三度目のばったり
目と目が合った瞬間、お互いが「げ」と言って頬をヒクつかせた。遅れて舌打ちも追加する。
「何してるのよ」
「定食屋に散髪しに来る奴がいるか?」
「……皮肉ばっかり上手ね。言っておくけど、それでお金は稼げないわよ」
「ことりちゃん」の暖簾の前でバッティングした俺と久保は、出会い頭に「お前が嫌いだ」と言い合った。久保は折り畳み傘を畳みながら、空いた左手を腰に当てる。露先から垂れる雫がローファーの爪先を濡らしていた。久保は制服ではなく、無地の白Tシャツに藍色のデニムパンツというラフな私服姿だった。いや、そうではない。これはタンスの一番上にあったものをそのまま着ているだけだ。全く同じやり方で服を選んでいる俺にはわかる。
「お先どうぞ」
「そちらこそ」
ーーお前とは一緒に入りたくない。
嫌いあっているのに、互いに何を考えているのか丸わかりだった。だが、もう少し深く考えてみると、俺は別に久保を嫌ってるわけではない。プライベートで同じ空間にいるのが嫌なだけだ。それなら他のサッカー部員も同じこと。だったら遠慮せず先に入ってしまえばいい。歳下の少女の顔色を伺ってどうする。大人の威厳を見せる時だ。
「いらっしゃい。あら、コウちゃん、また彼女?」
「え……あ。おい!」
「え……?」
出迎えてくれたおばちゃんがにっこりと微笑む。その視線は俺ではなく、すぐ後ろの久保へ向けられていた。お前な、何のために店先で譲りあったと思っているんだ。知り合いだと思われないようにするためだろうが。何故俺にくっ付いて入ってくる? アホなのか?
「全然違いますよ。やめてください」
「あらそうかい? でもコウちゃん、そろそろ彼女の一人も連れてきておくれな。おばちゃんは心配なのさ」
何であんたに心配されなきゃならんのだ。
「ごめんねぇ。奥のテーブル席しか空いてないんだよ。それでいいかい?」
「……まぁ」
結局知り合いだと断定されてしまった。夜七時の「ことりちゃん」は男性客の熱気でむせ返っていた。季節的には少し早いが、そろそろ冷房が必要だろう。
「結構混んでるのね。時間帯もあるのかしら」
「ここはいつでもこんな感じだ」
四人がけのテーブル席。偶然か必然か、以前、俺と遠藤と望の三人が座ったのと同じ席だった。俺が一番奥に、久保が斜め前の席に座る。
「小鳥遊さんは……」
「おばちゃん、注文いいすか」
「はーい!」
「あ、ちょ! 私まだ決めてな……!」
メニューではなく店内ばかりを見回していた久保を置き去りに、俺はさっさとおばちゃんを呼んだ。三秒後には、おばちゃんが体型に似合わぬ軽快なステップでもって登場している。二人分のお冷やも一緒だ。
「俺、生姜焼き定食」
「あ、えーと、えーと……私、この、とんかつ定食ください」
「はい、承りました。生姜イチとんかつイチ!」
「あいよ!」
店内に響き渡る野太い声が心地いい。その声からは、自分達が提供する料理への強い自信がうかがえた。
店員が元気なのだから、客も当然元気だ。店内は話し声と食器の音でガヤガヤしている。幸せそうに食事をする彼らは、それだけで大きなエネルギーの塊だった。周囲が騒がしい分、むすりと口をつぐんでいる俺と久保は悪い意味で浮いていた。だが、店内の和気藹々とした雰囲気を悪くするのはエチケット違反だ。俺達は俺達だけにわかる程度に悪感情を発し、また、抑えていた。俺達だからこそできる、絶妙なバランス調整だった。
「……」
「……」
沈黙が店の隅に座り込んでいる。俺は頬杖ついてボーっとしていたし、今になってメニューを見終わった久保は爪の甘皮を剥いている。俺達は暇をつぶすのではなく、時間の経過を静かに待っていた。斜め前に座る相手の存在を認めた上で、関わらないことを選択している。無視とは違う、曖昧模糊な状態。
だが、厨房から一人の少女が出てきたことで空気が変わった。「ことりちゃん」の看板娘、小鳥遊だ。
「いらっしゃい」
おばちゃんに何か言われたからやって来たのだろう。これは必要のない会話、接客だ。絶対に小鳥遊個人の判断ではない。
「ホントに働いてるのね」
「そうだけど」
手慣れた様子で黄色い三角巾を外す小鳥遊。それは彼女が厨房に入る時の装備だ。手早く畳んだ三角巾をエプロンの前ポケットにしまい、ほどけたセミロングの髪をゴムで留め直している。小鳥遊が髪を手櫛で梳いただけで、いい匂いが溢れた気がした。厨房で火のそばにいたからだろう、汗が額に浮いている。すると、
「なんで二人?」
小鳥遊が興味なさそうに訊いてきた。
「俺は普段通り飯を食いにきた。コレとはたまたまそこで会った」
「コレってなによコレって」
あーはいはい。噛み付いてくる久保を片手であしらう。俺の態度にますます目を吊り上げる久保だったが、何かに気づいたように深呼吸し、俺を視界から除外した。
「私は、あなたがどんな風に働いてるのか見にきたの」
久保が見上げる先には小鳥遊がいる。「バイトしてるって聞いたから揶揄いに来たよー」などというフレンドリーさはカケラもない。睨み合いに近い二人の視線は、どちらともなく逸らされた。
「ま、ごゆっくり」
ーー好きにすれば。
今の「ま」は、小鳥遊が初めて見せた余分だった。人がものを喋る上で必ず発生する、自らの感覚や思考を誤魔化したり、据え置いたりする一単語。この時、小鳥遊は言いたいことや、聞きたいことを飲み込んだのだ。
「お冷やのおかわり、セルフだから」
「あぁ、ありがとう」
久保のグラスは早くも空になっている。それを目敏く見つけた小鳥遊は店の奥をちょいちょいと指差し、仕事に戻っていった。
「ふー。なんだか暑いわね」
小鳥遊がいなくなった後、一仕事終えたみたいな口調で久保が言う。
「外は涼しいんだがな。まぁ、暑いところで食べる熱い飯もオツなもんだ」
「あら意外。あなたってもっと精神がヒョロい物事が好きなんだと思ってわ」
「否定はしない。今のも雰囲気で言ったみただけだし」
「あっそ」
俺達が始めた全く生産性のない会話は、波が引くよりも早く終息した。二人の間にまたしても暗黒色の沈黙がもたげる。時間潰しがてらお冷やに口をつけると、俺のもそろそろ空になる頃合いだった。
「……おかわり、いる?」
「頼む」
頭では意識していなかったが、肉体は暑さを感じていたらしい。体温を下げようとチビチビ飲んでいた冷水が無くなった。久保は二つのグラスを持つと、俺の背後を通って店の奥へと入っていった。
ーーやっぱ嫌われている。けど、生理的にじゃない。きっと何かしら、俺を嫌う理由があるんだろう。
それが高校時代のことなのか、それともこっちに帰ってきてからのことなのかは、わからない。俺は人様に好かれるようなことはあまりしてこなかったし、今後もしないだろう。だが、嫌われるようなこともしてないつもりだ。あまりに頑なな久保の態度は、正直言って、不可解だった。
ーーあなたのプレーが好きだったの。
トラックの音に掻き消された久保の声は、今も俺の耳に残っている。
「うるせぇな……」
「ん? 何か言った?」
振り返ると、シャツの裾に水滴をつけた久保がキョトンとしていた。ポニーテールの穂先が斜めに垂れる。
「なんでもない。サンキュ」
「はい」
手渡しされなかったグラスを手に取り、そっと傾ける。増量された氷が上唇にくっつく。多すぎる善意は少し邪魔だった。
「霧子ちゃーん、注文頼むわー」
「こっちも!」
その時、おっさん二人組と、サラリーマン風のお兄ちゃんが同時に手を挙げた。おばちゃんは厨房にいるから、どちらも小鳥遊が担当する。
「唐揚げイチ、コロッケイチ。生姜焼きイチ」
すると、小鳥遊は客の顔を見ただけで伝票にメモをした。あまりに杜撰、横暴に見える接客だ。だが、おっさん二人はもうすでに新聞の小見出しについて話し合っており、サラリーマンもスマフォを覗き込んでいる。どちらも小鳥遊に文句を言うようなことはしなかった。
「えー。あれいいの?」
「合ってるからいいんだよ」
久保は俺が始めて来店した時と同じ感想を持ったらしい。だが、二年ほど通った俺から言わせれば、あれはよくあることだった。あの三人は常連で、俺もひと月に数回は見る。そして、彼らが頼むものはいつも同じだ。
「……」
久保はテキパキと働く小鳥遊をまじまじと観察している。仕事ぶり云々の話から、部活や学校で何かあったのだとは察せられた。どうせ小鳥遊が練習に来ないとか、サッカー部の輪に入らないとかそんなとこだろう。もしかしたら、小鳥遊は俺がいなかった日は全て練習に行かなかったのかもしれない。まぁ十分ありえる。
「……」
俺がいらん考察をしている間も、小鳥遊は勤勉に働き続けている。客に声をかけ、お冷やを運び、注文を取り、料理を届け、レジ打ちをし、食器を下げ、空いた卓を清掃する。サーバーのチェックや厨房の手伝いもしているから、客側からは見えない場所でも手を動かしているだろう。まさに八面六臂の働きぶりだった。
「ねぇ。あの子、ちゃんと時給貰ってるのかしら。千円程度じゃ足りないくらい働いてるわよ」
「時給か。実家の手伝いだし、貰ってない可能性もあるな」
もちろん冗談だ。店主のおっちゃんはプロである。なら仕事に正当な賃金を払うのは当然のこと。小鳥遊はちゃんとお給金を貰っている。
「お待ちどうさま」
「ありがとうございます」
「熱いから気をつけて食べてね」
ここで待望の料理が運ばれてきた。久保の小鳥遊視察は一時中断となる。俺も女子高生達の人間関係なんて頭から取っ払い、目の前の料理に意識を向ける。ツンと香る生姜の香りだけで口内の唾液が増加する。気がつくと手に持った箸が勝手に動いていた。甘いタレがかけられた豚肉は最高に美味く、とにかく白米が進む。久保が頼んだとんかつ定食も、分厚い肉がカリカリの衣で揚げられていて、全方位から見ても美味そうだ。そして実際美味いらしい。一口かじっただけの久保の頬に感動色の赤みがさす。
「美味しい……!」
「だな」
「これが800円って、元は取れてるの!?」
「……お前さっきから金のことばっかだな」
「う……。ち、違うから。別にお金に卑しいとか、ケチとかじゃないから。Jリーグのチケット代や移動費がお小遣いを圧迫してるとか、CLやプレミアリーグのハイライトDVDを毎年買っちゃってお年玉がなくなるとか、そういうことじゃないから」
「わかったわかった。わかったから落ち着け。それは味噌汁じゃなくてお茶碗だ」
白米が盛られたお茶碗をすすったところで何も飲めやしない。目を泳がせすぎて目の前の物が見えなくなっている。唐突に動揺し始めた久保はちょっと面白かった。それにしても、女子高生とは思えない金の使い道だ。毎年DVD買ってるとかどこのサッカー解説者だよ。
その後、何をきっかけにしたのか知らないが、久保のスイッチが入ってしまったらしい。「最近のCLは五大リーグのチームばかりが勝ち進んでいて寂しい」というおっさんのような話を延々と聞かされることになった。いや、お前はいつの時代に生まれた人間だと何度も言いたくなったが、結局は最後まで聞き役に回った。話を遮るのが憚られた、と言うよりも、好きなものを語る少女の楽しげな声が、少しだけ心地良かったからだ。
ーーそれでね、それでね。私的にはポルトガルリーグの復活が待ち遠しいの。クリスティアーノ・ロナウドは故郷に帰る気はないのかしら? 私はあんまり好きじゃないんだけど、国の英雄が帰ってきてくれれば、リーグはもっと盛り上がると思わない? ポルトとかスポルティングとか、伝統ある古豪はたくさんあるんだし!
最終的に、Jリーグも海外で活躍している日本人選手を呼び戻す取り組みをすべきよね、という形で話は締めくくられた。確かに俺も、香川や本田、長友など、日本代表を牽引してきたレジェンド達が、キャリアのラストをJリーグで戦ってくれればとは思う。
プライベートで久保と会うのは三度目。俺達の会話は、ほとんどがサッカー談義のみだ。俺達二人が私生活で仲良くなれるとは思えないが、不思議とサッカーに関してはウマが合う。俺は久保の話を聞いていただけだったが、不覚にも、ここ最近の晩飯の中では一番楽しいと思ってしまった。
「分割?」
「うん。はいこれ、私の分」
「こっちは俺の」
「丁度いただきます。レシートは?」
「私はいらないわ」
「俺も」
「どうもありがとうございました。またどうぞ」
小一時間テーブル席を占領していた後のお会計。小鳥遊は相変わらずのレジ打ち速度と愛想の無さだった。だが、それがいい。
「小鳥遊さん」
「なに?」
レジ越しに久保が言う。
「望が言ってた通り、あなた、本当に凄いのね。感心、うぅん、感動しちゃった」
「……」
「だから、私も頑張らないとね」
この時、小鳥遊は何を思ったのだろう。表情は一つも変えないまま、
「そう」
とだけ言った。
「ごちそうさまでした」
満足そうに頭を下げた久保は、小雨の中を帰って行った。俺が次に少女達と会うのは、日曜日の試合だ。これが桜峰サッカー部が七人で試合をする最後の日になる。
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