勝利の記憶
人から注目されるというのは本当に久しぶりで、そんなのはごく普通のことだと思っていた昔の自分が、今では信じられない。子供の持つ傲慢さと逞しさが羨ましい。
久保も丹頂鶴娘もコーギー娘も、これから特別なことが始まるかのように静かに興奮していた。フラミンゴ娘とタヌキ娘は緊張感のある表情で集中力を高めている。そして校舎の一般生徒たちがこれから始まるであろう「ショー」の行方をお菓子片手に冷やかしながら見学していた。
ーー男が負ければ笑えるし、サッカー部員が負けても面白い。
観客ではあったが、どうしようもなく「女子」である彼女たちのねぶるような視線。
「いつでもええで!」
タヌキ娘が元気よく手を挙げる。腰を落としたフラミンゴ娘が手のひらを拳で叩いた。
「んじゃ」
丹頂鶴娘がご丁寧に届けてくれたボールを、タヌキ娘に向かって蹴る。この一回のキックで靴とボールの感触を確認した。思っていたよりも蹴りにくい。
俺のパスはある程度の速度があった。あえてそうした。やる気なさそうに見えて、実は本気なのだと思わせるためだ。
ーー実際は大してやる気なんてない。
だが、タヌキ娘は面白いように引っかかってくれた。ダイレクトで俺に緩いパスを返してきた。間合いを詰めてはこず、その場で腰を落として半身になる。俺の利き足のプレーを制限するために、左足を前に、右足を後ろに。この瞬間には、すでに勝負は決している。
「あ」
軽く左足を踏み込む。ダイレクトシュートを狙ったのだ。身体を左側に傾かせながら、右足の親指の付け根でボールを擦り上げるように蹴る。ディフェンスの予測を裏切る問答無用の速攻。
このプレーは頭の片隅にも無かったのだろう。タヌキ娘は当然のごとく反応できない。回転のかかったボールはタヌキ娘の左肩スレスレを抜け、バーとポストが90度に交差するコースに鋭く飛翔していく。
ギィン、という錆びついた音が沈黙を突き破って校庭に響く。ゴールの骨組みに直撃したボールがサイドネットに突き刺さり、最後には力をなくして地面に落ちた。
俺は振り抜いた蹴り足で着地し、一回だけピョンとジャンプした。ボールの行方は始めから確認していない。骨を震わせる懐かしいジャストミートの感覚が足首に残っていた。
「はい終わり。さっさと練習始めろ。望、後は任せるから」
「「卑怯!!!!」」
六人が同時に叫んだ。
「ズルいズルい! そんなん一対一やないやん!」
「あなた自分でドリブル練習って言ったくせに!!」
「コーチ……今のはちょっと汚すぎるというか、根本的に間違ってるというか……」
地団駄を踏むタヌキ娘と、抗議するというよりは慌てふためいている久保。丹頂鶴娘は困り顔で唸っている。
「あ? 勝負って言ったのはそっちだし、勝負に卑怯もヘッタクレもあるか。勝ちは勝ちだ」
自分で言うのも何だが、シュートコースは絶妙だった。賞賛されこそすれ、文句言われる筋合いはない。
「それともなにか。ドリブルで抜いたら芸術点をくれるのか? オーバーヘッドシュートを決めたら三点になるのか? ならねぇだろ。一点は一点」
サッカーには一発逆転も、難易度による点数加算もない。だからこそ一点の価値は重く、そして神々しいまでに煌びやかなのだ。
「今からやるドリブル練習もそうだ。ゴール前なんだから、「抜く」ことじゃなく、「シュートを打つ」ことに拘ること」
俺が言っているのは間違いなく正論なので、サッカー少女たちはグッと唾を飲み込み、反論もギアが入り切らない。若さゆえか未熟さゆえか、それとも正直さゆえか。どれにせよ俺の中には無いものだし、生まれたての自分に帰るつもりなどない。少しずつ削り取られていくものを再び手にしたところで仕方ないじゃないか。
ーーまぁ、ここまで「割り切って」しまうのは問題なんだが。
この練習はあくまでシュートを打つ練習だ。ドリブルは過程でしかない。だが、ドリブル突破そのものが必要な局面はあり、そこで行き詰まってもらっても困るので、ドリブル練習自体もさせないといけない。サッカーというのは、本当に面倒なスポーツなのだ。全てを習得するには人生は短過ぎる。
「あとよろしく」
望の肩を叩いて、俺はグラウンドから離れていった。親指が熱を持っている。軸足が軋んでいる。曲がりなりにも「おてほん」ができるのはここまでだ。
「こ、コウちゃん!」
背中にかかる声を、右手をひらひらさせて受け流した。
「あ、ありがとうございました! 明日もお願いします!」
ハッとした丹頂鶴娘がそう言っていた。校舎から聞こえてくるザワつきが糸を引いて身体にまとわりついてくる。
「どしたん、あれ」
「怒った、わけでもないでしょうし〜」
「女子高生が汗をかいているのを見て自分を抑えられなくなったのでは」
「「黙ってて」」
なんだろう、という本当によくわからない気持ちで少女たちは公太郎の背中を見送っていた。唐突に帰ってしまった彼の言動行動、ともに理解しかねる。
「望。コーチ、どうしちゃったの?」
遠藤の戸惑いが切々と伝わってくる声だった。
「コウちゃん、たぶんだけど……」
その時、公太郎が消えていった校門の方に、一人の生徒がいることに八尾は気づいた。どんなに遠くから見てもその人だとわかる美しいシルエットが、茜色に染まっている。何もかもに興味がなさそうな瞳がしかし、この時は何かを映しているように思えた。その生徒は、八尾の視線を感じ取ると、フ、と関心をそらして歩き去って行った。
茶色がかったセミロングの髪は、夕陽を反射するほど輝いていた。
芽が伸びるのが遅くなったのだと思った。今までより陽当たりが悪くなったのだ。土が合わなくなったのだ。
ーーなら、人よりたくさん練習しなくちゃ。
周囲の芽たちはぐんぐん伸び、もう先が見えないほど高くなっている。綺麗な花を咲かせているものもいる。
おかしい。自分だけが何も変わらないまま。伸びる周囲が影を作り、さらに陽当たりを悪くしていく。
ーーダメだ。もっと練習しないと。もっともっと。周りの誰よりも。
水をやった。肥料を変えた。雑草を抜いた。虫を払った。だが変わらない。どうして。どうして。
ーーこれはもう、別の鉢に移動させるしかない。
そうして初めて、根が腐っているのだとわかった。
できたはずのことができなくなっていくのは、指先からやすりで刮ぎ取られるような痛みがあった。イメージと現実が遠ざかっていくのは、胴と脚が裂かれていくような絶望があった。
「はっ!!」
パスをくれという声を呑み込んだ瞬間、そこがリアルではないとわかった。
「あぁ……」
俺は部屋にいた。震えるほど寒いのに、全身が汗ばんでいた。
「あ、起きた?」
足元から声がして目を向けると、ベッドに背中を持たれさせて体育座りする望が、不器用な笑顔で笑ってくれていた。
「そうか……」
俺はまた、逃げたのだ。
「何か作ろうと思ってたのに、コウちゃんの部屋って炊飯器もないんだもん。困っちゃったよ」
空笑いが部屋をぬるま湯で満たしていく。望は俺を心配してくれているのだ。
「……悪かったな」
「えっ」
「なんだよ」
「いや、コウちゃんに謝られたのなんて、初めてだったから……」
「嫌味か」
そうではないとわかっていたのに、意地の悪いことしか言えなかった。望が首を振る。
「違う、違うよ。だってコウちゃん、私に謝らなくちゃならないようなこと、絶対しなかったから。いつも私がごめんって言って、コウちゃんが、いいよ気にするなって言ってくれて」
「……」
「あ……」
三年ぶりに会った従姉妹は、十年以上も前のことを話し、途中で口ごもった。そこには俺がいないからだ。
「その、ごめん。翔鳳のこと、勝手に話して」
「なんでお前が謝るんだよ」
歳下の女の子がしゅんとするのを見て、部屋の明るさがくすんだ気分だった。LEDには何の罪もないのに。
都立翔鳳高校。インターハイ、選手権合わせて七回の優勝を誇る超の付く名門であり、強豪だ。公立でありながら、毎年スカウトした数人の選手とセレクションで選び抜いた選手合わせて十数人だけが入部を許されるエリート軍団でもある。
俺はそこのスカウト組だった。
「いずれはわかることだし、隠すことでもねぇし。それに、『それ』のおかげで俺はコーチやれてるんだ」
腐れ大学生の俺が渋い顔をされながらもコーチとして認められたのは、その経歴があったからだ。中身はどうであれ、翔鳳に所属していたということだけが俺の価値だった。A4サイズの紙に記載される数文字だけが。
それなのに、俺にはそれが酷く汚辱されているように思えて、腐ったプライドがまだ何か叫ぼうとしているのだ。
ーーだから、突っつかれたくない。
惨めな気持ちになりたくなくて……でも、俺にはそれしかない。
「飯は食ったのか、いや、食べてねぇよな」
話せば話すほど泥沼にハマっていくように思えて、こそこそと話題を変えた。俺も腹が減っているのは嘘ではないし、時計を見れば夜九時になろうとしている。
「うん。何か買ってこようか?」
「お前は俺のオカンか」
上目遣いで心配される。こんな、普通なら何でもないようなことで、俺は弱っている。弱っていることを隠すこともできないほど、弱っているのだ。
「食いに行こう。奢ってやる」
「おばさんのお金でしょ」
高校卒業以来、作り置きのものが食べれなくなった。寮ではいつも作り置きだったから、だと自分で分析している。どれだけあの三年間に侵されていれば気が済むのだろう。
財布だけを持って部屋を出た。望は横ではなく後ろを歩いている。さすがにここまでやられると情け無さが噴き出してくるので、数秒待って隣に来させた。何も悪いことなどしていないのに、まだ申し訳なさそうに俯いているのを見て、その小さな頭をがっしと掴んで髪をぐしゃぐしゃにした。
「らんぼー」
「悪かったな」
頼れる歳上の従兄弟は記憶の彼方に沈み、どうしようもない屑の従兄弟だけが残された。
「はぁ。しょーがないなぁ。私が面倒見てあげるしかないか」
「だから何様のつもりなんだよお前は」
「へへ」
やっと笑った。その笑顔を見れば、この子が真っ直ぐに育ってきたのだとわかる。
ーー俺とは違う。なんて言ってても始まらん。
俺と向かい合って後ろ歩きしている望が、星に両手を伸ばした。届かせようとしているのではなく、凝り固まった肩をほぐしている。
この先の人生、俺には絶対に届くことのない星に、この子や彼女たちは届くのだろうか。たとえ届かないとしても、手を伸ばし続けるだけの強さがあるのだろうか。
せめてそうであってくれと願ってしまう夜は、少しはマシな気分がした。
「また「ことりちゃん」?」
「あそこしか行かねぇし」
「それだと栄養が偏って……はないけど」
その通り。俺は飯だけはきちんとしたものを食っているのだ。もう何百回とくぐった暖簾が見えてきた。何故か他の光よりも暖かそうに見える灯りと、客の笑い声が漏れている。
「……。いらっしゃい」
「二人っす」
「空いてる席どうぞ」
店に入るとレジの整理をしていたらしいヒヤシンス娘が声をかけてきた。素っ気ない声は相変わらずだし、洒落っ気のない服装もいつも通りだ。
「小鳥遊さん、こんばんは。夜も働いてるんだ。凄いね」
「別に。九時までだから」
ことりちゃんは夜は六時から十時までだ。俺にしてみれば、一日三時間も学校終わりに働いているのだから充分凄い。
「あら、いらっしゃい望ちゃん。また来てくれてありがとうね」
「こんばんは、栄さん」
「お腹空いてるだろう。ほら霧子! 早く注文取っておあげな!」
厨房で作業していたおばちゃんがニコニコしながら望に話しかけたかと思えば、すぐさま声のトーンを切り替えてひとり娘を叱咤する。
「いや、あ、でも小鳥遊さん九時までなんじゃ……」
「別にいい。注文決まったら呼んで」
ヒヤシンス娘は急な時間外労働にも眉ひとつ動かさなかった。この子が仕事のことで不満そうにしているのを、俺は見たことがない。愛想がないとか元気がないとかおばちゃんに言われる時は少しムッとしていることもあるが、仕事の指示は常に素直に聞いている。おそらくは最後の仕事であったのだろうレジ整理を終えると、 他の客の残したお盆を下げに行った。
「働き者だなぁ」
「お前も見習えよ」
「え、なにそれ。ギャグ?」
「真顔で言うな」
カウンター席に座った望は、どれもこれも美味そうなメニューに長いこと悩んで、以前と同じコロッケ定食を注文した。俺は野菜炒め定食。
ヒヤシンス娘が持ってきてくれた定食を、お互い無言で食べる。俺は明日も練習見に行かなくちゃならんのかなぁと思いながら、講義の課題をやってないことを思い出していた。
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