一生不幸のままじゃない



 よくもまぁ。


「そりゃ、最初は人生終わったみたいな気分だったよ。選手としてこれからって時だったからね。何とかしがみつこうと必死になって練習したし、治療したし、生活した。でも、やっぱりダメなものはダメだったみたい。引退させてくださいって自分から言った時は、悔しさで下唇を噛み切ったくらいだ」


 ごちゃごちゃと。


「でもね、だからって僕は不幸じゃないよ。負け惜しみじゃない。確かにサッカー選手ではいられなくなったけど、日本に帰ってきたことで、僕は今の奥さんと結婚できたんだからね」


 恥ずかしげもなく言えたものだ。


「僕は挫折した。それは間違いない。子供の頃からの夢は叶えられなかった。でも、挫折したからずっとそのままなのかと言われると、全然そんなことはない。一度不幸になったからって、一生不幸のままじゃない。大丈夫さ。人生は色んな幸せの選択肢で溢れてる」


 そんなことは、俺だってーー












 桜峰vs市役所のゲームは三十分一本のみを行うことになった。こちら側の体力の消耗が最たる理由だ。特に消耗が激しいのは小鳥遊。次いで中沢、仲村。先週の小学生との練習試合は半日近くやれたが、成人男性相手だとそうはいかない。彼女達は常に全力で走り、蹴り、ぶつからねばならない。一切の手抜きができない試合であれば、一日に一試合、きっちりとトレーニングを積んでいるチームでも二試合が限界だ。

 最後の一本、桜峰の布陣はオーソドックスな三・三・一。ディフェンスラインの右から竹内、中沢、仲村。中盤の三人は外に広がらず、中に寄った逆三角形。遠藤と小鳥遊、そして久保。ワントップには大橋氏が入った。対して、市役所チームも同じ布陣を取っている。ただ少し違うのが、市役所チームは全体的に中に絞っていること。まずは大橋氏を押さえ込まなくては試合にならないからだ。その心理の裏には、女子高生相手ならまず負けないという常識的な自信も見て取れる。戦力的には、大橋氏と竹内を取り込んでやっとトントンといったところか。


「ねぇねぇコウちゃん。竹内さんも凄く上手だよね。性格は軽そうなのに、プレーは正確でどっしりしてる」


 竹内への好感度がぐんぐん上昇している。スポーツの世界において、「上手い」というのは圧倒的なカリスマになる。


「竹内は国体に出たこともある選手だからな。市役所チームの要は大橋氏だが、チームを縁の下から支えているのは竹内だ」


 かつて、竹川南中では俺ばかりが目立っていたが、実際のところ、チームの大黒柱は竹内だった。所詮俺は外見のペラい金箔に過ぎなかったのだ。

 数年経った今でも、竹内はこうして堅実なプレーでチームを支えている。望が言うように、確かな技術に基づいた安定感は職人芸に達していた。見た目に反して戦術眼やインテリジェンスにも優れているので、危険なエリアを見つけて潰すのも上手い。竹内は優秀な潰し屋であり、正確な攻撃の出発点であり、チームに必要不可欠なボランチだった。このゲームでは桜峰のチームバランスを考慮してサイドバックに入ってもらっているが、本職でないポジションでも一級の働きをしている。どこでもプレーできるオールマイティさも持ち合わせているのだ。変な意味に捉えないで欲しいが、はっきり言ってめちゃくちゃ俺好みの選手だった。


 ーー竹内サイドから崩されることはまずない。それは向こうも重々承知だろう。


 そうなると、必然的に仲村の左サイドから攻め込まれる。そしてそれは同時に、左目が見えない大橋氏の力を削ぐことになる。わかりやすく一石二鳥だ。


「コウちゃん、ワザとでしょ」


「何が?」


「惚けるんだ? ワザと竹内さんを右に置いたでしょってこと」


「まさか。自分のチーム追い詰めるコーチがどこにいるんだよ」


「ココにいるじゃんココに」


 非道い偏見だ。多分そうなるだろうなと思って放置しただけなのに。


「その場限りの助っ人だからな」


 女子高生側から合わせるのが難しいだけなら練習にもなるが、この二人だと親切過ぎて勝手に合わせてくれてしまう。それでは助け合いではなく介護だ。せっかく来てくれたのに悪いが、少しだけゲームの外側にいてもらう。

 誰が見ても市役所チームに穴はない。全員が献身的で、止める蹴るが上手い。ミスが少ないため、攻撃が空転しない安定感がある。良くも悪くも「予想通り」のチームだから、遠藤や中沢、そして案外小西がやりやすいだろう。反対に、仲村はかなりやり辛いはずだ。トリッキーな選手である仲村と小鳥遊は、市役所の予想と速度を上回れれば輝くが、まだそこまでの技術はない。今日の活躍だけなら、常人離れした感性を持つ小鳥遊の方が目立っている。まぁ、目立つ目立たないの話をすれば小鳥遊が先頭に出てしまうのは仕方ないが、それはまた別の話だ。


 サイドに張る仲村にパスが出た。左サイドでの展開が増えている。だがそれは相手に意図的に増やされている感じだ。実際、仲村にボールが渡った瞬間に市役所チームのプレスが加速する。うちの中盤は中に寄っているから、遠藤や小鳥遊へのパスコースを切り、敢えて縦にドリブルさせようとしている。縦に行けば相手の思うツボ。だが、難しいことに、中にドリブルする意味も薄い。わざわざ味方がいる場所に突っ込んでいっても仕方ないのだ。オーバーロードをするには八人だと物足りないし、久保が爆弾になる。


「アン! 縦!」


 中にいた久保が縦に、仲村の前にあるスペースに走り込む。タッチラインと平行のパスが出せれば、久保の走力でディフェンダーをひっぺがせる。なんだかんだで自分の使い道をわかっている選手だ。だが、仲村はパスを選択せず、久保の背中を追うようにドリブルを開始した。


 ーー気の強ぇヤツ。


 チームの「穴」でいるつもりはさらさらなく、そう思われているのも我慢ならないらしい。縦に走った久保に追従することで、自分より外、最低でも前にパスコースを作った。パスの選択肢が中だけでなくなれば、プレーの幅が広がる。一つのフェイントの重みが変わる。

 久保につられる形で市役所チームのサイドバックが下がったため、仲村とサイドハーフの一対一。仲村はタッチラインを背負い、右足のインサイドでボールを横に動かして相手のタイミングをずらしにかかる。一、二、三、よ……の瞬間にスピードアップする。と見せかけて右足の小指でボールをチップさせる。重心が傾いた相手の残り脚に引っかからないよう、ワザとボールを浮かせたのだ。やはりこの辺の技術は高い。仲村は中へと切り込むと、すぐに斜めのパスを大橋氏に入れ、彼よりさらに内側へとオーバーラップしていく。外には久保がいるから、仲村は中のパスコースを作る。大橋氏は身体をひねりながら左のインサイドで仲村とワンツーパス。背中にディフェンダーを抱えながらの難易度の高いプレーだったが、仲村の動きにドンピシャで合わせる。バイタルエリア手前に仲村、少し下がって大橋氏、左サイドに久保。そして、スルスルっと上がっていた小鳥遊が右サイド。仲村は小さくキックフェイントを入れ、ディフェンダーを動かしてからペナルティーエリアの角にいた小鳥遊の足元にパスを入れる。

 仲村はそのままニアに走り込み、久保が大外からペナルティーエリアに侵入。大橋氏が久保とクロスする形でファーサイドへ。絶好機を前にして、ピッチ内の緊張感が電流となって高まる。

 小鳥遊は足元にボールを置き、軸脚を固定。まずはニアに蹴るとみせかけたキックフェイント。膝下だけの振りに、寄せてきたディフェンダーが軽く脚を伸ばすだけに止める。二人の読み合いである。

 そして、小鳥遊はクロスではなく横パスを選択した。時間を作っている間に、大橋氏がポジションを落とし、小鳥遊と平行にまで戻ってきていた。マークマンはそれに付いていっているが、小鳥遊と相対している選手は気づいていない。一つ目のキックフェイントがここで活きた。無条件で横パスが通る。ペナルティーエリアぎりぎり中、大橋氏が右脚を振りかぶり、空振った。


「スル……ゥ!?」


 大橋氏の背後に、遠藤が上がってきていた。どフリーの状態だったため、「スルー」と叫ぼうとしていたが、それより先に大橋氏はスルーしている。背中に目ぇついているのかよ。


「おぉ!」


 上から見ていた望も遠藤の上がりには気がついておらず、驚嘆の声を上げた、そして、


 ーー良いシュートだ。


 「打ちごろ」の優しいパスだ。十分にコースを狙えるだけの時間がある。それに対し、遠藤はしっかりとボールを引きつけてインフロントでシュートを放った。最短距離のニアサイドへボールが飛翔する。あとはゴールに入るだけ。


 飛翔するボールを目で追う間、俺は何故か、大橋氏の言葉を思い出していた。


 ーーそりゃ、最初は人生終わったみたいな気分だったよ。サッカー選手としてこれからって時だったからね。何とかしがみつこうと必死になって練習したし、治療したし、生活した。でも、やっぱりダメなものはダメだったみたい。引退させてくださいって自分から言った時は、悔しさで下唇を噛み切ったくらいだ。


 原因不明の病で片目の視力を失ったと言う。遺伝でも事故でも、本人の不摂生でもない。だからこそ納得できなかったはずだ。何故俺なんだと、幾度となく叫んだはずだ。いつまでもいつまでも、閉じた扉を拳で叩き続けてもおかしくない。俺ならそうだ。俺はそうだった。


 現実。どんなに努力しても、才能があっても、本人が望んだ成功を得られるかどうかなんてわからない。得られる人もいるが、それはほんの一握り。それが現実。それがプロ。この世界の至る所に蔓延る「挫折」という名の現実。ボキン、とエゲツない音で折られた精神は、光の届かない暗がりへと落ちていく。俺はそうだ。俺ならそうだ。今でもそうだ。


 だが、小太りのアラサーおじさんは、そうではないと笑った。少し無理矢理感はあったが、それでも、その笑顔は嘘じゃなかった。


 ーーでもね、だからって僕は不幸じゃないよ。負け惜しみじゃない。確かにサッカー選手ではいられなくなったけど、日本に帰ってきたことで、今の奥さんと結婚できたんだからね。


 帰国して働き始めた市役所で、今の奥さんと出会った。交際を開始したのは二年前で、籍を入れたのは半年前。大橋氏の体型は、いわゆる幸せ太りらしい。奥さんと一緒に暮らすようになったこの半年で、体重が十キロ増えた。健康的には普通に危うい状況だが、大橋氏は相好を崩して語る。右頬にできたエクボを見て、あぁ、これがこの人の本当の笑顔なのだと気づかされた。


 ーー今でも夜中に目がさめることがある。できるプレーがどんどん狭まっていく夢に襲われて、冬でも全身汗だくになるんだ。半端じゃない不快感と虚無感で、その日はもう眠れない。でも、そんな時はいつも奥さんがココアを作ってくれる。それを飲む時に感じるんだ。あぁ、自分の人生は間違ってないって。自分は今、最高に幸せだって。


 どんなに苦しい夜も、彼にとっては、ただ苦しいだけではない。


 ーー僕は挫折した。それは間違いないよ。子供の頃からの夢は、あと一歩が足りなくて叶えられなかった。でも、挫折したから一生挫折したままなのかと言われると、全然そんなことない。一度不幸になったからって、一生不幸のままじゃない。大丈夫さ。人生は色んな幸せの選択肢で溢れてる。


 大橋氏は、俺と似ている。サッカーに魅せられて、人生を捧げた。だが、サッカーは俺達の手を取ってはくれなかった。才能とか病気とか、本人ではどうしようもない理由で挫けたのだ。

 だが、この人はそこで立ち止まらなかった。失意の中でも仕事を探し、働き、また別の人生を歩んでいったのだ。そこが俺との違い。人間性の差。


 全てが成功ではなくとも、自分は幸せだと言い切れる。背中に失敗を背負っていても、間違っていないと言い切れる。それが俺との違い。人間性の差。


 ーー俺はいつまで、挫折し続けたまま?


 ボールが飛翔する。その僅かな時の狭間で、俺は思考する。


 ーー俺はいつまで、失敗し続けたまま?


「一度不幸になったからって、一生不幸のままじゃない」


 そんな風に話せる未来が、俺に来るのか? 今のままだと、絶対に来ないだろう。美しい言葉は俺の愚かさを削り出して外気に晒す。


 桜峰サッカー部はこの日、市役所チームに1ー4で敗れた。だが、桜峰の選手は誰一人として、下を向いてはいなかった。


 ーーうるせぇよ。そんなことは俺が一番わかってるんだ。
















 桜川を跨ぐ橋の上、一人の少女が河川敷を見下ろしていた。古見という顧問の先生に聞かされて来てみたが、なんだか思っていたのと少し違った。七人しかいない弱小チームのくせに、熱と活気があった。絶対に試合に勝てないというのに、勝つ気満々なのだ。こんなの見たことない、変なチーム。


「でも、ここなら、私も試合に出れるかな……」


 少女がそっと呟く。明日から、自分はこのチームの一員になるのだ。だが、その前に。


「髪の毛、どーしよう……」


 染髪に失敗したプリン頭が、まだゴワゴワしていた。


 




 

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