看板娘とコーチ

晩飯は弁当の残りを食べよう。五時間前はそう思っていたのだが、今の弁当箱には米粒一つすら残っていない。昼食分をひとまず食べ終え、死ぬほど一服ふかしたくなっている時、


 ーーお弁当は余っていますか? 余っていますね。もったいないので私が食べてあげます。


 突如として背後に現れた小西に弁当箱を奪われてしまった。食後で少し気が緩んでいたのもあるが、声をかけられるまで気配を察知できなかったのは怖すぎる。俺が、あぁ……とか、うん……とか、意味のない単語を呻いている間に、小西は弁当をまるっと平らげてしまった。一般的な成人男性の俺が晩飯の代わりになるくらいの量が残っていた、いや、残していたのだが。


 ーー中途半端に食べると逆にお腹が空きますね。


 小西はそう言い残して、フラフラと土手の向こうに歩いていった。緑色のがま口を右手でお手玉していたから、多分近くのコンビニに行ったのだろう。あいつの胃袋は異次元とでも繋がってるのかと震えた。

 コーチという立場で初めて試合に参加した俺の今日の疲労度は、最早言うまでもあるまい。やっとの思いで帰宅した俺は空の弁当箱をシンクに放り込み、晩飯をどうするかを考えていた。実質的に言えば「ことりちゃん」一択なのだが、これから外に出るのはかなり億劫だった。とりあえずダイブしたベッドの上で、いっそこのまま寝てしまおうかとも思えてくる。


「腹ヘッタ……」


 だが、それはどうにも難しそうだ。人間は一食抜いたくらいでは死なないはずなのに、腹が減っていると何故か生命の危機的なものを感じてしまう。寝返りを打って天井を見つめ、「ことりちゃん」のメニューを記憶でなぞっていく。すると、連鎖するように小鳥遊のことを思い出した。

 船川との六本目、小鳥遊は人生初ゴールを決めた。シュートの状況や仲間達からの祝福については今は省略する。そこからの小鳥遊の方がもっと重要で、関心を割くべきは絶対にそっちだからだ。


 得点を挙げた直後から、小鳥遊はプレーの質をガクンと落とした。おそらく、「点を取ることを考えてみろ」という俺の要求に応えたことで、集中力が切れたのだろう。パスやトラップという技術的な精度だけでなく、フリーランニングの質や判断力も著しく低下し始めた。それはまるで、火の付いた花火をバケツに突っ込んだような極端な落差だった。

 桜峰サッカー部の試合を外から見ている者として、選手の様子には敏感でなくてはならない。それが善し悪しどちらの方向に転ぶかの見極めも含めて、俺が果たすべき義務だろう。小鳥遊の様子がおかしくなってすぐ、俺は彼女をベンチに下げた。このままだと怪我をすると思ったからだ。


 小鳥遊のサッカー経験値を知っている桜峰の選手達も、もちろん不満は言わなかった。それまでの小鳥遊が異常だっただけで、トレーニングをしていない彼女が長時間の試合をこなせるわけがないのだ。坂田のおっさんも、事情を話せば快く船川の選手を貸してくれた。むしろ、桜峰のエース級の8番がど素人だったことへのリアクションが大きくて、ウザかった。


 ーーえぇ!? あの子、サッカー始めて三日目!? 信じられないなぁ。素晴らしい才能だね!


 強豪チームの代表者にここまで言わせてしまうほど、小鳥遊のプレーはピッチで異彩を放っていた。だが、どうやらそれには時間制限があるらしい。運動の質を跳ね上げる集中力の高さは、相変わらず異常と名付けるしかない。だが、正直、あの少女の才覚がギリギリ人間の範囲内であることがわかって安心した。それだけでも収穫だろう。


「収穫、か」


 なんだか小鳥遊のことばかり考えてしまっていた。だが、それと同じくらい、試合の楽しさに瞳を輝かせていた少女達の姿が胸に残っている。今さら羨ましいとは思わないが、彼女達との間にある分厚い壁を自覚せずにはいられない。タッチラインを踏み出せばその場所に行けるはずなのに、俺にはもう掴めない。


 ーー掴まなくて、いいか。


 明日も一限から講義がある。霞に目を細めていても仕方ない。今日は栄養補給をして早めに寝よう。五百円硬貨が二つ入った財布を手に、アパートを出た。終わりに近づいた春の匂いが、若干のベタつきをもって俺の鼻腔をくすぐる。西の空は朱の混じった藍色で、綺麗だと思えなくもなかった。少し歩いて「ことりちゃん」の灯りが見えてくると、


「ん、いらっしゃい」


 黄色い暖簾の向こうから、ひょっこり小鳥遊が出てきた。俺に気づいた看板娘は、何のつもりがあってか、右手で箒をくるりと回転させた。


「……凄いな。働いてるのか」


「別に凄くない」


 夜風に吹かれて揺れる黄色いエプロンが、妙に艶やかだった。しゃんと伸びた背筋からは、今日の試合の疲れは一切感じない。


「疲れてないのか?」


 口が勝手に動いた。


「……」


 小鳥遊は二秒だけ悩んで、


「少し」


 そう言った。それでも店の手伝いをするのか。「ことりちゃん」は土曜と祝日、第二、第四水曜が休みなのだが、この高校生はそれ以外は全日働いているのだろうか。俺には逆立ちしても真似できない勤勉さだった。


「俺が言うのも変な話だけど、疲れてるのならちゃんと休めよ。体調崩すぞ」


「最後の方は敵チームの子が代わりに出てくれたから、大丈夫」


「む」


 思わぬところで引っかかりがあった。偉そうに言えたくちではないが、そこだけはどうしても訂正しないといけない。


「小鳥遊。相手チームを『敵』と呼んじゃダメだ」


 売り物の漫画とか小説の中ですらたまに出てくる表現だが、それは絶対に譲れない部分だった。


「サッカーは戦争じゃない。敵なんてものはいないんだよ」


 ヒット映画、「少林サッカー」のセリフで「サッカーは戦争だ」というものもあった。だが、あれは映画上の演出として選手の心構えを説いているだけで、そのまま受け取ってはいけない。

 確かに、スポーツが政治に利用されたり、国家間、民族間の代理戦争になることはある。実際、競技で飯を食っているプロからすれば、勝ち負けは人生の浮き沈みと等しいだろう。個人やクラブ、国には様々な立場や状況があるから、そういう感覚に陥るのもわからなくはない。

 だがそれでも、現場の人間は絶対に取り違ってはいけない。サッカーをプレーする者同士が「敵」となることなどないのだ。


「わかった」


 小鳥遊がくぃと頷く。なら、これで俺の話は終わりだ。


「魚定食はまだあるか?」


「さっき売り切れた」


「そうか。ならどうしようかな」


 店内からいい薫りが漂ってくるので、腹の虫が騒ぎ出した。

 そうだな、俺も今日はちょっと頑張ったし、肉でも食うか。道を開けてくれた小鳥遊に軽く手を上げて感謝しながら、店に入った。



















 八尾望の交渉は暗礁に乗り上げていた。どんな小事でも、慣例を変えるというのは相応の馬力が必要らしい。グラウンド使用の日時変更を、学校側が許してくれないのだ。


「で、す、か、ら! 火曜休みだと練習効率が悪いんです! これを変更してもらえるかどうかで、成績に天地の差が出るんです!」


 八尾が強い口調で言う。相手が教頭と部活長でなければ、卓を叩いていたところだ。生徒相談室に出入りしたのはこれで九回目、時間にして三時間を超えている。それだけ必死かつ真摯、何より理屈で説明しているというのに、


「いや〜〜。でもねぇ、サッカー部はまだ七人なわけだしさ。練習どうこうよりも、まずは部員集めからじゃないかなぁ。ほら、ね?」


「そうですねぇ。時間はまだまだあるし、そういう根本的な部分を考えた方が良いですよ。長い目で見ましょう」


 彼らはあまり真剣に取り合ってくれない。人数が少ないことと練習日時は全く関係ないし、高校生活だって有限だ。別にグラウンドを芝生にしろと言っているのではない。休日を月曜と火曜で入れ替えるくらいでは他の部の邪魔にもならないのだから、もっとすんなり了承してくれても良いだろう。何をそんなに渋っているのか謎だった。


「ほら予鈴が鳴ったよ。教室に戻りなさい」


「……」


 そして結局、昼休みの終了の合図で追い出されてしまった。音を立てて閉じられた扉に、八尾の頬がぷぅと膨らむ。


「もう! アッタマ固いなー!」


 しかもそこ固くするとこか? いい歳して意地を張ってもシワが増えるだけなのに。顧問の古見先生が腰痛で休職してからというもの、部活長からサッカー部への当たりがキツくなった気がする。やはり桜峰一筋四十年の最古参の発言力は偉大だったということか。古見先生が八尾の隣でニコニコしてくれていた時は、大体のお願いは通っていた。


「いや、うーん。そこがダメだったのかな」


 このままではいずれ増長すると思われたのかもしれない。だとしたら、古見先生発動タイミングを間違えた。公太郎の出した条件、「月曜日を休日にする」を達成しないと、彼がコーチをしてくれなくなる。古見先生に力を貸してもらうなら「ここ」だったということだ。しかし今更気づいてももう遅い。古見先生の復帰は、早くてもあと一週間かかる。こんな短期間で二人の顧問が休職するなんて、サッカー部は呪われているのだろうか。


「あ、のぞみのぞみ! どうだった?」


 廊下の向こうから久保が駆け寄ってきた。学校との交渉ごとはいつも二人でやっていたのだが、今回久保は委員会で参戦できなかったのだ。


「ダメだった。てか、この感じだと当分は無理そう」


「そっか……。このままだと、あの人、ホントに来てくれなくなると思う?」


「うん。絶対。百パー」


「やっぱりかぁ」


 久保ががっくり項垂れ、ポニーテールが元気を無くす。

 ああ見えて公太郎は、サッカーに関しては妥協という二文字を知らない。自分自身に対しては特にその傾向が顕著で、現役時代はおそろしいまでにストイックだった。その頃の公太郎の姿勢は、今でも望の瞳に熱く焼きついている。そういう生真面目さ、馬鹿真面目さが仇となって今の彼を構成していると言えなくもないが、だからこそ八尾は公太郎にコーチをお願いしたいのだ。

 そんな公太郎が出してきた条件を、八尾達は飲んだ。彼は己の理想を他人に押し付けたりはしないが、互いに合意した以上は約束を守らなくてはならない。条件そのものも、意地悪や混乱狙いではなく、桜峰サッカー部の今後のために言ってくれたことだ。

 しかし、もしこのまま八尾達が月曜休みを獲得できなければ、公太郎はグラウンドに来なくなる。下手をすれば、コーチを降りると言うかもしれない。


「あの人、ホント中途半端に肩肘張ってるのよね。人生しんどくないのかしら」


 久保は公太郎の性格が損に思えて仕方がない。何事も中途半端が一番もったいないのだ。

 そして、久保の表情を見た八尾は、公太郎と彼女の微妙な関係性をムムムと訝しんでいた。この二人の間だけ、他とは接し方が違う気がするのだ。誰にでも優しく清廉潔白な久保が、公太郎に対してはやたらとキツい。嫌っている、という感じではないが、どことなくトゲトゲしい。


「もっとゆったり過ごせばいいのに。その方が……」


 かと思えば、時折心配したようなことを言う。その時の若干寂しげな瞳が、これまた普段の久保の性格とズレている。


 ーー気になるなぁ。


 斜め下を向いている久保の横顔を、八尾はじっと見つめる。長い睫毛が揺れていた。だが、


「ま、休みの日のことはもう少し頑張ってみましょうか。あの人も少しくらいは猶予をくれるわよね」


「え、あ、うん。そうだね。うん」


 ぱっと視線を戻してきたので、慌てて話を合わせた。


「教室戻ろっか。授業に遅れちゃう」


「うん。あ、しまった、大変! 五限目、移動教室だった! それじゃ、部活で!」


 のんびり話している場合ではない。八尾は早足で教室へと戻る。すると途中でポケットのスマフォが揺れた。悪い予感がして歩きながらメールボックスを開くと、


 ーー今日は行かないから。


 案の定、公太郎からのメールだった。十文字程度の飾りっ気のない文章だったが、八尾には疲労で動けなくなっている従兄弟の姿がありありと脳裏に浮かんだ。


「……了解、っと」


 そんな状態の公太郎を引っ張ってくるほど、八尾も鬼ではない。強引にコーチを引き受けさせたが、負担になるようなことはしたくないのだ。


「うわ、やっぱ誰もいな……あ」


 自分が最後だと思って慌てていたら、がらんとした教室の中にヒヤシンスが一輪咲いていた。くどい言い方になってしまったが、八尾にはそこだけ光が当たっているように見えたのだ。


「小鳥遊さん、どうしたの?」


 頬杖をついて窓の外を眺めていた小鳥遊。まさか自分を待っていた、なんてことはないだろうが、それなら何をしているのか。


「八尾さん。今日あの人くる?」


「あ、コウちゃんのこと? うぅん、今日は来ないってさ」


「じゃあ、私も練習行かない」


「え」


 「じゃあ」の意味がよくわからなかった。


「そ、そう。わかった。リュウちゃんには私から言っておくね」


「ありがとう」


 だが、小鳥遊からお礼を言われたことに心がフワついてしまい、その真意をはっきりさせるタイミングを逃した。


 ーー小鳥遊さんにありがとうって言われちゃった!


 これが後の大問題に発展するとは、この時の八尾は想像すらできなかった。

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