思ったよりメアが来るのが早かった。やっぱり一番最後だったけど。
「あの、この門はどうやって作ったんですか?」
シュナが僕を見上げて聞く。メアとは対照的に露出が少なく、正装然とした印象を与える格好をしていた。白をベースに、淡いピンクのレースで装飾されたロングスリーブのシャツと、深緑のサーキュラースカートを身に纏っている。バングルは両手と両足に忘れず装備されていた。
「僕が作ったんじゃないんだけどね。ルルコットが昨日のうちに」
「でも、夕方まではなかったと思います」
シュナがコノハさんを見る。この後のダンジョンの開場準備を終えて、見送りに来てくれていた。
「確かにそうだ。わたしたちがここにいたんだからな」
コノハさんがシュナに同意する。
「昨日の夜に作ったのよ。作り方は、そうね、媒介を造形するときと同じだと思ってもらえればいいかしら」
ルルコットが説明する。例えばシュナが、バングルを媒介に使い魔のゴーレムを造形するのとやり方は同じだと言う。
「シュナ、多分理解できないから聞かない方がいいと思うよ」
一晩かけてじゃなくて、夜寝る前のちょっとの時間に『航りの口』を作る方法なんて聞いたとしても何の役にも立たない。
「あら。そんな心構えじゃ向こうで何も学んで来れないわよ?」
「物事には順番があるの。あんまり遠くばかり目指してると、自分がちゃんと進んでるのかどうかもわからなくなるでしょ」
「そうかしら。意外と夢はすぐ手の届くところにあるかもしれないじゃない――ね」
ルルコットがシュナに微笑みかける。
「は、はい」
ルルコットはこの世界の理に支配されていないんじゃないかとたまに思う時がある。
「あー、俺も行きたかったなー。二泊三日の世界渡り」
「リック。旅行に行くんじゃないんだから」
「おみやげいっぱい買ってくるからね!」
「……旅行じゃないんだってば」
「向こうでは、できるだけ大人しくしててほしい。恥ずかしいから」
セリナさんが呟いた。
襟付きの白シャツに明るめのブラウンのジャケット。下はタイトな黒のパンツスタイル。普段見ない姿だった。ジャケットはルルコットから借りたらしい。かかとのある靴のせいで、今の姿の僕よりも少し高い。
「それじゃ――準備はいい?」
ルルコットが促す。話している内にいい時間になっていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「シュナ、橋を渡る間は気を抜くなよ」
コノハさんが声をかける。
「はい、先生」
「クレフも、気をつけてな」
「ありがとうコノハさん」
「おみやげは甘いやつな!」
「わかったー」
「はいはい売ってるといいね」
そもそも通貨が同じとはとても思えない。どうやって買うつもりなんだろう。
「もう。緩みすぎ」
セリナさんが注意する。
僕たちは門のすぐ手前で止まった。向こう側に見える景色が陽炎のようにゆらゆらと揺れている。思わず手を差し入れようとしたメアの腕をつかんで止める。
まだ世界が安定していない。
「ルルコット、お願い」
僕の声に応えて、ルルコットが両手を前にかざす。ルルコットが魔法を発動するときに構えるのは、すごく久しぶりに見る。
バシっと短く大気の面が震える音がして、目の前の揺れていた景色が綺麗に固定された。
「じゃあ改めて。いってらっしゃい」
黒の海が、さざ波一つ打たず、すべてを呑み込むように待っている。
その海を越えるように、蒼く輝く重厚な橋が架かっていた。
「――ほら、メア」
メアに右の手を差し出す。
「え、えっと、やっぱりつながなきゃダメ?」
「昨日話したでしょ」
僕たちの体は、この世界に存在しているというだけで、常に負荷を受け続けている。
この世界の
喩えるなら、何か見えない力に常に押さえつけられ続けているようなもので、普段僕たちがその負荷を意識しないのは相反する力を身体の内側から放出して相殺しているからだ。
門をくぐるということは、この世界から出て一時的に理から自由になるということで、急に押さえつけられている力がなくなるということになる。
つまり門をくぐった瞬間――外からの圧力が消える瞬間に、普段身体の内側から押し返している相殺用の力を逆転させないと、生命力とか魔力とかそういう生きるための力をすべて身体から放出し切ってしまう。
「うー……」
しぶしぶメアが僕の手を取る。恥ずかしいよ、と小さく呟く。
「ちょっとの間だけだから」
生命力が体から抜けていかないように、別の力で覆ってあげればいい。メアは昨日試してみてできないことがわかったので、代わりに僕が外からの魔力で制御することになった。肩をつかんでおくとかでも同じことはできるけれど、何かの拍子に離れてしまわないよう手を繋いでおくのが一番よかった。
「――お兄ちゃんだって初めてなのに」
「僕は制御には慣れてるから」
オーバーライドの感覚と同じだ。できれば普段は使いたくない力だけど、こういうときに役に立ってくれたりする。魔導召喚士が媒介を魔力と精霊魂片で包むのも、似た感覚。
「えっと、クレフ様。その、私も、いいですか?」
「――シュナ?」
「私も、初めては、ちょっとこわいので……手を……」
「えっと、僕はいいけど」
昨日はコノハさんに見てもらいながらやってみて、その時は何の問題もなくできていたのに。僕の左手は本を抱えているせいで塞がってしまってる。右手はメアに。
メアが何か言おうとしたけど、それは他の四人の声にかき消されてしまった。
「おい、なにいちゃいちゃやってんだー」
「ねえ、そういうのは門をくぐってからやってもらっていいかしら?」
「シュナ、あまりクレフに迷惑をかけるなよ」
最後の声は、向こう側から聞こえた。
「早くしないと時間通りに着かない」
いつの間にか、セリナが門を越えてもう向こう側の橋の上に立っていた。
「――い、行ってきます!」
押し付けるようにしてシュナに魔導書を渡し、空いた手でシュナの右手をつかむ。その手はメアより小さかった。
ぐいと二人の手を引っ張って、僕は門を超える。
「わ、ちょ、急に――」
メアが文句を言いながらもこけずについてきたので気にせずそのまま進む。シュナは僕の横にぴったりくっついている。
背骨から首筋にかけて、ぞわっと嫌な感覚が走る。それを合図に、僕は自分の魔力を二人に流した。
「――はぅ」
「きゃっ」
人の魔力が流れてくる感覚も、そう慣れるものじゃないと思う。二人はそれぞれの悲鳴を上げながら門をくぐった。
「それじゃ、四十八時間後にまたこっちから開くから――向こうの十時でいいわ。時間、間違えないようにね」
声に振り返るとルルコットが手を振っているのが見えた。
と、急に元いた世界の景色が消え、視界が石灰色の壁で覆われる。
門が、閉じた。
「お兄ちゃん、これって戻ってこれなかった人いるの?」
「こわいこと聞かないでよ」
「そもそも時間に間に合わないと、戻る前に向こうに出れない」
いつのまにかさらに先の方にセリナさんが進んでいた。
「え、だめじゃん急がないと。ごーだよお兄ちゃん、ごー!」
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