天才とパター型
ーーすぱいくってなに?
こんな質問がこの世にあるのか、と思った瞬間だった。え、スパイクっつったらスパイクだろ。あ、でもバレーのスパイクとかもあるか。しかしどちらにせよ、普通に人生を生きてきたならば高校生になるまでには知っているはずの単語だ。だが、ヒヤシンス娘はそれを知らないと言う。割と平気な顔で。
「え、えっと。スパイクってのは、サッカー専用の靴のことで……あ、でも野球もスパイクって言うんだっけ?」
「屋外でやるスポーツは大抵スパイクじゃないか?」
「あとはバレーのスパイク、とか」
望も久保も、まるで俺の思考を音読したみたいな内容を喋っている。三人とも同じような混乱の中にいるのだ。
「あの、小鳥遊さん、サッカーのことよく知らない?」
「知らない」
「ど、どれくらい知らない?」
その質問の仕方は悪くないか。ヒヤシンス娘はふと視線を下に向けた。表情の変化はないが、多分記憶を洗って考えこんでいるのだ。
「足以外でボール触ったらダメってことだけ」
ーーあ、アカンやつ。
でもスローインとかキーパーは知ってるよ……ではない。この子絶対、スローイン知らない。下手したらキーパーの存在すら知らない。
「ちょ、ちょっと待ってて」
望が両手をTにしてタイムを取る。俺と望と久保で、ヒヤシンス娘に背を向けて話し合いを始める。
「だ、大丈夫なの、この子。閉鎖空間とかで生きてきたのかしら」
「オフサイドがわからないって人は多いけど、これはさすがに……」
「おい、今時はサッカーの授業とかしないのかよ。女子校とはいえ、休み時間で話題になったりもしないのか」
「サッカーの話なんてしないわよ。うちの部の状況見ればわかるでしょ」
「いや、でも、中学までは共学だったし……。小鳥遊さんって東中だよね」
市立東中学校は俺のアパート、つまりは「ことりちゃん」から一番近い場所にある中学校だ。ヒヤシンス娘が通っていたと考えて間違いはない。
「やっぱり、興味ないことは一切覚えてないのかな」
「それにしたってこれは酷すぎない?」
「待て。あの子ならあり得る。俺はそう思うぞ」
「……確かに」
「あり得ない話じゃないわね……」
話はまとまってはいない。それでも俺たちはある程度の落ち着きを取り戻したし、廃部の危機はまだ続いていること、場合によって更に困難な壁が生まれたことを悟った。三人で深く頷きあって、再びヒヤシンス娘と向き合う。望は若干引きつった笑い方をしていて、久保は難しい表情をしている。
「とりあえず、細かいルールとかはプレーして覚えるってことでいいかな?」
「わかった」
一応覚える気はあるらしい。それなら大丈夫かとは思えた。店での仕事ぶりを見る限り要領は良いし、地頭も良さそうだ。
「小鳥遊さん」
すると、久保が真面目な声でヒヤシンス娘に問いかけた。
「あの、どうしてサッカー部に入ってくれたの? 他にも部活はあるし、文化部の方が良かったんじゃない?」
それは生まれて然るべき疑問だった。何故、サッカー部に。ルールさえ知らないほど興味がなく、本人もやる気はあまりない。そして何より、まともな活動をするのにも困っているような運動部を選んだ理由は何なのか。親に言われたから仕方なく、というだけなら、もっと相応しい部はいくらでもあるだろう。
「あぁ」
ヒヤシンス娘がチラリと俺を見た。だがすぐに視線を切る。
「栄がどうせなら人様の役に立ちなさいって言ってきて。この部が無くなりそうだって八尾さんから聞いたみたい」
あまりに素っ気ない返答に、望と久保の時間が停止した。動機と呼ぶにはあまりにも薄っぺらい始発点を知って、心がドライアイスに触れたような錯覚に陥っていた。
ーー実は今、凄く困ってることがありまして。
望と遠藤が初めて「ことりちゃん」に行った時、望が何の気なしに、ただ単に一つの話題として口にした彼女たちの苦境。他意なんてなかったはずだ。あるとすれば愚痴というか、今の悩みをぽつりと吐露しただけ。決して、娘を部に引き入れるためにおばちゃんの同情心を意図的に煽ったわけではない。
だが、生じた結果だけを見ればそういうことであり、またそれは望たちが求めていたものと懸け離れているものだった。サッカーが好きだから集まっている部員たちの中に、異物が入ってきた。しかも、異物自身もそのことをちっとも望んでいない。だからこそ、半紙に墨が滲むように這い出てくる言葉を抑えることができなくなる。
「あの、さ。それってことはつまり、この部には嫌々……」
普段、俺にはキツい態度や言葉遣いをするくせに、こんな時ばかり久保の口調はたどたどしい。彼女たちとヒヤシンス娘の掛け違いが音になって表出化しようとする。
「まぁ、良いじゃないか」
俺はその言葉を途中で遮った。この話は今は進めるべきでないと判断した。
「いいから、久保はさっさと練習始めろ。このままだとサッカーはひたすらだべってるスポーツだと思われる」
半分冗談、半分本気で言った。俺が言うのも何だが、心が揺れそうならサッカーで吹き飛ばしてくれないと困る。それに、待望の新入部員が実は望まぬ入部を強いられていただけだったと言うのは、一つの側面に過ぎない。最も重要なことは、チームメイトが一人増えたという「前進」だ。
「君には最初、軽く用語とルールを覚えてもらって、あとは望が言うように実際にやってみてもらおうか」
プレーしてみればヒヤシンス娘の気持ちも変わるかもしれないし、そうなった時の価値は大きい。
俺の考えがどこまで伝わったのかはわからないが、久保が黙って頷いた。せっせと練習の準備をしている部員たちの方へ駆けていく。
「久保、今日はタッチ無しでいいぞ。代わりにロンドやってくれ」
久保の背中を追いかけて言う。ロンドなら細かいパスやトラップが何度も行われ、望もプレーの説明がしやすいだろう。そういうつもりだったのだが、振り返った久保が訝しそうな顔をしていた。
「……ロンド? なに、それ。なんの練習?」
「あ? あぁ、こっちじゃロンドって言わないのか」
ロンドとは、四対一、四対二などに人数分けし、多い側がパスをつないでボールをキープするという練習だ。止めて蹴る、という基本的な動作から視野を広げる意識など、サッカーの基礎的な技術を磨くことを目的とする。プレーエリアやタッチ数、人数などに制限をかけることで練習強度を調整することもでき、非常に「便利な」練習方法なのだ。プロが練習や試合前に円陣になって遊んでいるヤツだ。
「トリカゴだよ、トリカゴ。バカ回しって言った方が早いか?」
そしてこの練習、方言のように地域性があり、地域によって呼び名が違ったりする。どうやらここらではロンドは通用しないらしい。
「……なんだか小洒落た言い方してムカつくわね」
「聞こえてるぞ」
まぁ、俺も東京で初めて知った言葉ではある。
「ねぇ、みんなー! 今日はタッチしなくていいって!」
「え! 準備したのに!」
「まぁええやん。やらんで済むならそれはそれで」
タッチ練習はすでに部員たちのやりたくない練習第一位になっていた。
「ロンドやれって言われたから、そっちの準備しましょ」
「ロンド〜? 何ですかそれは〜」
「また特殊な練習?」
「トリカゴよトリカゴ。向こうじゃロンドって言うらしいわ」
「なんや、洒落てんな」
「さすが元翔鳳。都会っ子ですね」
くそ。久保のやつ。いらんこと言いやがって。やっぱアイツは俺のこと嫌いだな。
女子高生たちは俺を話の出汁にして都会と田舎の違いについてあれこれ喋りだした。全くもっていい気分じゃないが、準備はテキパキやってるので文句は言えない。と言っても、マーカーを四つ置いて四角形を作るだけだ。その辺に一人ずつが立ってパス回しするつもりだろう。一番オーソドックスなやり方だ。だが、背後からのプレッシャーがないから練習強度は低い。まぁ、今回はその単純さが説明のし易さになる。
ヒヤシンス娘のことは望に任して、俺は校舎へ足を向けた、
「ちょっと、どこ行くの」
ところで望に捕まった。
「え、いや、喉乾いたから自販機に……」
「小鳥遊さんにルールとか説明するんでしょ!」
「えぇ……。それくらいはお前がやれよ」
「何事も最初が肝心なの! ここでコウちゃんのコーチ力をアピールして、小鳥遊さんにサッカーの楽しさを知ってもらうんだよ!」
「なんでアピールが楽しさに繋がるんだ」
「い、い、か、ら! コーチなんだからとやかく言わない!」
「はぁい……」
腑に落ちない気持ちで頭を掻くと、眼鏡がずり落ちそうになった。望の奴、「コーチだから」って言えば俺が従うと思ってやがる。そして実際、何となく断りづらい俺もいた。自分でも知らなかったが、実は俺は責任感溢れる男だったのかもしれないな。
ーーいや、そりゃねぇわ。
自信を持って言える。望が怖いからやるだけだ。あと、
「……」
和気藹々とした雰囲気の部員たちを眺めるヒヤシンス娘の目つきが気になるのだ。彼女の大きくて切れ長の目は、いつも関心の色が宿っていない。だから冷ややかな表情も少しばかりマイルドになっており、周囲から嫌われにくいのだろう。
だが、今のヒヤシンス娘には何かしらの意思が宿っている。それは店で働いている時の集中した目つきとは少し違うように思えた。
正か邪かはわからない。だが、無性に気になった。
「じゃあ、蹴り足の呼び名から解説していこうか。これがわからないと会話にならないからな」
気になっているとは言ったが、俺もやる気があるわけではない。ヒヤシンス娘と俺は微妙に立ち位置が似ているのかもしれなかった。望と二人でヒヤシンス娘の左右に立つ。程よく大中小になった。
「まずは足の内側、踵から親指にかけての部分がインサイド、小指にかけてがアウトサイドだ。そして踵がヒール。そのまんまだな」
自分の足に触れながら解説していく。
「望」
望に少し離れたところへ行ってもらい、俺から望に向けて弱いパスを出した。
「それで、キックの種類もそのまんまだ。インサイドで蹴るならインサイドキック。アウトサイドで蹴るならアウトサイドキック」
一つずつヒヤシンス娘の目の前でプレーする。
「そして、足の甲で蹴る場合はインステップキックって言う。とりあえずこの三つが基本のキックだ」
この三つがきちんとできていれば、初心者は卒後だろう。
「それでちょっと違うのが、親指の付け根で蹴るキックだ。インフロントキックって言う。逆に、小指の付け根で蹴る場合はアウトフロントキック。この二つは頭の隅に置いといてくれ」
爪先で蹴るトーキック、中指の付け根でボールの下側を蹴るチップキックを加えた四つのキックは、ボールの軌道や強さ、タイミングに変化を生む。これらのキックを選択し、実行することで相手の裏をかく、味方の動きに合わせる。それが
「んじゃ、実践編」
望にボールを返してもらい、ヒヤシンス娘の足元に置いた。
「ボールの真横よりやや前の位置に軸足を置いて。軸足の爪先は内側に向ける。蹴り足は斜めに固定して、少し捻る感じで振る」
ここで望が、ん? という表情をした。
「初めはゆっくりでいい。今の流れを頭の中で整理しながら、まずは蹴ってみてくれ」
ヒヤシンス娘は遠藤が持ってきてくれたスパイクに履き替えてはいたが、服は制服のままだ。スカートで動きにくくはないかとは思ったが、本人がそれでいいなら、とやかく言っても仕方ない。
「……」
「オッケー」
ヒヤシンス娘は素人とは思えないスムーズなフォームでキックしてみせた。ボールは五メートルほど離れた望の右側に転がっていった。ヒヤシンス娘から見て軸足側に転がったのだ。
「真っ直ぐ飛ばない」
大して残念そうでもなかったが、ヒヤシンス娘がポツリと呟いた。
「いや、それでいい。もう一回同じ感覚で蹴ってくれ。望、その位置から動くなよ!」
弱いキックだったので、望はちゃんと追いついてボールをトラップしている。俺はそこから動かないように指示を出した。
ヒヤシンス娘が人生二度目のキック。今回も同じように、ボールはヒヤシンス娘の正面ではなく、軸足側へと転がった。それにしても、意識した上で同じ動きを二度繰り返せれるってのは凄いな。これが偶然でないのなら、ヒヤシンス娘は自分の身体の動かし方が上手いということになる。
「ねぇコウちゃん!」
「どうした?」
すると、望が不可解そうな顔で俺に聞いてきた。
「その蹴り方大丈夫なの? 軸足も身体もパスする方に向いてないし、蹴り足の振り方もおかしくない?」
望が言っているのは、日本の殆どの初心者が最初に教わるインサイドキックの正しい蹴り方、「パター型」だ。
だが、それはサッカー先進国で非常に嫌われている型でもある。
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