全国区の少女
月曜日の早朝、地獄のような四日間を乗り越え、俺はついにレポートを完成させた。フラつく足を叱咤して大学へ行き、血と汗の結晶を収集ボックスにぶち込んだ。これぞ正しく完全勝利。俺は無人の構内で気を吐きながら拳を天に突き刺した。
だが、やはりと言うか、そこからの意識は混濁しており、どうやって家に帰ったのか覚えていない。何度か腹が痛くて便所にいった気もするが、これも定かではない。まぁ、一晩にモンエナ四缶とブラックコーヒー二リットルも飲んでいれば、どんな頑健な胃腸だろうと悲鳴をあげる。健康健全とはかけ離れた四日間だった。結局、現実感を取り戻せたのは水曜日の午後で、俺には火曜日なんて存在しなかった。
「……メールと、着信、がそれぞれ四件。と……」
頭痛に顔を顰めながら身体を起こすと、野菜炒めと炒飯、卵スープがちゃぶ台の上に置かれているのを見つけた。俺を心配して様子を見にきた望が作ってくれたのだろう。「今朝登校前に作りました」という書き置きが添えられている。ラップごとレンジでチンして、ありがたくいただいた。作り置きのものを食べるのは苦手だったが、望が作ったのだと思うと平気だった。それにしても、扉には鍵をかけておいたはずなのだが。もしかしてあいつ、合鍵持ってる?
「私のクラスに転校生が来て、サッカー部に入ってくれました、か。この時期に転校生なんか来るのか」
まだ五月なのに。転校ってことは、インターハイ予選も出れるな。いやいや、出てどうする。人数七人だぞ。勝てっこないだろ、とか俺が言っても意味ないんだよなぁ。あの子たちは当然出ると言うだろう。俺にはその辺の決定権がないから、出るというならそのつもりで準備しなくてはならない。
「……練習見に行くかね」
転校生とやらにほんの少し、小指の先くらいの興味はある。まだ四限に間に合うから、帰りに寄っていけば良い。
その日の夕刻、俺が桜峰のグラウンドに着いた時には、既に練習が始まっていた。攻撃を三人、守備を二人に分けたミニゲームが行われている。小西がキーパーに入っているためフィールダーは五人なのだが、その中に一人、他とは一線を画す動きをしている者がいた。
「あ、きたきた。コウちゃーん。私が作っておいたの、ちゃんと食べた?」
望が大きく右手を振ってくる。子供っぽい体型で子供っぽい仕草をするものだから、真っ赤なランドセルが頭に浮かんだ。
「あぁ食べた。サンキューな。正直なところ、かなり助かったよ」
「よろしい。死人みたいな寝顔してたからね。脈とか測ったんだよ」
「そりゃ重ね重ねどーも。てか、それよりなんだ、あの妙にキレの良いプリンは」
部室棟前で望と合流し、挨拶もそこそこに本題に入る。奇抜な風貌をした見慣れない選手が、跳ねるようにグラウンドを駆けていた。冴えたプレーに思わず目が吸い寄せられる。
「うん。紹介するね、って、呼んだ方がいいか。つーちゃーん! 話してたコーチ来たよー!」
「ん、はーい!」
望の声掛けで他の選手も俺の存在に気づいた。練習を一旦切り上げて集合してくる。全員の「小走り」を見て、古い記憶が蘇ってきた。
ーーあのスピードじゃ、グラウンド一周だなー。
中学の部活では、練習中の集合は全力ダッシュが基本だった。一人でも手を抜いている奴がいると顧問が判断すれば、連帯責任でグラウンドを一周走らされるのだ。これは完全に顧問の主観なので、機嫌の悪い日はほぼ毎回走らされた。昔は無意味なシゴキだと思って陰で散々文句を言っていたが、今思えば、あれはあれでチームを統率する手法としては効果的だった。いや、俺の青春は今はどうでもいい。六人の中でただ一人、俺と同じ速度感覚で駆けてくる子こそが、件の転校生だ。
「ハーイ! どーも初めまして! 東京の烏沢学園から転校してきました、阿部翼でーす!」
頭頂が黒、側頭が金色というおかしな色合いのボブカットが、俺の鼻先で揺れる。近くで見れば余計に、この子にはこんな派手な髪型は似合っていないと思えってしまう。顔立ちそのものは割と整っているのだが、全体的に地味なのだ。髪色ばかりが悪目立ちして、せっかくの可愛らしさが引っ込んでしまっている。なんとも残念な存在だった。
だが、それ以外は至って普通の少女だ。身長は望と同じくらいで、どちらかと言えば小柄な部類に入る。体型も、どこにでもいるありふれた少女そのものといった感じで、特筆するような点はない。名付けるとしたら子リスが一番近しい。
「皆んなにはつーちゃんって呼ばれてまーす! よっろしくネ!」
そんな誰が見ても小市民な少女が、「キャピーン」という音の出そうなポーズを決めている。横ピースとかウィンクとか。それらは完全に、「イケてる女子高生」のイメージを間違って集めた結果だった。そんな「物」を見せられた俺は、出会い頭にショートアッパーをかまされたような気分だ。あまりに痛々しい転校デビューに、こっちまで恥ずかしくなってくる。ただ、やってる本人が一番恥ずかしいらしく、口元をワナワナさせていた。他の部員も交えたしーんとした沈黙が続くと、
「……スイマセン調子乗りました。どうぞご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします」
小さくなって謝ってきた。深々としたお辞儀つきである。声のトーンが二オクターブくらい下がった。
「ちょっと。コウちゃんダメだって。つーちゃんは頑張って転校デビューしようとしてるんだから、そんな目で睨んじゃ萎縮しちゃうでしょ」
「別に睨んでねぇし転校デビューを転校先が応援するってどんな状況だよ」
「私らもわかんないけど、とにかく可哀想でしょ。ほら見てよこの居た堪れない空気!」
全員がしらーっと沈黙している。
「空気が見れるか。てか慣れてんならお前らがもっとカバーしてやれよ。どんなシュートでもこぼれ玉は狙っておくもんだぞ」
「こ、コーチ……。全部聞こえちゃってますから、その辺でそろそろ……」
小声で言い合ってたつもりだったが、まるっと筒抜けだったらしい。遠藤が子リス娘の背中を撫でながらやんわりと止めに入ってくる。その仕草に、一応仲良くやっていることは察せられた。話を戻す。
「東京の、烏沢か。割と強いとこだな」
私立烏沢学園は男女共学の中高一貫校だ。特色のない平々凡々な私立校だが、一度都大会で戦ったことがある。日本の高校生チームだと言うのに、平均身長が百八十センチ近くあったから印象に残っていた。
「あのねコウちゃん。烏沢学園って、私らの代の全中の準優勝校なんだよ」
「は? 全中?」
ちょっと信じられないことを聞いた。超の付くエリートじゃねぇか。角で小さくなっている転校生が途端に違って見えてくる。
「えっと、君はそこ出身なんだよな」
「モチのロンさ! 烏沢学園中等部卒業だよ!」
ふっと元気を取り戻した。
「試合、出てたのか?」
強豪チームでは試合に勝つことよりも、ユニフォームを貰うことの方が難しかったりする。毎日の練習が厳しい競争であることの苦しさは、俺が一番よく知っている。だからこそ、強豪チームで試合に出ているのといないのとでは、天と地ほどの差がある。それは実力だけではなく、メンタルの部分でだ。
「ふふん。まぁそこを聞くよね。聞いちゃうよネ! でも安心して欲しいな! 僕、ちゃーんとスタメンフル出場してきてるからさ!」
「あぁ? 僕ぅ?」
「あ、はい。すみません。キャラ付けです。一人称って大事だなって思って」
「……折れるの早ぇよ」
やるならもうちょっと持ち堪えろよ。一秒で本性晒してどうする。脱力していると、
「あなたは目付きが悪すぎるのよ。その眼鏡、度があってないんじゃない?」
久保がつんけんした口調で言ってくる。それなら君だってもっと優しい言い方があるだろうと思ったが、話題を広げるのも面倒なので無言を返事とした。久保も追撃してくることはない。
「まぁ、君の転校デビューについてはぶっちゃけどうでもいい。転校理由も同じだ。俺が知りたいのは、君がどんな選手なのかだ」
良い選手なのは間違いない。全中準優勝メンバーだと言われて納得できるだけの実力があるのは一目でわかった。だが、この選手を正しく評価するには、まだ情報が足りない。得手不得手、身体能力、ポジション。知りうる限りを知ったのち、見極めたい。
「じゃあ、練習に戻るわね。三対二でやってるのだけど、それで構わないかしら?」
「あぁ。攻守や選手の組み合わせは細かく回せよ」
「「はい!」」
鈴の音より清涼感のある返事をして、選手達は練習に戻っていく。集合時の倍以上の速さだった。
横はペナルティーエリアの七割ほど、縦はハーフコートの更に半分の広さで三対二だ。少し広すぎる気もする。
「望、コーンをいくつか出してくれ」
「はーい」
両手でやっと抱えれる大きさのコーンを四つ運んできてもらった。それらをコートの中にランダムに置いていく。置いてみてまだ足りないと思ったので、三本追加する。
「聞いてくれ。このコーンは攻守どちらにとっても相手選手だ。ボールや身体が当たったらインターセプトとして扱うから、それを考えてプレーしろ。当たって転んだりするなよ」
危険度を下げるために重しはつけない。よっぽど酷い転び方をしなければ怪我をすることはないだろう。人数がいないことをカバーするための案山子である。
「それプラス、攻撃側の時間は一分。守備側は奪ったボールを俺か望にパスできたら勝ちだ。ただし、俺達は定位置を作らず、常にウロウロしてるからな。それじゃあ、いこうか」
攻撃側の一番奥から望がパスを入れてゲームスタート。左から仲村、遠藤、久保の三人vs.中沢、子リス娘の二人。遠藤が望からパスを受けた。
「アヤさん!」
すかさず仲村の足元にボールを入れる。対峙するのは中沢。外に追い出す形で身体を半身にして構えている。二人の距離は一メールほどで、ボールを奪い合う間合いではない。中沢は時間を遅らせるつもりだ。
試合中、攻撃側の人数が守備側の人数を上回る機会などほとんどない。相手より一人少ないくらいなら十分ビッグチャンスだ。つまり、この三対二のミニゲームは実戦を模した練習ではない。この練習の狙いは、即断即決の能力を選手達に植え付けることだ。ピッチの至る所にあるチャンス、その中で最も確実な場所を素早く探し出して、迷いなく突く。時間も手数もかけないゴールからの逆算をさせる。そういう練習だ。ゆえに、攻撃側が勝つのは当たり前、守備側は圧倒的に不利な状況だ。
だが、守備側にも勝ちの目はある。時間を遅らせればそれで良いこと。また、ある程度は雑にボールを蹴り出していいこと。完勝の条件として奪ったボールを俺や望に繋ぐという選択肢も用意してはいるが、それは現実的ではない。目指すべきは、セオリーであり定石である「時間稼ぎ」。これが守備側に設けられたタスクとなる。中沢はそのタスクを理解して、飛び込まず飛び込ませずの間合いで対人守備をしているのだ。この時点で、「どうやって抜くか」を最初に思考する仲村は半分負けている。上体の振りのフェイントや、プル=プッシュなどは意味をなさなくなる。更に、俺が置いたコーンが仲村の縦方向にあり、コースを塞いでいる。中沢はそこまで見越しているはずだ。
「アン! 戻して!」
遠藤にボールが戻る。底辺の長い逆三角形型の攻撃側に対し、守備側の二人はその底辺上にポジションを取っている。遠藤がドリブルで仕掛けてきても対応でき、仲村か久保がボールを持てばすぐにシュートコースを切れる絶妙のポジショニングだ。出し手の遠藤からすれば、これほどやり難い状況はない。俺はゆっくりと移動しながら、中沢と子リス娘の巧さに感心していた。この二人なら、一分間耐える程度は問題なくこなす。
すると、久保が敢えて中に絞ってきた。中途半端に広がっているから、守備側がやりやすいのだ。なら選手間の距離を縮めて、短いパスワークで突破すれば良い。短いパスを繋げば、守備側に多数の反転やダッシュを強いることができる。何かに全力を注ぐということは、それ以外に穴を作ることに他ならない。理論上は正しい。
「外!」
久保に縦パスが通る。距離が近いため、遠藤はパス&ゴーで久保の外側からオーバーラップができる。この瞬間こそが真の二対一だ。久保にはドリブル突破と遠藤へのスルーパスの二つの選択肢が与えられる。更に仲村も中沢の裏を狙って走り込む。連動する五人がペナルティーアーク付近に固まった。だからこそスペースが生まれる。
左足でトラップしようとする久保はゴールに対して半身になっている。遠藤へのスルーパスはヒールパスでも狙うつもりだろう。まずはトラップしてから、というプレーだ。今度は久保と子リス娘が対峙する。が、
「カバー!」
子リス娘が声を発しながらインサイドに半歩動いた。これで勝負ありだった。
「ちょ、あっ!」
久保から仲村へのパスコースが完全に消えた。攻撃側の左サイドが無力化し、組み立てが崩壊。久保の選択肢は、キープ、縦に突破の二択となり、またキープの場合は遠藤の動きに依存する。遠藤がオーバーラップしてくるか、それとも動かずバックパスを要求するか。どちらにせよ、ボールホルダーである久保が主導権を持たず、動きが鈍る。
僅か半歩、内に動くだけで時間稼ぎを完璧に成功させた。遠藤と久保の間に距離があることを利用したプレーで、攻撃側は再び一から組み立てなくてはならない。
「なるほど」
マグレじゃない。実際、その後も僅かなステップやターンで攻撃の芽を刈り取り続けている。
「う、わ!」
無理やり抜いてこようとした仲村に子リス娘がショルダーチャージする。ファールではない正当なぶつかり合いで、仲村が大きくよろめいた。頭脳だけでなく、身体的な部分でも他の選手を圧倒している。何とか付いていけているのは中沢だけだ。
「これまたシブい選手が来たもんだな……。本当に女子高生か?」
阿部翼は、インターセプトしたボールをダイレクトで俺にパスしてきた。笑うと八重歯がちらっと出るらしい。
「はい、次いくヨー!」
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