元キャプテン
到着した三チーム目は、高萩という地元の少年サッカースクールで、弱くも強くもない普通のチームだった。ただ、コーチがトレセンの世話役をしているらしい。そう言う人は県内外に広いパイプを持っているから、色んなチームと試合が組める。県内王者の船川と練習試合ができるのもそのおかげだ。
ーー旨えぇ。
俺は土手ではなく、橋の上からAコートを見下ろしていた。海の見える橋の真ん中でタバコを吸うのは非常に気持ちがいい。禁断症状以外でタバコを旨いと思ったのは久しぶりだ。追い風で煙が前へと流されていくのも嬉しい。
煙を目で追うと、視線はまず水平線に繋がり、次に膨張した雲に辿り着く。そして最終的に、雲が作る影、ピッチへと戻っていく。眼下では船川と高萩の試合が行われている。一本目の十分が経過した時点で、すでに3ー0。力の差は歴然だった。六年生だけで十八人揃う船川と、四年生まで試合に出ている高萩が勝負にならないのは当然のことで、試合としてほとんど成立していない。レベル的には桜峰と高萩が試合をするのが妥当だろう。
ーーお。返したか。
高萩の10番が終了間際に得点して一矢報いた。船川の個人技に対抗できているのは10番だけだが、周りが上手くフォローして攻撃を成立させている。高萩も組織が完成している悪くないチームだ。
大して興味のない試合を見ながら、思考を砂底へと沈ませていく。船川のレベルは、高校女子サッカーに嵌め込めばどれほどのものなのか。船川ならインハイ予選で優勝できるのか? それとも準優勝? ベスト4? 一回戦敗退?
俺にはその基準がわからない。船川に勝てない桜峰は、県内の女子サッカーではどの地位にいるのだろう。一度は辿った少年サッカーでさえ、今の俺では客観的に測れない。ならば、何一つ知識も経験もない女子サッカーは、それ以上にわからない。というより、何もわからない。
ーーまぁ、上位ってことはないだろう。
そもそも七人いないから試合に出ることもできない。よしんば七人いたとしても、四人も少ない状況じゃどうしようもない。
ーー染まってきてんなー。
嫌だ面倒だと口では言っても、気がつけば桜峰女子サッカー部のことを考えてしまっている。これでは望の思うツボなのだが、脳が勝手に構想を膨らませていく。そしてその度に、
「……キツい」
あの日々を思い出して、ドライアイスを掴んだみたいな痺れが手先に起こる。冷たいのか熱いのかわからなくなって、手を離す。
虚空に向けて一直線に吐いた煙が、形を失って霧散した。
午後四時、本日の全行程が終了した。船川とは六本、高萩とは四本ずつ試合を行い、トータルスコアは4ー9、4ー2。得点の内訳は久保が三点、仲村が二点、小鳥遊が一点、あとは助っ人に入ってくれた船川と高萩の選手が一点ずつを取ってくれた。
今日の試合でわかったことだが、桜峰は意外と攻撃力がある。久保の速さと仲村のドリブル技術があれば、相手ディフェンスラインを錐のように突破できる。そこに遠藤のパスセンスと中沢のボール奪取能力が上乗せされれば、局地戦での勝率もぐっと上がる。選手達の得意分野なら十分、武器として成立する。ただ、そこを押さえ込まれると打つ手がなくなる場面も多かった。
久保はトラップ、仲村は判断の遅さ、遠藤はスピード。この辺りが大きな課題と言える。
高萩の選手達はチャリンコで、船川の選手達は車で帰っていった後の河川敷は、急に物寂しくなった。まだ陽は高いが、何となくピッチに影が差しているように見える。
ーーはよ帰りてぇ。
こんなに長時間屋外にいたのは久しぶりだ。割と日差しが強かったせいもあって、鼻頭がピリピリする。サッカーに日焼けは付き物だが、女子高生達はそれで良いのだろうか。ま、それで良いんだろうな。日焼けをすることも、日焼け止めクリームを塗ることも、今の彼女達には楽しみでしかないのだろう。駐輪場で汗を丁寧に拭いている少女達に目を向ける。流石に更衣室のない河川敷でアンダーウェアやスパッツを脱ぐことはないようだ。まぁ、かつての俺やチームメイト達は平気で着替えをしていたが、それは男子だからできたことだ。
ーーコウちゃん! 今日の試合、通して観てどうだった!?
船川との最後の十五分が終わり、選手達が俺のところに集まってきた時、望は瞳を輝かせて言った。「サッカー」の試合ができたことは、桜峰サッカー部にとっては目覚ましい進歩なのだ。そして、実際に点を取ったり取られたりする「普通」の試合ができた。それを全て観ていたコーチに何らかのアドバイスや総評を求めるのは当然だろう。
ーーいや、特にない。
だが、この一言のみにとどめた。俺は今日、桜峰の現在地点を測ることに徹した。どんなプレーができて、できないのか。そして、できるようになっていくべきなのか。見えた部分はあったが、まだ口にする段階でもないのだ。
ーーまぁ、ミスが少ないのは気になったがな。
だが、止せばいいのに、俺の口は勝手に動いてしまった。それに敏感に反応した選手達は「ん?」と頭上にクエスチョンマークを飛ばす。知識をひけらかしたがる自分の本性にほとほと嫌になるが、言ってしまったものは仕方あるまい。
ミスが少ないというのは、見方によっては、「できることしかやっていない」ことになる。確かに、成功の積み重ねで精度を上げる練習もある。だが、失敗の積み重ねこそが上達の階段だ。できないことをできるるようになるには、何度も挑戦して何度も失敗して、ミリ単位で段を構築していくしかない。それこそ、試合形式で練習ができる「練習試合」は恰好の機会なのだ。チームの勝利ではなく、自身の成長にある程度の比重を載せられるのが大きい。
「とは言え、現実問題、意図的にミスをするってのはかなり難しい。試合中なんだから、脳は勝手に最善、最高を選ぼうとする。できないことをやろうとするなんて判断は、ちょっとした変人じゃないと無理だ」
「じゃあ、どうするんですか?」
遠藤が困ったように訊いてきた。
「先行入力だよ」
俺は自分のこめかみに人差し指を当てた。
「試合前に自分のできないプレー、上手くなりたいプレーを思い描いておく。そして、それをシチュエーションにはめ込んでおくんだ。このシチュエーションになればこのプレーを絶対にするってな」
ドリブルが苦手だから、ボールを受けたら必ずスリータッチ以上する。左のキックが上手くなるために、ロングパスは全部左足で蹴る。試合前に予め決めておくのだ。これをしておけば、ミスを誘発できる。
「練習試合は勝たなくていいんだから、もっと有効活用すべきだ。そして負けていいわけでもないから、責任も生まれる。ミスをすることが上達に繋がるとは言ったが、ミスをしてもいいんだと勘違いされても困る。緊張感を失うと練習にならないからな」
とまぁこんな感じで、サッカー落伍者からのありがたーいお説教をこねて、俺の仕事は終了した。あとは少女達が理性と理屈で噛み砕いて、彼女達なりの答えを出してくれればいい。重石になるか翼になるかは運に任せるしかないのだが。
ーーとっとと帰ってくんねぇかな。
タバコに火をつけながら思う。俺も当然、駐輪場に自転車を停めているから、女子高生達がいなくなってくれないと帰れない。あんなキラキラした輪の傍には、できるだけ近寄りたくないのだ。さようなら、とか、また明日、とか、今日はありがとうございましたとか、そんなことを言われるくらいなら、ここで一カートン消費する。我ながら子供じみているとは思うが、子供じみるのも大人の特権である。せっかくもらったのだから、行使しないと権利の意味がない。
紫煙の香りに包まれて呼吸をする。橋の上を走る車やバイクの音が聞こえてきて、一人でいることの楽しさが湧き上がってくる。
「コウちゃん、コウちゃん!」
だから、切羽詰まった表情でバタバタ駆け寄ってくる望が目の端に映ると、煙に溜息が色濃く混ざった。タバコをアスファルトに押し付けて火を消す。じゅ、というささやかな断末魔が俺の耳にのみ届いた。
「タイヘン、タイヘン! コウちゃん助けて!」
「やだよ」
「即答!? 女の子のヘルプを即答で拒否!? 理由も聞かず!? 性格歪んでるよ!」
「あぁそうだよ歪んでるよ」
歪んでて何が悪い。俺からすれば真っ直ぐな奴の方が不気味だ。
「まぁいいや! お願いちょっと来て!」
「いいのかよ。あとヤだからな」
「いいから早く来て! リュウちゃん達が男二人にナンパされてるの!」
「はぁ? なんぱぁ?」
こんなド田舎の「河川敷」で、ナンパ? 田舎者をバカにするつもりはないが、女子高生をナンパするような度胸と無駄な自信がある奴なんていないと思っていた。まぁ、実際にいるから俺のところに火の粉が飛んできたわけだが。
「いいじゃねぇか。されとけよ。ナンパされるとか女子のステータスみたいなもんだろ」
私ナンパされたことあるのよ。そう言って周りの奴らにマウント取ってりゃいい。
「そんなことないから! 普通に迷惑なだけだから!」
「えぇ?」
「それに、リュウちゃんって男の人相手だと割と普通に手が出るらしいから! アンちゃんが言ってたの!」
「心配ってそっちか。で、その仲村は何してんだよ」
「ニヤニヤしながら写メ撮ってる……。カロちゃんはお腹空いたからって帰っちゃったし、ユリちゃんも家の手伝いあるからって……」
「それはそれで大概だな」
「リュウちゃんとアヤちゃんと小鳥遊さんが、あ……アンちゃんも混じっちゃったよ! ほら早く!」
俺の位置からだと、橋桁に隠れて女子高生達の脚しか見えない。確かに四人がひとまとまりになっている。
「お前な、俺に事件解決能力があると思うか? 女子高生をナンパするような奴とコミュニケーションが取れると思うか?」
未成年に発情するような野郎と会話ができるとは思えないし、したくもない。絶対に理解し合えないし、多分何を言ってるのかもわからない。別の言語を使っているはずだ。
「思わないけど来て! 男の人いるかどうかで変わるから!」
「うわ、おま、引っ張るな! ちょ、力つよっ!?」
袖を奪われて引き摺られる。あまりのパワフルにタバコとライターを落としてしまった。ポケットから財布が落ちそうになったのを必死で抱え上げる。こんだけ腕力あるなら自分で何とかしろよ。
あぁもうどうでもいいやと諦めモードで現場に引き摺られていくと、女子高生達の脅威がナンパ男達ではなく、久保の怒りのボルテージであることがわかってきた。苛立たしさにプルプルと震える拳を、隣の遠藤がまぁまぁと必死に抑えている。そんな様子を仲村が愉快そうに観察し、おそらくナンパ男達の一番の目当てであった小鳥遊は、チロチロとした河の流れを無感情に眺めていた。彼女だけまるで別世界にいるみたいな態度だ。仲村と小鳥遊は男達など眼中になく、遠藤も久保を抑えることにいっぱいいっぱい。ナンパに腹を立てている久保だけが、その原因と話をしているという、なんだかおかしな状況だった。
「暫く暫くー!」
そんなカオスな状況に余計に動転したのか、時代錯誤な日本語で望が間に入ろうとする。友人を助けようとする心意気と度胸は素晴らしいが、そこに俺を巻き込まないで欲しいと切に思う。
望と俺の登場に、遠藤が安堵の息を吐こうとして、「あ、いや、でもこの人が来てもあんまり意味ないんじゃ……」と思い直し、その後、「いやいや、男の人が来てくれるだけでもありがたいかな」という瞳となって、表情が固まった。
「コーチ!」
「んん?」
「えぇ……」
「お兄さんが来ても仕方ない気がしますが〜」という仲村と、「あなたじゃ無理だから下がってなさい」という久保の溜息。小鳥遊はちらとだけ俺に目を向け、その後ぱちぱちと瞬きした。
「こーちぃ? 君らこーちなんかいるの?」
「あー、それならさ、代わりに俺らがコーチ引き受けるっすよ。それでどうっすか? 悪い話じゃないと思うけどなー。だから、ね? メアド教えて欲しいっすよー」
マジかよラッキーあとは頼んだ。本気でそう考えて頬がにやけた時、他惑星の生物くらいに設定していたナンパ男の顔を俺の網膜が観測した。
「あ……」
ナンパ男も俺に気づいた。
「……あれ、あれあれ。キャプテン? うおお!! キャプテン! キャプテンじゃないっすか!!」
数年前と変わらぬ坊主頭。「っす」をつけてれば全部敬語になると思っている喋り方。そして、日本人離れした濃ゆい眉毛。
「え、おま、知り合い?」
「知り合いも知り合い! 中学の時の先輩っすよ!」
女子高生をナンパしていたのは、俺の中学サッカー部時代の後輩、竹内拓真だった。
ーーえ、キャプテン?
望と久保以外、小鳥遊ですらちょっと驚いていた。
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