8.

 小学生時代、僕は宿題が苦手だった。

「宿題が好き」なんて言う小学生は滅多めったに居ないだろうが、要領の良い子供は与えられた宿題を淡々とこなし、さっさと終わらせ、一日の終わりに余裕をもってゲームなりネット配信なりを楽しむものだ。

 ……でも、僕は駄目だった。

 僕の場合、「宿題をやらなきゃ」という気持ちばかりが先行して、机の前には座るけれど、なかなか鉛筆を持つ手が動かず、たまに動いてもノートにくだらない落書きをするばかりで、まだ一ページも進まないうちから「そろそろ気分転換でもしよう」と自分に言い訳をして、とっくに読み終わっているマンガをまた第一巻から読み直して、しかし宿題が気になってマンガの内容も頭に入らず、どっちつかずのまま、ただ時間だけが過ぎていく……という状況を、子供のころ何度も経験した。

 それで、最終的にどうなるのか、どうするのかといえば、すべてを投げて布団の中に潜り込み、あかりを消し目を閉じて暗闇の中に閉じこもる。

 宿題も、学校も、僕をなじる先生の顔も消え去って……つまり世界そのものが消え去って、時間も止まって、ただ安らかな無の空間を漂っているような気分になれた。

 もちろん、それはただの思い込みで、時間は進んでいるし、夜は明けて朝が来るし、朝が来れば親に起こされて学校へ行けと言われ家を追い出されるし、学校に行けば、いつも通りクラスメイトが教室で談笑していて、その屈託のない様子から、彼らは真面目にちゃんと宿題を終わらせて登校している、やっていないの自分だけだと思い知らされ、そのうちチャイムが鳴って先生がやって来て、宿題の回収が始まり、そこで僕は(本当は忘れたんじゃなくて、怠けてやらなかっただけだが)「忘れました」と告白し、先生はクラスメイトたちの前で僕をなじり、クラスメイトは僕を痛ましいような軽蔑したような嘲笑するような視線で見つめて、僕はその視線の集中に耐えられず、うつむいて足元を見る。

 つまり……

『現実逃避では何も解決しない。しかし、逃避している間だけは、とりあえず楽になれる』

 ……ということだ。当たり前の話だが。


 * * *


 遠くで小鳥の鳴く声が聞こえた。

 小鳥の声がだんだん近づいてくる。

 いや、逆だ。

 だんだん僕の意識が浮かび上がって、現実の水面へ近づいているんだ。

 眠りの暗い水中から、現実世界へ顔を出した。

 目を開けた。

 あいかわらずの真っ暗闇、ではなかった。

 弱い光が、空間を照らしている。

 ジムニー車内後部。

 窓に貼った目隠し布のふちから外の光が漏れ入って車内を薄っすらと照らしていた。

 車中泊の時の習慣で、ついうっかり窓をふさぐ黒布を一気に取ろうとして、直前で手を止めた。

(まだ、あの不気味な住人たちが歩いているかも……)

 布を少しだけ折り曲げ、おそる恐る外をのぞいてみた。

 誰も居なかった。

 公園と道路を分ける柵の向こう側で、夜露に濡れた木々が朝日を浴びて細かい反射光を放っていた。

(誰もいない。霧も無い。太陽が昇って町を照らしてる)

 僕は急いで全ての窓の黒幕を外し、朝の光を車内に呼び込んだ。

 運転席に移り、ドアを開け、靴を履いて外に出た。

 良い天気だった。

 大きな公園から、朝と木と夜露の香りの混ざった弱い風がさらさらと流れて来て、僕の鼻をくすぐった。

 五月上旬の、名も知らない町(ナビは信用できない)の、誰もいない公園脇の、誰もいない路上に、僕は立っていた。

「ははは……」

 独り笑いが込み上げてきた。

「初めてだな……現実逃避して良い結果が出たの、初めてだ」

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