9.

 朝起きて、まず、すべき事。

 布団をたため。

 ベッドなら、掛け布団の乱れをきっちり直せ。

 車中泊なら、寝袋を畳め。

 車中泊仕様の車内を整頓して、普通の状態に戻す……目覚めた直後に必ず行う儀式だ。

 寝袋を畳んで巻いて収納袋に入れ、その下に敷いたエアーマットを畳んで巻いて収納袋に入れ、バックレストを倒した助手席の座面に置いた板切れを片づけて完了。

 気ままな一人旅なんだから、寝袋広げっぱなしの〈万年床まんねんどこ〉でも良いようなものだけど、やはり『朝起きて寝袋を片付け、夜寝るときに敷き直す』という儀式を毎日繰り返したほうが、いかにも旅をしてる、って感覚に浸れる。

「その日その日、寝る場所を変えながら旅をしているんだ」という感覚……旅情ってやつだ。

 寝床を片付けて、最後に助手席の背もたれとヘッドレストを元に戻し、これでいつでも出発できるぞという形にしておいて、首にタオルを巻き、旅行用歯みがきセットを持って、車に鍵を掛け、公園の中に入った。

 公園入り口の案内地図でトイレの位置を確認し、朝の用足しを済ませ、洗面所で歯を磨いて顔を洗い、タオルで拭いて自動車くるまに戻った。

 次は朝食だ。

(……そう言えば、昨日コンビニでおにぎりを一個買ったな)と思い出し、レジ袋から緑茶の五百CCペットボトルと鮭おにぎりを出し、まずは緑茶を一口飲んで、センターコンソールのカップホルダーに置いた。

 ちなみにジムニーのカップホルダーは、けっこう使いづらい位置にある。

 それはそれとして、次は鮭おにぎりだ。

 おにぎりのラップを剥がそうと、封切りテープを指でつまんだ瞬間、突然、誰かが運転席側の窓を「コンッ、コンッ」とノックした。

 驚いて危うくおにぎりをゆかに落とすところだった。

 昨夜見た、あの不気味な表情の住人たちの群れが脳裏をよぎる。

 ゆっくりと視線を横に向けて、おそおそる窓を見た。

 ジムニーの脇に若い女が立って、運転席の僕を見ていた。

 別に顔色が悪いとか、目がうつろだとか、そんな事はなかった。

 いやむしろ、どちらかというと美人の部類というか、僕の好みの顔ではなかったけど、一般的な基準だと充分に可愛いと言える顔立ちだった。

 柔らかいジャケットにパンツ。ラフな格好に見えるが、生地や仕立ては高級そうだ。

 年齢としは、二十代半ばくらいか。

 小柄で童顔だったから、実年齢より若く見えているかもしれない。

 まあ、何にせよ、幽霊じゃなさそうだ。

 滅びゆくこの世界の〈絶滅危惧種〉……正真正銘の人間さま、だ……たぶん。

 その、小柄で童顔でそこそこ可愛い二十代半ばに見える女が、ジムニーの窓ガラスの向こうで微笑んでいる。

 その微笑みが小悪魔っぽいというか、なんかイタズラをたくらんでいる小学生のような雰囲気なのが、少々気になった。

 窓の外の女が、再度「コンッ、コンッ」と窓ガラスを叩く。

 僕は窓ガラスを少しだけ下ろした。

「こんにちは……じゃない、朝だから『おはよう』……かな」女の声が、その少しだけ下ろした窓ガラスの隙間から聞こえてきた。

 何だ、こいつ。

 やけにれ馴れしい。

「どうも……えっと、何か?」と僕。久しく人間相手に会話らしい会話をしてなかったから、ちゃんとした受け答えが出来ない。馬鹿っぽい単語しか出てこない。

「そのおにぎり、美味しそうね? 中身は鮭?」

 だから何で、初対面なのにそんなに馴れ馴れしいんだよ。こいつ。

 頭のネジが緩いのか?

 この世界には、もう人間はほとんど残っていない。

 人と人とが出会い、こんな風に会話をすること自体、今は滅多に無い。

 孤独には慣れたつもりだけど、人間相手に会話を楽しみたい気持ちは僕にだってある。

 しかも相手は女だ。

 ずいぶん長いこと、女との会話を楽しんでいない。

 ……が、いま窓の外に立っている女は、ちょっと変だ。

 僕の直感が働いた。(この女とは、深く関わらない方が良い)と。

自動車クルマに乗せてよ」女が言った。

「え?」

自動車クルマに乗せて」

「乗せて……って……どこまで?」

「どこでも良い。この町から出て、どこでも良いから連れて行って」

「いやぁ、そう言われましても」

 僕は、そこで初めて、女が大きめのスーツケースをいている事に気づいた。

 旅行? ヒッチハイク? ……なのだろうか?

 こんな住宅街の路地で、か?

 何にせよ、この女は、ちょっと地雷っぽい。

 君子危うきに近寄らず。

 さわらぬ神にたたりなし。

 せっかく出会った、しかも向こうから話しかけてくれた人間、だが、ここは逃げよう。

「すいません……僕、ちょっと、急いでるんで……」言いながら、僕はジムニーのエンジンを掛け、窓を閉めて、ゆっくりと発進した。

「あっ! ちょ、ちょっと待ってよ!」車の後方から、女の叫ぶ声が聞こえた。

 構わず、徐々に速度を上げた。

 バックミラーを見ると、女がジャケットのふところからを出すのが見えた。

「何だ? ありゃ……銃? まさか!」

 女は、その懐から出した銀色のを僕のジムニーに向けた。

 が、いきなり光った。

 直後、ジムニーのエンジンが止まった。

 快調そのものだったジムニーのエンジンが、急に、突然に、止まった。

 エンジンだけじゃない。

 メーター・パネルの全ての表示が光を失った。

 まるで、ブツンっと電気系統のブレーカーが落ちたみたいだった。

 急激なエンジン・ブレーキを食らって前へながら、僕は咄嗟とっさに左足でペダルを蹴って、クラッチを切った。

 ジムニーがゆるゆると惰性で進み、十メートルほど行ったところで止まった。

 エンジンが停止しているから、ブレーキ・ブースターもパワー・ステアリングも利かない。

 何が何だか分からなかった。

(あの女が懐から出した拳銃のようなものから光が出て……それでジムニーが止まった? のか?)

 何だか分からないけど、やっぱり、あの女はヤバい。

 バックミラーを見た。

 そのヤバい女が、スーツケースをごろごろ転がしながら、こっちへ向かって歩いて来た。

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