チームと個人

木曜日、ちと想定外の問題が発生した。正確に言うなら、思い出した、になるが。


「来週、月曜までか……」


 木金土日の四日間では、どうやっても終わらないレポート課題があることを思い出したのだ。ちなみに、これは教授が鬼なのではなく、単純に俺が忘れていただけだ。課題が出されたのは先週の木曜日。つまり、作成に十日かかる課題を、あと四日で仕上げなくてはならない。加えて言うと、この課題は単位認定にかなり影響を及ぼすらしい。面倒だから適当にすればいい、いっそやらなくていい、なんてわけにもいかない。


「ひーふーみーよー、ワン、ツー、スリー、フォー。……ダメだ。何度数えても四日しかない」


 スマフォのカレンダー機能を五秒おきにチェックしても、日付は変わらない。あぁ、己の中途半端さが憎い。これが土曜とか日曜に思い出していたなら諦めもつくのに、四日前という何ともギリギリな期間が残っている。今からなら必死こけば多分間に合う。必死こけば。十日必要な課題を四日で終わらせられる自分の能力もまた、憎い。しかも、本気を出せば四日で終わるが、十日間使ってじっくりやれば他人より優れたレポートが出来上がる、というわけでもないのだ。

 現実逃避とやる気と現実問題が脳内で混ざり合った結果、レポートを作成することに決めた。となると、必然的に別の問題が浮かび上がってくる。


「てことで、木金土、休みくれ」


「……そういうことなら仕方ないけどさぁ」


 電話口の向こうで望がため息をついている。はぁ……という吐息が通信音を割った。


「でも大丈夫? この際、日曜日もレポートやってた方がいいんじゃない?」


「そうしたい気持ちもあるが、一応は俺のツテみたいなもんだからな。一切顔を見せないってのは流石に無理だろ」


 試合相手の市役所チームで顔役をしているのは俺の後輩の竹内だ。


「コウちゃんがいいなら、そりゃ、試合観に来てくれた方が嬉しいけど……。うーん、よし、わかった。どうしても難しいようなら、私も手伝うよ。何ならユリちゃんにも頼んでみる」


「女子高生に手伝わせるほど腐っちゃいねぇよ。てか何で中沢?」


「部内じゃユリちゃんが一番成績良いんだよ」


「へぇ。意外……ってこともないか」


 普段は賑やかしみたいなことばかりしているが、あれだけインテリジェンスの高いプレーをする少女だ。地頭が悪いはずがない。


「けど、むぅ……。そっかぁ、コウちゃん来れないのか」


「何か問題あるか?」


 いや、コーチが練習来ないってのは問題だろ。我ながらよく臆面もなく言えたものだ。


「まぁ、その……ね?」


「いや、ね? って言われても」


 なんとも歯切れが悪い。


「なんだ。悩みでもあるのか。言っとくが俺は絶対聞かないからな。言うなよ」


 何を隠そう、俺は他人の悩みとか身の上話とかを聞かされるのが大の苦手だった。聞いているうちに自分も同じ状況に転がり落ちたような気分になってしまうのだ。

 少し昔の話をしよう。そう、あれは忘れもしない、高校時代、「M君にラブレターを書こうと思うんだけど、上手い書き方がわからないの。どうすればいいかな?」と、クラスメイトの女子に相談されたことがあった。その子の真剣な、それでいて怯えたような表情を見てしまった俺は、少しでも参考になればと、M宛てのラブレターの草稿をいくつか書いて渡した。この段階で既に俺の精神はおかしくなってはいたが、まだ危険水域手前だ。だが、その草稿をどこかに落としてしまったのは完全にアウトだろう。しかも、何をトチ狂ったのか、差出人に「楠田公太郎」と書いてしまっていた。まさしく一生の不覚。

 そして間の悪いことに、そのラブレター数通は関係のない第三者に拾われてしまい、当然のごとく拡散された。この時のクラスの混乱は凄まじいものがあった。


 ーーえ、楠田ってMのことが好きなの? マジ?


 内緒で相談に乗っていた手前、いや、それは参考にしてもらう用の草稿で……とも言い出し辛く、二日ほど針のむしろだった。まぁ、この悲しい事件を機に覚悟を決めた相談相手の女子がMに告白し、見事成功。二人が周りに説明してくれたおかげで、俺の誤解は解けた。だが、あの二日間は強烈なトラウマとなって俺の心に残っている。

 さて、いらんほど長くなったが、それ以来、俺は他人の悩みを聞かないようにしている。だから今回も、望が何にどんな風に悩んでいようと、俺は知らぬ存ぜぬで通す。


「まー、コウちゃんなんかに言っても仕方ないし。自分達で何とかするよ。それじゃ、課題、頑張ってね。また留年しちゃダメだからね」


 「なんか」とはなんだと思ったが、いや、俺は「なんか」くらいで丁度良いやと思い直した。他人からの評価など、四十五点くらいで良いのだ。














 昼休み、しとしとと降り続く霧雨の景色を見ながら、久保竜子はタコさんウィンナーの頭部にかじりついていた。肉の旨味だけではなく、表面に滲み出た脂のベタつきが舌を撫でる。余分かつ不愉快な脂は、今の彼女の心情に似ている気がした。


「ねぇ、アヤ。小鳥遊さんのこと、どう思う?」


「んー? リュウにしてはアバウトな質問だね」


「うん……でもさ、あの子を話題にしたら、誰だってアバウトになると思わない?」


「まぁ、そう、かな」


 一年一組の教室では、少女達が五つ程のグループに分かれてお弁当を広げていた。学食や別の教室に足を運ぶ者もいるから、残っているのはクラスの半分程度だ。遠藤の一つ前の席に後ろ向きで座った久保は、最後のタコさんウインナーを見つめている。


「あの子、あいつが居る時しか練習来る気ないみたいなのよね……。どうしたらいいかな。それに、あんまり私達の輪に入って来ようとしないし」


 久保の悩みの種は、新入部員の小鳥遊だった。他の部員と交わろうとせず、また、部活への参加意欲も極めて低い。彼女の意識は幽霊部員に近いものがあった。だが、


「でも、練習態度は真面目だし、話しかけたら普通に返ってくるよ。少なくとも、クラスや部の雰囲気を悪くすることはないんじゃない?」


「そこ。そこなのよ……」


 遠藤の言うように、小鳥遊が誰かに迷惑をかけたことは一度もない。練習に来ないのは迷惑と言えなくもないが、練習に来ない日は家業の手伝いをしているとなると、怒るに怒れない。


「でも、このままじゃダメだよね」


「それは、まぁ……」


 サッカーはチームスポーツ。チームメイトとの連携は不可欠だ。もちろん、私生活で仲良しだからピッチ上も相性バッチリ、とはいかない。生まれつきプレーや考え方が合わない選手というのはいる。しかし、だからこそチームで練習をして、対話をして、互いの感覚や考えを擦り合わせていくしかないのだ。何度も何度も繰り返し微調整する。練習とは、個人の技術を磨くのみが目的ではない。

 部長の久保には、小鳥遊のやり方やスタンスは見過ごせないものだった。だが、


「でも、何て言ったら良いのかわかんない」


 この一言に尽きる。久保には、小鳥遊と上手くコミュニケーションを取れる自信がない。


「あんまり思い詰めなくてもいいと思うよ。リュウが言いにくいなら私から話すから」


「そうしてもらえるとありがたい……んだけど、ほら、私ってキャプテンだから」


 あはは。久保が自分を指差して空笑いする。中学二年の冬から三年の晩秋までサッカー部の主将を務めた久保だったが、まさか高校入学時から同じ役職に就くとは思っていなかった。先輩がいないゆえの応急処置みたいなものだが、これから先輩が入部してくれる可能性は低い。久保は三年間、ずっと主将なのだ。


「私が、何とかしないと」


 久保の様子を見た遠藤は、鈍い危機感に囚われていた。遠藤が思うに、久保は人間関係の構築が上手いタイプではない。清廉で物怖じしない性格は尊敬や親愛の対象だが、その一方で、一部の人間から疎まれる理由にもなっている。久保はそんな連中を相手にはしていないが、遠藤には、それが久保の強がりのように見えることもあった。


 ーー真面目なんだよね。あと、お人好し。


 久保は、自分を嫌っている相手すら、嫌えない。損得どちらに繋がるかもわからないまま、のしかかってくる荷物を全て背負おうとする。


「小鳥遊さん、変わってるけど悪い人じゃないし。今まで会ったことないタイプだから、ちょっと距離感が掴めないだけだ。うん。そう。そうだよね。そうだよきっと」


 遂には勝手に自己完結してしまい、遠藤も口を挟み辛くなった。久保は一度決めてしまうと、融通がきかない。そんな久保の性格を、中沢は頑固だと言って笑い、仲村は面倒くさいと言って笑う。どちらも久保を愛していることにかわりはないが、少し大様すぎる。この二人は、久保が壁にぶつかって困り果てるまで、隣で眺めるのだ。

 今回の小鳥遊の件でも、中沢と仲村は一切手助けしないだろう。そもそも、小鳥遊の状態を問題とすら思っていないかもしれない。チームがどうあるべきかよりも、自分がどうありたいかを一番に考えるのがあの二人だ。放任主義であると同時に、個人主義でもある。


「うーん」


 今後、久保と小鳥遊がどんな風に関わり合っていくかは、桜峰サッカー部の在り方を大きく左右する気がする。遠藤は、八尾以外のメンバーに全く期待できない分、自分が二人の様子をよく見ておこうと思うのだった。


「おや、お二人とも、お箸が進んでいませんね。何なら私が食べますが?」


「えっ!?」


「うわ、びっくりした! 前置きなく現れるのやめてくれない!?」


 五分前に教室から出て行ったはずの小西が、机の下からぬっと現れた。ブロンズの前髪と銀のヘアピンが蛍光灯の光を反射する。彼女は相当数のヘアピンを所持しているらしく、同じものを付けているのを見たことがない。

 机と同じ高さにある小西の瞳が上向く。期待のこもった視線が久保と弁当箱の間を行き来している。


「言っとくけど、あげないからね」


「そんなつれないことを言わずに」


「カロ、学食行ってたんじゃないの?」


「行ってましたよ? カレーうどんとチャーハン定食を食べてきました。どちらも味が濃かったですから、お口直しに冷たいものが食べたいです。具体的にはそのフルーツとか」


 久保のおやつのフルーツ盛り合わせをロックオンしている。囲い込むのもせせこましい気がして、久保は余分の爪楊枝を小西に渡した。ついでに遠藤にも。


「ねぇ、カロ。あなた、小鳥遊さんについてどう思う?」


 即座にパイナップルが全て消えたと同時に、遠藤にした質問を小西にもぶつけた。影口のようで気が進まない部分は大きい。だが、独特という意味では小鳥遊に引けを取らない小西に聞けば、何か素敵なことを言ってくれるかと思ったのだ。


「そうですね。彼女になら抱かれてもいいですよ」


「ンなこと聞いてないわよ」


 少しイラっとしてしまった。すでに林檎も無くなっている。


「それなら、特に言うことはないです。あ、バスケ部のキャプテンは小鳥遊さんを諦めたらしいですから、次は竜子さんの番ですよ」


「……」


 背中に冷水がかかったような悪寒に、久保は思わず沈黙した。バスケ部主将のことは話半分くらいに聞いていたのだが、どうやらガチらしい。


「ですが、諦める気持ちはよくわかります。小鳥遊さん、昔から全然変わりませんから」


「え、カロ、小鳥遊さんと知り合いだったの? 言ってよ」


「保育園が一緒でした。私は外で遊ぶのが好きで、彼女はおままごとが好きでしたから、あんまり一緒に遊んだことはありません。もしかしたら向こうは覚えてないかもしれませんね。だから言わなかったんです」


「おままごと?」


 凍結している久保は横に置き、遠藤が話を進める。小鳥遊がおままごとが好きだったというのは、想像すらできない過去だった。


「はい。ただちょっと変わってるのが、彼女はいつも父親役をやりたがってたことですね。普通、子供は母親役をやりたがるものでしょう? 毎回揉めていたのも印象に残ってます」


「揉める? 小鳥遊さんが?」


「父親役の彼女が料理担当を譲らなかったらしいです。ですが、周りの子が、お父さんが料理を作るのはおかしいって言って。つまりは、そういうことじゃないですか?」


「ごめん、全然わかんない。どういうこと?」


 どんどん飛躍する会話に、遠藤は付いていけなかった。だが、


「小鳥遊さんにとっての一番は、料理を作るお父さんってことか」


 久保はその意味を理解した。解凍直後で頭が冴えていたのだ。


「そう。だから、サッカーなんてはじめから眼中にないんですよ」


 幼い頃から、父親が料理を作るのを見て育ってきた。厨房で働くお父さんが当たり前で、お父さんの作った料理を食べるのが日常だった。そんな父親の背中は、小鳥遊霧子という少女にとって……。


「あぁ、喋ったらお腹が空いてきました。もう一回学食行ってきます」


「破産するわよ」


「ほんと、よくそれで太らないよね」


 一人でフルーツを食べ尽くした小西は、またフラフラと学食に吸い寄せられていく。


「私、食べないと勝手に痩せてしまう体質でして。痩せないようにするのも結構大変なんですよ?」


 この発言に、クラスメイト達の視線が小西を鋭く射抜いた。だが、彼女の美しく整ったシルエットを見て、対抗も嫉妬も馬鹿らしいと悟ったらしく、すぐに食事を再開した。

 久保は、一口も食べれなかったフルーツを恋しく思いながら、今日の夕食について考えていた。

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