ヒビとデータ

え、小鳥遊さん来ないの?」


 放課後、八尾は部室に一番乗りしていた久保に小鳥遊の件を伝えていた。当の小鳥遊は部室に寄らずにそのまま下校している。


「それは、お店の手伝いってことかな」


「あ、それは聞いてないけど、多分そうだと思う」


「へぇ。まだ私なんか、小鳥遊さんが働いてるとこイメージできないなぁ。凄いことだとは思うけど」


「なんか熟練って感じだよ。あんちゃんとは労働の質が違うね」


 仲村もごくごく稀に和菓子屋の店番をしているが、店員とは思えないほどダラけている。直接お店に買いに来るのはお馴染みさんだけだから良いものの、あれには八尾も驚かされた。


「わかった。昨日の試合でもかなり疲れてたみたいだし、しょうがないよね。今日は六人で頑張ろう」


「うん。あ、タッチ練習、する?」


「…………する」


 かなり長い間があった。練習好きな久保でも敬遠してしまうほどあの練習は過酷なのだ。遠藤などは毎度死にそうになっている。だが、それでも部員達は自らに鞭打って頑張っている。彼女達の努力を見ている八尾は、「その練習は半分嫌がらせなの」とは言えなかった。


「おっつかれー! 今日は兄ちゃん来んのんやって?」


「気力体力ともに衰えてますね〜」


 中沢と仲村、一年三組の二人が到着した。市役所サッカー部との試合に向けて、どちらも気合い充分だ。中でも中沢は、元リーガプロ選手、大橋氏とのマッチアップを非常に楽しみにしていた。大橋氏は六年間連続で地域リーグの得点王に輝いているらしく、その実力が窺い知れる。


「ふふ。うちのサッカー人生最高の相手やろ。どこまで通用するか楽しみやな!」


 中沢が制服のリボンを引きちぎりそうな勢いで外している。早くボールを蹴りたくて仕方がないらしい。


「そうね。だからちゃんと練習しないと。せっかく強いチームと試合できるんだから」


「まずは一週間、頑張りましょうか〜」


 困難なことも沢山あるが、頑張った分だけ良いことも起きている。部員のモチベーションは極めて高かった。


「あ、カロちゃんとアヤちゃんは? 随分遅いね」


 そろそろ練習を始める時間だが、久保と同じクラスの遠藤と小西の姿が見えない。


「……カロのお弁当返してもらいに行ってるわ。アヤは付き添い」


「あ、そう……」


 桜峰の教師には、小西に早弁をやめさせるのは無理だと観念した者と、ちゃんと指導すべきだと思っている者の二種類がいる。今回は後者の教師に早弁が見つかった。ゴールキーパーの小西がいるのといないのとでは、練習の幅がまるで違ってくる。一秒でも早く小西に練習参加してもらうために、遠藤が付き添ってくれている。小西の性格だと無用な会話が増えるのだ。


「ま、まぁ、アヤもいるから大丈夫でしょう」


「そう、だね」


「よっしゃ頑張るで!」


「タッチ練習するんですか〜?」


「二人が来てからね」


 その三十分後、若干不満そうな小西と、かなり疲れた表情の遠藤がグラウンドにやって来た。遠藤は凝った肩をほぐすためか、大きく腕を回している。


「カロちゃん、早弁する時は先生選ぼうよ」


「いいえ望さん、人によって態度を変えてはダメですよ」


「それはそうかもだけど……」


「私としては、生物の近藤先生の時は我慢してほしいな……」


 ストレッチをしながら遠藤がそっと呟く。生物担当教師、近藤清美、三十八歳。ちょっとヒステリックな怒り方をする先生で、苦手とする生徒も多い。それを相手に教卓の目の前で早弁をする小西は、ある意味では勇者だった。ただ、近藤女史の激怒に巻き込み事故されるクラスメイトと、放課後に職員室にまで付いて行かされる遠藤はいい迷惑だろう。


「ですが確かに、クラスメイトに迷惑をかけるのは良くないですね。今後は控えます」


「本当!? 良かった!」


 遠藤の顔がぱあっと明るくなった。が、


「はい。もっとバレないようにやります」


 続く一言で、ジェットコースターもかくやの落差で瞳の色を暗くした。八尾は心の中でそっと手を合わせる。


 ーーアヤちゃん、頑張れ。


「おや、小鳥遊さんの姿が見えませんね」


「あ、ホントだ」


 死んだ目をしていた遠藤も顔を上げてグラウンドを見回す。


「うん。今日はお休みなんだ」


「ふーん」


 八尾が答えると、小西も遠藤もそれ以上の反応はしなかった。両者とも昨日のことが頭にあるし、小鳥遊自身も素人だ。疲れが出たのだろうということだ。いきなり試合に出てもらったのは、少々無茶だったかもしれない。

 五人と一人でする練習は一週間ぶりだったが、彼女達はこちらの方が慣れている。公太郎と小鳥遊、二人の新人がいない練習は滞りなく進み、日が沈みきった七時半、全員が下校となった。

 そして日付変わって火曜日、サッカー部の練習は休みだ。ただ、それはグラウンド使用を学校側から禁止されているというだけで、部員達が休みたくて休んでいるわけではない。だからいつもはワクワク公園でフットサルの試合をしている。今日も八尾が南条GFCとの練習試合をセッティングしていた。賭け試合に勝利してから初の練習試合だったが、今回はそれについては何も言ってこなかった。桜峰はもうただのカモではないということだ。


「小鳥遊さん小鳥遊さん」


「ん」


 朝のホームルーム前、八尾は小鳥遊の机に横から手をついて話しかけていた。二人の距離は物理的に縮まっている。学校指定の鞄から教科書を取り出していた小鳥遊が、つ、と顎を上げる。


「今日ね、皆んなでフットサルやるんだ。フットサルっていうのは、小さいコートで、五人vs五人でやるサッカーのことだよ。どう? 小鳥遊さんもやってみない?」


 小鳥遊が入部してくれたことで、桜峰に「控え選手」ができた。フットサルというハードな競技において、その存在がどれだけ心強いか。それに、これなら小鳥遊も前の試合ほどの疲れはないはずだ。


「あの人は来る?」


「え? あ、今日はサッカー部自体お休みだから、コウちゃんも来ないよ。練習じゃなくて趣味だから」


「そう」


 ホームルーム直前に登校してきた小鳥遊は、少し眠そうだ。右耳のところの髪がピョコンと浮いている。小鳥遊さんでも寝癖つくんだなぁというズレた部分に八尾の思考が吸い寄せられる。すると、そんな視線に気づいたのか、小鳥遊は窓ガラスに映る自分を見て、手櫛で横髪を整えた。そして、


「遠慮する」


 軽く首を横に振った。


「あ、そう……。わかった。気が変わったら遠慮なく言ってね」


 これはサッカー部の公式活動ではない。学校帰りにカラオケに行くのと同じことだ。それを「いやいや部員で動くんだから参加しろよ」とは言えない。良くも悪くもサッカー部は一年生だけなので、そういうパワハラの類いはない。八尾もまだ小鳥遊との心の距離感を掴めずにいるので、強く押せない。小鳥遊の机に手を置くことができるのはクラスで八尾だけだ。だが、小鳥遊の肩に触れたり、それこそ背後から抱きついたりは無理だ。胸を揉みしだく、髪の匂いを嗅ぐ、などという特殊な行為をする女子もいるが、小鳥遊相手にそんなことをできる人間はこの先ずっと現れないだろう。その後も、小鳥遊から八尾に話しかけてくることは一度もなく、例によって六人でワクワク公園に行き、例によって南条GFCと試合をし、その日も終了となった。















 月、火と女子高生達から離れていたおかげか、水曜は抜群に体調が良かった。講義も一限から五限まで通しで受講し、居眠りもしなかった。四百五十分間の念仏が難敵であったことに変わりはないが、構内を出た時に見えた夕焼けはいつもより美しく感じた。

 陽が長くなったことで、桜峰女子高等学校のナイター設備は少しずつ遅番になっていた。あんまりナイターが眩しいとハイボールが見えなくなってしまうので、彼らの仕事がないならそれに越したことはない。気温的にも湿度的にも、運動をするのには今が一番良い時期だ。桜峰までのチャリンコ移動も、いい風に吹かれて気持ちよかった。そしてそれ以上に、グラウンドの中央を分捕って練習している六人のサッカー少女達の動きはハツラツとしていた。


「なんか気合い入ってんな」


「トーゼン! 日曜は試合なんだから!」


「はーん」


 兎にも角にも、試合ができることが嬉しくて仕方ないのだろう。そう言う感覚は俺には薄いものだった。小中高、俺の在籍したチームが対戦相手に困ったことなど一度もない。土日祝日盆暮れ正月、絶対にどこかしらと試合をしていた。まぁ、今の桜峰と比較するのは少し可哀想か。選手六人の女子校と試合を組んでくれるチームは多くない。船川や市役所と試合ができるというのは、ひとえに望の努力の賜物なのだ。


「それで、頼んどいたもんは用意できたか?」


「もち。皆んなちゃんと保管してくれてたから。はい、これ」


 選手達はゴール有りの三vs二のミニゲームをしている。俺はそこから目線を外し、受け取った小冊子を指でなぞる。


「個人情報だから、流出させないでね」


「見たらすぐ返す。それに、流出して困るようなことは記録してないだろ」


「そんなことないよ。体重とか体重とか体重とか」


「全部体重じゃねぇか」


 だが、言われてみれば、選手達がチラチラこっちを気にしている。六人の中で、素人の小鳥遊だけが練習に集中していた。これは非常によろしくない。望を含めた経験者六人は、小鳥遊の心をしかと引っ張って、サッカーの道に引き込んでもらわないと困る。小鳥遊がこれから三年間、ずっとサッカー部にいてくれるかどうかなんて、誰にも保証できないのだから。


「ま、いいや。えーと、どれどれ……」


 乾いた指先をちょっと舐めてからページを捲る。望が凄く嫌そうな顔をしていたが、無視。


「ふーむ。ふむ、ふむ。なかなか、いや、かなり高いな」


 久保竜子。50メートル走、5.7秒。1500メートル走、5分2秒。シャトルラン、88。etc……。

 これは、久保達のスポーツテストの記録だ。どの学校でも春先にやるものだから、生徒によってはセンター試験よりも馴染み深いはずだ。この小冊子には六人分の記録がまとめられている。


「リュウちゃん、カロちゃん、ユリちゃん、あと小鳥遊さんがA判定だよ」


「みたいだな」


 このテストはどれか一つが飛び抜けていても判定は良くならない。逆に、どれか一つでも不得手、平均以下の記録を出してしまうと、一気に判定が悪くなる。誰しもがわかっている通り、A判定を取るのはかなり難しい。だが、サッカー部の六人中四人がA判定。このチーム、個人の身体能力はかなり優れているということだ。

 それに、なかなか面白いことがデータに出ている。久保達の学年で総合一位を取っているのは、まさかの小西だった。小西はまさしく、どのテストでもトップクラスの記録を残している。久保は50メートル走ではぶっちぎりの一位だが、柔軟性に若干欠ける。トラップが下手な理由がまた一つ見つかった感じだ。

 中沢、小鳥遊も好記録を平均して出している。この二人は欠点らしい欠点は見当たらない。

 仲村はギリギリB判定だ。だが、どうもプレー時の運動能力に比べて記録が悪すぎる。シャトルランとか1500メートル走とか、体力、持久力系のテストは全て手抜していると思われる。彼女ならA判定とはいかなくても、Bの上くらいには取れるはずだ。

 最後に、C判定の遠藤。筋力、持久力、敏捷性など、全体的に数値が低い。筋力がもう少しつけば記録も上がるだろうが、A判定は無理だろう。身体能力で勝負するのは難しいな。


「身長、体重……。どいつもこいつも痩せすぎだな」


「え、そう?」


 望が花が咲いたような笑顔になった。


「お前のことじゃないぞ」


「なーんだ」


「そもそも褒めてないし。ったく。引き締まってるのと痩せてるのとの違いがわかってねぇな」


 軽いイコール速さではない。本当の速さとは、強靭な筋力に裏打ちされたもののことを言う。身体をぶつけ合うサッカーにおいて、重さは強さに含まれる。


「その辺の説明したいから、ちょっと集合かけてくれ」


「自分で言えばいいじゃん」


「でかい声出すの疲れるんだよ」


「この恥ずかしがり屋めー」


「うっせ」


 全くもう、と言いながらも、望は俺の代わりに声を出してくれた。ミニゲームの途中だった選手達も、手早く切り上げ、こちらに集まってきた。自分達のスポーツテストの記録に、一体何を言われるのか。まぁ、褒められるのを期待している子はいない。遠藤なんかは俯いてしまっている。


「わかってると思うけど、スポーツテストについて二言三言、言わせてもらう。最初に、各自の記録をどうこう言うつもりはない」


 俺が注目しているのは、「ここ」に彼女達の現在位置があることだ。


「二カ月後、全く同じテストをやる。そこで最低二つは記録を上げておいてもらおう。達成できなかった奴は五試合出場停止」


「ええ!?」


「なんだ? 十試合がいいのか?」


「いえ、コーチ、そこじゃなくて……」


 遠藤がますます顔色を暗くしている。彼女が近くで俯くと、俺の顔に影ができる。


「君らもわかっていると思うが、サッカーの上達ってのは目に見え辛い。試合相手によってプレーのできるできないに差異が出てくるし、キックやトラップの精度も、状況に左右されるからな。だから、上達している、成長している、という実感が湧き辛い」


 だから、俺は死ぬほど焦って這いずり回って、それでも何とかしようとして、最後には積み上げてきた積み木全てが落ちて砕けた。


「スポーツテストってのは目に見える成長だ。君達の身体能力が上がっているか否か。これは勝つために必要不可欠な要素だろう。だから、二カ月ごとにテストする」


「二カ月、ごと……。三年間やるんですか?」


「やる。あ、最低二つと言ったが、五つ上げれた子にはボーナスを考えてるからな。まぁ君らのペースでやればいいさ」


 自分の成長に限界を感じた時、手のひらに収まるデータがあるのとないのとでは気持ちの持ちようが全然違う。それに、少女達が特別な意識をしなくても身体能力強化に繋がる練習を考えているわけだしな。


「コウちゃん、目が笑ってないよ……」


「そうか? 俺は楽しみなんだけどな」


 ふふふ。脳から喉を通ってきたみたいな笑い声が漏れた。シゴく理由ができたから、ちょっと嬉しい。

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