12.

 正常に戻ったナビの表示に従い、西へ向かう県道へ出た。

 市街地が終わってしばらく走ると、道から少し離れた丘陵の斜面に葡萄ぶどう畑が続く地区に入った。

 のどかな田舎道が続く。

 運転席の窓を開けて五月の風を呼び込んだ。

「気持ちいいな」僕はつぶやいて、車内に入ってくる走行風をいっぱい吸い込んだ。

「ねぇ、充電して良い?」とサトミ。

「USB?」

「うん」

「ここにある」僕は、センターコンソールのUSBソケットのキャップを外した。てっきり携帯電話か何かを充電するのだと思っていた。

「ありがとう」

 サトミは、ももの上に置いてあった銃を取り、グリップの底のふたを開け、中からコードを引っ張り出し、ジムニーのUSBソケットに差した。

 ……おいおい、その凶器、USB充電かよ……

 グリップの中に収納されていたコードは案外長く、ソケットに差したまま、彼女は銃をももの上に戻した。

 山あいの県道をジムニーが走る。

「人間が……」サトミがつぶやくように言った。「人間が『消滅』したところって見たことある?」

「あるよ。サトミは無いの?」

「うん。無い」

「ええ? 本当かよ?」

 ちょっと信じられなかった。

 現在、消滅せずにこの世界で生きている人間は、ごくわずかだ。

 つまりたった七、八年で、全世界のほとんどの人間が消滅したわけだ。

 大都市なら数百万人から一千万人近い人間が次々に消えていった。

 サトミの住んでいた町にどれだけの人間が居たのかは知らないが、普通に生活していて人間消滅現象を一度も見た事がないというのは、確率的に、ちょっと信じられなかった。

「私、引きこもりだったから」

「お前、さっき『人が恋しい』とか言ってなかったっけ? 孤独が苦手なのに、引きこもりなんかしてたの?」

「パパが居たからね。誰かが一緒に居てくれれば大丈夫なの。そういう人が一人でも居れば、孤独じゃないの」

「ふうん……仮に引きこもりだったとしても、ネットぐらいは、やってたんだろ?」

「うん」

「ネットの動画とかニュース配信とかでも『人間消滅現象』を流してたぞ? それさえも見た事ないってのか?」

「まあ、それは、あるけど……でも、ああ言う画像とか動画って、いくらでも細工できるじゃん? フェイクの可能性を捨てきれないって言うか、どうしてもそういう目で見るから嘘っぽく思えちゃうんだよ……ケンゴウくんは、見たことあるの? つまり……じかに自分の目で、って意味だけど」

「あるよ。本当に何の前触まえぶれもなくフッ、て消えちゃうんだよ。最初の頃は、僕も周囲のやつらも驚いてたけど、この頃じゃ慣れちゃって『ああ……今、消えたなぁ』くらいにしか思わなくなってるよ」

「服とかも、一緒に消えるの?」

「うん。キレイさっぱり消えて無くなる。そんなやつ最初から居なかったみたいに」

「ハンドバッグとか、傘とか、手に持ってるものも全部?」

「うん」

「そっかー」

「何で?」

「まあ、こんな世界だから、いつか自分が消滅するかもしれないってのは、ある程度覚悟してるよ。私だけじゃなくて、ケンゴウくんだって、他のみんなだって、そうでしょ? ……でも、それまで着てた服を残して消えちゃうのは嫌だなぁ、って」

「何でだよ」

「だって……それまで身につけてた下着とかだけ残るのって、嫌じゃない? ……なんか恥ずかしいし……誰が拾うかも分からないって思ったら気持ち悪いし」

「そういう物かな」

「うん」

 

 * * *


 さらに一時間、僕らとジムニーは県道をひたすら西へ進んだ。

 葡萄ぶどうの木がズラリと植えられた丘の斜面は、いつの間にか、延々と続く野菜畑に変わっていた。

 そのだだっ広い野菜畑の真ん中に、大きな温室が五棟並んだ場所があった。

 ビニールハウスじゃない。

 アルミの骨組みに大きなガラス板をめ込んだ立派な温室だ。

 その温室の脇に、擬洋風というか、明治時代に建てられた和洋折衷館のような奇妙な建物があった。

 温室とレトロ擬洋風の建物は、県道からは少し(四、五百メートルくらいだろうか)離れた場所に立っていた。

 良く見ると、洋館から細い道が畑の中をぐ県道まで伸びていた。

 細い道と県道の合流点に丸木の柱があり、木の看板が下がっていた。

『温泉カフェ〈富士桜亭ふじざくらてい〉』

「ええ? 温泉と……カフェ?」サトミが首をかしげる。

「富士桜って、この県の花だったっけ?」

「え? ああ、うん、たぶん……ケンゴウくん、良く知ってるね」

「何かで見たのをふと思い出しただけ……寄ってこうか?」

「ええ?」

「良いじゃん。喫茶店ならモーニング・セットとか、サンドイッチとか、何かしら食べる物があるだろ。僕、腹が減ってるんだ。誰かさんが鮭おにぎり食べたせいで、さ」

「……」

「それに、風呂にも入りたい。温泉に入って、それから優雅に朝食とコーヒーなんて、車中泊明けとしちゃ上出来の朝だよ」

 僕は、サトミの返事を聞く前にハンドルを切って県道からその『温泉カフェ』とやらに向かう小道へジムニーを向けた。

 フロントガラス越しの真正面に見える温室と擬洋館は、野菜畑のうねが延々と続く広い平野の真ん中にあって、まるで離れ小島のようだった。 

「駐車場もあるみたいだ」と僕。

「営業してるとは限らないじゃない?」

「そん時は、引き返せば良いだけの話だろ」

「そうなんだけど……」

「何だ、乗り気じゃないのか」

「だって、さっき鮭おにぎり食べたばっかだし、家を出るときお風呂にも入ってきたし……とくべつ必要を感じないって言うか」

「だったら、コーヒーでも飲んで僕が風呂から上がるのを待っててくれよ」

「入らないとは言ってないでしょ。そりゃ、入りますよ。せっかくの温泉なんだから」

「どっちだよ」

「だから、ケンゴウくんが入るなら、私も入るって言ってるの」

 そんなことを言ってるうちに、温室と擬洋館は見る見る近づいて、僕はジムニーを『駐車場』と書かれた立て看板のある砂利を敷いただけの広場の片隅に停車させた。

 僕は自動車くるまを降りて後部へまわりハッチを開け、タオルと液体石鹸のボトルを持った。

 その間にサトミは後部座席のドアを開け、スーツケースの上に載せて運んでいたボストンバッグを手に持った。

「ええ? たかが温泉に入るだけなのに、そのカバン丸ごと持って行くのか?」

 僕が驚いた声を出すと、サトミは僕の手元を見て逆に驚いた顔を作って言った。

「ええ? お風呂に入るのに、それだけしか持って行かないの?」

「うん。タオルに石鹸。それ以上に何が必要なんだよ」

「し、し、下着は?」

「昨日の朝に履き替えたから、今日は別に良いや」

「良くないって! ちゃんと履き替えてよ」

「別に良いって。あと四日はこれ一枚で持たせるつもり」

「良くないって!」

「何で、そんなに神経質なんだよ? サトミには関係ないだろ」

「ありますっ! 例えばですよ? お祭りの屋台で焼きフランクフルトを買ったとします」

「突然なに言い出すんだよ」

「まあ、聞きなさい……屋台のおっちゃんが、焼いたフランクフルトを包み紙に入れて渡してくれました」

「うん。それで?」

「受け取った焼きフランクフルトを見たら、包み紙が汚れていました。あなたなら、どう思いますか?」

「そりゃ、嫌だな。包み紙が汚れているってことは、中に入れたフランクフルトも汚れているかも知れないじゃん。食べ物ってのは、はらん中に入れる物だからな。ちゃんと清潔に保つってのが一番大事だろ」

「はいっ、そのフレーズをもう一度! 『お腹の中に入れる物だから……』」

「せ、清潔が一番大事……」

「はい、もう一度!」

「お、お腹の中に入れる物だから、清潔が一番大事」

「はい、もう一度!」

「お、お腹の中に入れる物だから、清潔が一番大事」

「はい、もう一度!」

「お、お腹の中に入れる物だから、清潔が一番大事」

「わかった? じゃあ、ちゃんとパンツも替えてちょうだい」

「いや……フランクフルトの包み紙が汚れてんのと、僕がパンツを履き替えないのと、何の関係があるんだよ」

「はいっ、さっきのフレーズをもう一度!」

「お、お腹の中に入れる物だから、清潔が一番大事」

「それが、共通点です」

「はあ?」

 いまいち、この女の言ってる理屈が分からなかったが、これ以上議論するのも面倒臭めんどうくさかったし、早く温泉にかりたかったから、ここは大人おとなしく新しいパンツを持って行くことにした。

「ちょっと待った!」さらにサトミが僕にダメ出しをする。「それ、そのまま持ってくつもり?」

「うん」

「ってことは、お風呂から出る時には、古いパンツをじかに持って出る、って事だよね?」

「ああ、そうだよ」

「いやいや、それも駄目っしょ……ちょっと待ってて」

 サトミは自分のボストンバッグの中をゴソゴソやって、中ぐらいのレジ袋のようなものを出して僕に渡した。

 コンビニやスーパーでよくもらう半透明のやつじゃなくて、真っ黒で中身の見えないタイプだった。

「これ、あげるから。それに一式入れて持って行って」

 別に拒否する理由も無かったから素直に受け取って、タオルとパンツと液体石鹸のボトルを中に入れた。

「さあ、これでもう良いな?」

「うん」

 サトミが後部座席のドアを閉めて、僕はリアハッチを閉めリモコンキーでロックを掛けて、二人並んで、温泉カフェ〈富士桜亭ふじざくらてい〉とやらの入り口へ向かった。

 行ってみると、どうやら営業しているようだった。

 建物の中に入る直前、サトミが「ちょっと待ってて」と言って、小走りに駐車場へ戻り、すぐにまた建物入り口に帰って来た。

「どうしたんだよ」と僕がたずねると、サトミは「えへへ」と笑った。

 笑いながら、こう言った。

「怒らない?」

「何で僕が怒るんだよ?」

「絶対に怒らないって、言って」

「はいはい分かった分かった。絶対に怒りません」

「じゃあ、言うね……ケンゴウくんの自動車くるま、銃で撃って来た」

「はあっ?」

「だって、私が温泉に入っている間に、ケンゴウくん逃げるかも知んないじゃん。だから、逃げらんないように銃で撃って来た」

「はっ、あー?」

「あの自動車くるま、今から最低一時間は動かないから」

 怒りのあまりその場から動けなくなった僕を一人置いて、サトミはサッサと建物の中へ入って行った。

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