桜峰のボランチ

素人は上級者のフェイントに引っかからない。視線や身体の向き、キックフェイント、ボールの軌道変化、そういった高等技術に頭がついていけない。何が何だかわからない、とでも言うのが正しいか。

 今の中沢は、それに近い状態にあった。


 14番に縦パスが通る。これで八本目だ。反応の速さと読みの鋭さを持つ中沢が、パスコースを消しきれない。それどころか、彼女の視界から14番が消えることも少なくない。


「っ!」


 ファーストプレスは遅れたが、前を向かれるまでにはまだ時間がある。中沢は左脚を前にした半身の態勢になってバイタルエリアへのターンを阻む。それがこの瞬間のセンターバックが取り得る最も適切な対応だった。だが、適切だったはずなのに、14番は中へとドリブルしていた。中沢の身体を片手で抑え込むことで、ディフェンスの機能を果たさせていない。


「パス!」


 久保が手を挙げながら右サイドを走り出す。14番の横ドリブルに、ディフェンダーのチェックが集中した。その隙をついてスルーパスを呼び込んだのだ。ディフェンダーも身体の向きを調整して裏へのカバーに駆け戻る。久保の速度を知った今では、彼女への「一本」が脅威になることはわかっている。

 だが、久保は追いつかせない。チェックをものともしない速度で走り抜ける。久保の前にスペースがあるなら、誰も追いつけない。現役を退いて長いおっさん達なら尚更だ。唯一対抗できる中沢も、14番の対応で手一杯。元を辿れば、中沢が突破されたから久保がノーマークになっている。14番が右脚を振りかぶり、バックパスをした。


 ーーえ?


 ピッチ中のほぼ全員が意表をつかれた。パスを受けた選手も、まさか自分がここ一連のプレーに関わるとは思っていない。だが、


「逆サイ」


 14番が自分の背中に親指を向ける。その先には、展開から忘れ去られていた仲村がいた。サボっていたわけではない。パスが久保へと通ると確信し、先のプレーの準備をしていた。ゆえにディフェンダーの意識から抜け出し、フリーとなっている。そこへパスが通る。


「仕掛けよう!」


 仲村は14番のコーチングに従う。ボールを縦に大きく蹴り出し、スピードに乗る。ペナルティーエリアの角まで侵入したタイミングで、


「中!」


 久保にグラウンダーのクロス。キーパーとディフェンダーの間を走る良いパスだ。だがそれは直前でクリアされた。久保が出し手のタイミングとスペース確保を全く考えていなかったため、ディフェンダーがクリアするための最短コースを用意してしまっていた。クロスが蹴られる前にニアサイドに入りすぎたのだ。クリアされたボールは仲村の上を飛び越え、タッチラインを割る。


「ん、ん、ん〜? あれ? もしかしてあの人、めちゃくちゃ上手い?」


「もしかしなくても、だ」


 望が眉根を寄せて腕を組む。ようやっと14番の凄さがわかってきたらしい。

 先程の14番のプレーを簡単に並べるなら、パスを受ける、ターンする、バックパス。この三つだ。特殊さや難しさは一切なく、基礎的なプレーが連なっただけ。よほど注意深く観察していなければ、圧倒的な技術の凝縮に気がつくことはできないだろう。


 14番の一連のプレーは、かなり早い段階から始まっている。まず、縦パスを受けるオフザボールの動き。赤チームの攻撃は右サイドバックから始まっている。右サイドバックと遠藤がゆっくりとパス交換をしている時、14番は大きく縦に張り出し、ディフェンスラインを押し下げていた。パスを受けやすいように自らスペースを作り、マーカーの中沢がボールに注目したタイミングで背後に回り込み、完全に視界から外れる。そして、「自分へパスを出せるだろう選手へとパスが通る前」に動き出し、中沢には見られていないが、パサーからは見えている状態を作り出した。あとは不意を突かれた中沢の動きを片手で制限しながら、互いの身体を入れ替えるようにターン。バイタルエリア手前で相手の視線を引きつけ、久保の走力をフェイクに仲村をフリーにした。仲村にパスを出す選手への落としも、利き脚の蹴りやすい場所に正確に落としている。

 言葉にすればこんなにも長々となるプレーを、14番は涼しい顔で行なっている。ボールコントロールだけでなく、視野の広さも尋常じゃない。最前線からゲームを支配していた。


「かるーく遊ばれてるな」


 中沢が市役所チームに通用していないわけではない。他の選手に対してなら十分勝負になっているし、しっかり押さえ込んでいる。対人守備の安定感は健在だ。だが、


 ーー無理か。


 プルアウェイしながらパスを受けた14番がダブルタッチで中沢を突破する。僅かなコースが空いた瞬間を見逃さず、ペナルティーエリアの外からミドルシュートを放った。駆け抜けたボールは小西の左手を弾き、サイドネットに突き刺さる。シュートをコントロールする技術も桁違いだ。落ちながら曲がるあのシュートを止められるキーパーはそうそういない。

 もちろん、中沢も14番に対抗しようと必死に試行錯誤を繰り返している。ラインコントロールでオフサイドトラップを仕掛けたり、一対一の間合いの取り方を変えたり。かつてないほど頭をフル回転させているはずだ。それでも勝てない。今の中沢には、彼女の何がどう足りなくてここまでの差が開いているのか、肌で触れることすらできていないだろう。


「三十分でーす!」


 少し裏返ったホイッスルが河川敷に響く。息をたっぷりと吸い込んでから吹いた望だったが、逆サイドの久保にまで届いていなかった。

 笛の音で一本目は終了。桜峰の選手達がベンチに戻ってくる。表情を見るに、自分のプレーに手応えを感じれているのは、久保と小西だけだ。中沢も仲村も遠藤も、やりたいことにチャレンジする機会すら与えられていない。中沢は14番にコテンパンにされ、仲村はまだ一人もドリブルで抜けていない。遠藤はそもそも自分のポジションでプレーすらしていなかった。ショートパスと小刻みなドリブルを使い分けている小鳥遊が、一番ゲームに馴染んでいる状況だった。


「よいしょ。私は皆んなのとこ行くけど、コウちゃんはどうする?」


「タバコ吸ってる」


「えぇ? もぉ〜! あんまりタバコばっか吸ってると、肺がんになっちゃうゾ? ノゾミ超しんぱーい」


「心配してんなら腹パンやめろ」


 拳を二発ばっちり俺の鳩尾に打ち込んでから、望は子供ペンギンのようによちよちと土手を下りていく。危なっかしいことこの上ないが、今更止めに行っても仕方がない。

 新品の百均ライターでタバコの先に火をつける。ふぅと吐き出した煙が左から右へとたゆたう。ピッチの反対側で休憩を取っている市役所チームの何人かも、同じようにタバコを吸っていた。タバコを吸うと体力が落ちるのは事実だが、シニアのレベルだと大して影響がない。いや、それこそ地域リーグとか全国大会とかなら話は別だが、こうして女子高生と試合するくらいなら問題ない。

 休憩は十分間のみ。眼下の女子高生達は難しい顔で議論し合っている。格上の選手達とどうやって渡り合うかを懸命に模索しているのだ。だが、いつも会話の中心にいる中沢は、周りに構っている余裕がないらしい。遠藤も元気がない。インテリジェンスに優れている二人が沈黙しているので、自然と話し合いも浅くなる。

 結局、「まずは気合いだ!」という精神論にしがみつくだけに終わったようだ。精神論だって時と場合によっては力を発揮するが、それは今ではない。

 十分間の休憩は早々と終わり、青チームからのキックオフ。エンドが変わり、俺の近い側に14番がポジションを取った。近くで見ると、なかなか腹が出ている。どう考えてもあれがベストウェイトではないだろうが、それが逆に彼の技術の高さを物語っていた。14番が着ているユニフォームのチームが勝つ、と言っても言い過ぎではない。


 ーーそれにしても。


 この試合、俺は非常に不満を感じている。失望、とまでは言わないが、聞いてた話と違うではないか、とは思っている。まぁ、状況を鑑みれば納得できないことではない。父親と同年代くらいの選手達の前で遠慮が生まれるのは仕方のないことだ。

 だが、それで話が通るのは一度目だけだ。俺は二本目のタバコを噛み折ると、急斜面を下りていった。


「あれ、コウちゃんどうしたの? 喉乾いちゃった?」


「違う」


 ベンチでボトルやタオルを片付けていた望が、珍しいものを見つけた目で俺を見る。


「遠藤!」


 俺は自分の声で名前を呼んだ。練習中の号令は望に全部任せているが、ここでそれをしてはいけない。言いたいことがあるのは俺だ。


「っ、はい!」


「ちょっと来てくれ!」


「え、で、でも……」


 試合は今も進行中。ボールが外に切れた瞬間とかを狙っていないから。


「良いから! ここに来い!」


「え、えぇ……!?」


 もちろん試合は動いている。今も相手チームの小鳥遊がサイドでボールをキープし、時間を作っている。あの子はもちろん、他の選手達も、センターバックの遠藤が居なくなる瞬間を狙ってくるだろう。 守備の要のセンターバックが消える。それがどれほど危険なことかは言うまでもない。だから遠藤は周囲をキョロキョロしながら逡巡している。


「ちょっと、あなた! 試合中よ! 一人減ったら……」


「ンなもん周りがカバーしろ! 遠藤、急げ! 迷った分だけ信用を無くすぞ!」


 遠藤と同じチームの久保が慌てて抗議してくるが、そんなのはすっぱり切り捨てる。俺は遠藤に言いたいことがある。ならば手と手が届く距離で言うのが正しい姿勢だ。真に伝えるべきことは、怒鳴り声や囁き声で言っても意味がない。冷静に、かつ穏やかに。それゆえにしっかりと話すべきだ。

 するとその時。14番が実に手早くポジションを落としてくれた。遠藤が居た場所に竹内が、竹内がいた場所に14番が入る。そうなってしまえば、遠藤も俺の指示に従わざるを得ない。ダッシュの半歩手前の速度でやって来た。遠藤の背筋がいつも以上に伸びる。


「な、なんでしょうか」


「チーム設計の話だ」


 藪から棒な俺の話に、横の望が、んん? と言う顔をしている。


「桜峰は今、選手が六人しかいない。となると、ポジションは自然と適材適所、各ポジション一人ずつくらいになる」


 今のところはバランスよく分かれてくれているから、こちらとしては迷う部分はない。


「俺は、君をボランチとしてピッチに送り出すつもりだ。六人しかいないからではなく、それがこのチームにとって一番良いと、適していると思っているからだ」


「は、はいっ」


 遠藤の声のトーンが少し上がる。だが、


「だが、君がボランチに適していないと思えば、すぐにポジションを変える。当然、そこにはベンチって場所も含まれてる」


「えぇ!?」


「……望うるさい」


「ご、ごめんなさーい」


 今の望の反応が桜峰というチームの全てを表している。おそらく、小鳥遊以外の全員が、「自分は試合に出れる」と意味なく確信している。だが、俺はそんな甘ったれた思考を許すつもりはない。


「君がピッチに立つべきでないと俺が判断すれば、出さない。例えそれで試合が成立しなくても、だ。俺はそこに興味ないからな。そして、今の君は試合に出すべきではないと俺は思っている」


 本気で喋っていることは遠藤にも伝わっている。試合で火照った頬がみるみる色を失っていく。


「俺は今日、君がセンターバックをしていることが気に入らない。今の君は、選手が持つべきではない不要な感情で雁字搦めだ」


 選手がピッチに持ち込んではいけない感情とは、「遠慮」だ。


「赤チームには本職のセンターバックがいなかった。だから君は気を利かせて、我慢してセンターバックについた。そうだな?」


 遠藤が少し躊躇ってから、こくりと頷いた。緊張と恐怖で表情が硬くなっている。遠藤を怯えさせたいわけではないので、少し声のトーンを上げる。


「協調性が高いのは良いことだ。君のその性格のおかげで助かっている人は大勢いると思う。だが、それをピッチに持ち込んでしまうと、意味合いが大きく変わってくる。今日、君がセンターバックをしているのは、協調ではなく、ただの遠慮だ」


「あ……」


「協調と遠慮の線引きを間違えちゃダメだ。ピッチ上で遠慮するような選手は、ここ一番で実力を発揮できない」


 この子は、一歩引いてしまう癖がついてしまっている。そこは出来るだけ早く治してもらわなくてはならないし、治してあげなければならない。


「覚えていてくれ。ピッチの中では、自分を出していい。遠慮なんかしなくていい。君はボランチでプレーしたいんだろ? なら、はっきり言うんだ。私はボランチの選手なんですと、強く主張するんだ」


 昔言ってもらったことを、目の前の少女に繰り返す。


「やりたいことは、やりたいって言っていいんだよ」


「……っ!」


 あの時の俺は頭を撫でてもらっていたが、今の俺が女子高生の頭に触れるのは無理だ。その代わり、しっかりと目を見て話す。


「それに考えても見ろ。君のチームには元プロ選手がいるんだぞ。あの人にパスを出したいとは思わないのか? あの人のプレーを体感したいとは思わないのか?」


「……そ、それは、思います。ずっと、ずっと思ってました!」


 我慢していた堰が切れた。助けを求めるような瞳に、俺は頷きを返す。この少女には自信と安心を手にして欲しい。


「よし。なら行ってくるんだ。竹内に相談してみろ。あいつは世辞抜きでどこでもやれる選手だから、適当にぶん投げていい」


 一人少ない赤チームは押されている。流れが悪くなっているのだ。そんなピッチに、遠藤を送り出す。背中を叩くくらいはいいだろう。


「君は桜峰のボランチだ。この展開を変えてみろ」


「はいっ!」


 駆けていく遠藤の背には、まだ不安がある。そればっかりは、彼女自身に克服してもらうしかない。先に進んでいくための脚は、彼女が動かすしかないのだ。


「コウちゃんって、なんだかんだ優しいよね」


「はぁ? 何だそれ」


 途中から妙に嬉しそうにしていた望が、肘でつついてきた。鬱陶しいので、全力でデコピンしてやった。

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