仲間とコーチと三年間
「では小西さん、この英文を日本語に訳してください」
中年の女教師に当てられた小西カロリーナは、生真面目な表情で起立した。クラス中が彼女のスッと伸びた美しい背筋のラインに注目する。
「先生。何度も言ってますが、私は母がフィンランド出身というだけで日本生まれ日本育ちです。ですので英語は喋れません。そう度々当てられても困ります」
「困ることはありませんよ。ついさっき説明した内容ですから」
女教師の声は穏やかである。優しいとか落ち着いているとかではない。小西のこういう性格に慣れてきただけだ。
「すみません。聞いていませんでした。ちょっと考えごとをしていて」
「まだ二時間目ですから、お弁当はもう少し待ちなさいね」
「はい」
小西が早弁常習犯であることは一年担当教師全員に知られている。度重なる授業中の早弁により、小西は入学一週間で教卓の目の前に席を移動させられた。北欧の血を引く彼女の可憐な容姿は、周囲の人間に大した根拠もなく優等生的な印象を与えていたが、どうにもそうではないぞと認識を改められるには、それほど時間はかからなかった。
その最初のきっかけが、入学三日目に行われた新入生の身体測定である。高校一年生になったばかりの少女たちだから、周囲の発育が気になる思春期真っ只中のお年頃だ。クラス全員が無言の牽制や探り合いをジリジリと行い、誰も服を脱ぐ兆しを見せなかった。
すると、名状しがたいピリついた空気の教室に、職員室で弁当の返却を求めていた小西が戻ってきた。取り返してきた弁当箱を満足そうに机に置くと、すぐに何の躊躇いもなくシャツとスカートを脱いでしまった。
全員が小西に注目したその瞬間、教室に無言のどよめきが広がった。なんと小西は、上下どちらの下着も身につけていなかったのである。公衆浴場以外で他人の全裸を目にするという経験は、クラスメイトたちにトラウマ級の衝撃を与えた。まるで一流モデルのような美しいプロポーションだったと後に語り継がれるが、それはまた別の話。
下着を着用しない、という小西の性質は、どうやら小西の母親から遺伝されたものらしいが、いらぬ薮蛇を恐れた周囲は詳しいことを聞いていない。
ーー身体が圧迫される感じがして好きではないのです。
とは小西の弁である。桜峰の制服が割と高価で材質がしっかりしていたから周囲は気づかなかったものの、この先シャツが夏物に変わる季節になった場合は非常に危うい。当然のごとくそう判断したクラスメイト、遠藤綾と久保竜子による着衣指導が粘り強く行われているものの、今のところ成果は芳しくない。
つまり、こうして教師に当てられて起立している間も、小西は下着を付けていない。やっぱり今日も下着付けてないのかなぁとクラスメイト全員が授業そっちのけで考えているのだ。
第二に、小西は常に何かを食べている。休み時間を含めた一日全ての時間を共にしているクラスメイトだから知っていることだが、小西は別に早弁をしているのではない。朝のホームルーム中は菓子パンを食べ、一時間目までの休み時間でウィダーを飲み、授業中に弁当を食べ、次の休み時間にお菓子の袋を開け、更に次の授業中に弁当の残りを食べ、更にその……というように、一切の間隔を開けることなく始終何かを食べ続けている。細く引き締まったウエストに収まる胃袋には四次元ポケットがおさまっているのではないかと思わされる恐るべき食いっぷりだった。
下着を付けない、常飲常食、イマイチなにを考えているのかわからない、下ネタが好き。これらが、入学から数週間で小西が獲得した印象である。
そんな、誰がどう判断しても特殊な性格をしている小西を、久保は二つ後ろの席から眺めていた。この一年一組には久保、遠藤、そして小西の三人のサッカー部員が在籍しており、久保と遠藤という面倒見のよい常識人がいたから、小西はかろうじてクラスでも浮いていない。いや、実質的に浮いてはいるのだが、
「小西さんはそういう人だ」
「まぁ小西さんだし」
「あぁ、小西さんね」
という、非常に温かく優しい眼差しで受け入れられていた。
久保や遠藤たちが小西のこういう独特な性格を知ったのは、同じ高校に通うようになってからだ。だが、小西の存在自体は、彼女たちが中学生の頃から広く知れ渡っていた。
ーー良いキーパーがいる。
市に女子サッカー部が二つしかなかったため、嫌でもその存在を認知していたのだ。久保たちが在籍していた南中と、小西がいた北中がいつも市総体とは名ばかりの一発勝負の決勝戦をしていた。人数が揃っていて指導者もいた南中が毎年圧倒的に優勢だったのだが、久保がキャプテンを務める代で初めて苦戦を強いられた。人数ギリギリの弱小チームの最後列に、小西という守護神がいたからだ。あの試合で久保や仲村のシュートをことごとくセーブした小西の神がかった活躍は、会場にいた全員の記憶に焼き付いている。それが、
「こんな変な子だったなんて……」
細く長い脚を惜しげもなく晒して座っている小西。どうやら靴下も嫌いらしい。小西の着衣できちんとしている部分なんて、ヘアピンで綺麗に左側に撫で付けられたブロンズへアくらいのものだ。
終業のチャイムが鳴る。その瞬間に小西はカバンから「きのこの山」を取り出した。一箱ではない。パーティー用のパックのやつである。それを大事そうに抱えて久保の方へ歩いてきた。抱え込んでいる割には、すれ違うクラスメイトたちに「きのこの山」を無償で配布している。
「リュウさんリュウさん」
「……なに?」
ちょっと身構えてしまう。窓際の席で真面目に授業を受けていた遠藤も、なんとなく集まってきた。
「今日、コータローさんは来るのでしょうか」
「……たぶん来るわ」
「望が昨日一緒にご飯食べたって言ってたから、大丈夫だと思うよ」
「望さんを食べたのですか?」
「の、ぞ、み、と! 話をきちんと聞きなさいよ」
無表情で差し出された「きのこの山」を、ありがと、と言って受け取る。この子の考えていることが理解できるようになるのかしらと、久保は思う。
「昨日はしてやられましたからね。今日はあんな簡単にはやられませんよ」
「そう……」
小西が普段どんなことを考えているのかは全然わからない。だが、彼女が意外に悔しがり屋で、勝負ごとが大好きだと言うことは、わかってきた。
小西のキーパーとしての実力と身体能力の高さは、信頼を寄せるに足る安心感があるのだ。
ーー早く部員を何とかしなくちゃ。
数ヶ月前まで難敵だったゴールキーパーと、あと三年間サッカーをしたい。そのために何ができるのか。公太郎が言っていたことを、久保と遠藤は思い出していた。
「早すぎ!」
「……遅くても早くても怒るのかよ」
練習が始まる三十分前にグラウンドに到着していたのだが、どうしてか怒られてしまった。
「隠れてタバコ吸ってたでしょ! ダサい中学生みたいなことしないでよ!」
「あ、はい」
早く着きすぎて暇だったので、部室棟の裏でタバコをふかしていた。一本だけだったし、バレなきゃいいやと思ったのだ。望曰く、遅いと普通に迷惑だし、あんまり早く来られてもロクなことしないから、時間は正確に守れということだった。最初は理不尽だと思ったのだが、よく考えてみれば全くもってその通りなので、今後は自重しよう。
「他の部員は?」
「うちのクラスだけホームルームが早く終わったみたい」
「クラスばらけてんのか」
「リュウちゃんと綾ちゃんとカロちゃんが一組で、ユリちゃんとあんちゃんが二組。私は四組」
「ふぅん」
自分から聞いておいてなんだが、物凄くどうでもいい情報だった。やはり俺は少女たちそのものには全く興味がない。サッカーがあるから辛うじて縁が繋がっただけなのだ。それもいつまで続くかわからないし、関係性と呼ぶにはあまりにも不安定だ。だが、それくらいが丁度いいとも思う。
「今日はどんな練習するの?」
「リフティングは外して昨日と同じこと。あとはお前らが普段どんなことやってるか見せてもらうつもりだ」
俺は基本的には練習メニューを考えないことにしている。知識があるわけでもないし、面倒だ。それに俺がやると基礎的なことばかりになってつまらないだろう。
「じゃあ、円は書いておくね」
「頼んだ」
だがそんな中でも、キーパーの練習をどうするかが悩みの種だった。こちらに関しては俺は完全に門外漢だし、付き合ってやれる人員もいない。必然的にシュート練習やドリブル練習に混ざる形になってもらうしかないが、それ以外はフィールドプレイヤーと同じ練習をすることになる。近年ではゴールキーパーにも足元の巧さは求められるが、ドリブルで相手を抜いたり、ましてやシュートを打ったりなんてすることはない。無駄とは言わないが、本質とズレたことに時間を割かなくてはならないのが現状だった。
「あ、コーチ!」
どうしたもんかと思っていると、自然にポケットのタバコに手が伸びた。だが、遠くから聞こえてきた丹頂鶴娘の声が踏みとどまらせてくれた。大人びた外見らしかぬ年相応の嬉しそうな眼差しで俺の方にやって来る。なんか知らんが随分と懐かれてんなぁとしょっぱい気持ちになった。
「今日はどんな練習するんですか?」
望と同じ質問をされたが、望とは違い、目線がやや上に向く。背の高い女子なんてどこにでもいるが、この子が自分より歳下なんだと思うと違和感が否めない。
「別に大したことなんかしない。キック練習は見ておきたいとは思ってるが」
フットサルでも昨日の練習でも、ロングパスやそのトラップの精度を見れていない。今後のために早いうちに確認しておきたかった。
「わかりました。準備してきます」
丹頂鶴娘はすぐに表情をきりっと変化させた。男の俺が見てもカッコよくて様になっている。やはりこの子はかなり同性に人気あるんだろうな。ショルダーバッグを揺らしながら軽い足取りで部室へと駆けていった。
「おーい!」
「こんにちは〜」
さらにタヌキ娘とコーギー娘の姿も見え、他の部の生徒も続々と部室に集まってきている。今日は陸上部とソフト部も練習があるらしい。陸上部は結構人数がいるみたいで、グラウンドをかなり圧迫しそうだ。
「コウちゃーん! 準備できたよー」
「おーう、サンキュー」
グラウンドのど真ん中で望が手を振っている。真ん中というのはちょっとやりにくい。ゴールを使いたければ動かさないといけないからだ。
「早いのね。何か思うところがあったのかしら」
「ねぇよ」
背後からの声にやる気なく返答する。何故か一番最初に部室から出てきたのは久保だった。いつのまに準備したのだろう。
「揃ったら適当に身体あっためて、またタッチのやつからするぞ」
「わかった」
ウォーミングアップ。中学の時は部員全員で走らされたり、馬鹿みたいな大声で数を数えながら同じストレッチをやらされたものだ。だが高校に入るとその辺りはかなり淡白で、練習開始時刻までに各々が勝手気ままにやっていた。監督やコーチたちが、自分の身体は自分で管理しろ、とだけ求めてきたからだ。実際、軽く関節を回すだけの者もいれば、三十分近くかけてじっくりと身体を作っている者もいた。どちらが正解と決めることはできないが、しっかり身体をほぐしておくに越したことはない。
「ん?」
思い出に浸っている人間というのは不思議と周囲への注意が疎かになる。俺も目を開けていたのに、脳が映像を受け取っていなかった。だから、目の前にサッカー部員たちが整列していることをすぐに察知できなかった。
「な、なんだよ……?」
その光景に意味もなく狼狽えてしまった。ただ横に並んでいるのではない。整列している。そして、
「よろしくお願いします!」
「「します!」」
久保のかけ声に合わせて、全員が俺に頭を下げてきた。久保のポニーテールが元気よく跳ねる。
「え、ちょっ! は、はぁ!?」
動揺で声が裏返ってしまった。少女たちの行動がわからないわけではない。練習前にグラウンドや指導者に一礼するのは何にもおかしなことではなく、むしろ一つのケジメとして当たり前であり、どこにでもあることだ。
だが、
ーーそれを俺にするか!?
少人数のサッカー部が急に大きな声を上げたものだから、他の部や生徒たちから注目されている。そしてやはりその矛先は俺に向かってきた。なんだアイツは、だ。
「な、なんのつもりか知らんが、やめろよ!」
「いやよ」
「なっ……」
ふふん、と久保がせせら笑いながら言う。
「昨日勝手に帰った罰よ。これに懲りたら、帰る時は理由を言ってからにすることね」
俺が嫌がることをピンポイントでやって来やがった。注目されること、歳下に敬われること、そして、真面目に向き合わされること。
「さぁ、始めましょうか」
キャッキャ言いながらストレッチを始めた歳下の少女たちに、俺はしてやられてしまったのだった。
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