リフティングと一対一
俺は軽い気持ちだった。高いレベルのことを要求したつもりは一切なかったし、この練習は純粋に楽しくやって欲しかっただけだ。直前にかなりキツいことをやらせたのも理由の一つだろう。やっぱりキツいばかりでは意味がない。リフティングと言うのは、誰でも楽しめる「遊び」だと思っていたからだ。
「あの……」
そろそろ体力も回復しただろうから、練習を再開させようと思ったその時、タヌキ娘が遠慮がちに手を挙げた。いつも明るく元気で、あまり物怖じしない少女だと思っていたから、かなり意外な気持ちになったし、むしろどうしたのかと心配すら浮かんだ。脚がつったのだろうか。
だが、そういうことではなかった。
「その練習、多分成り立たんと思うで」
「は?」
「リュウが……んーと、致命的にリフティング下手なんです」
同じく、苦いものを噛んでいるような口調で丹頂鶴娘が言う。見渡してみれば、全員が似た表情をしていた。ただ一人、ちょっと頬を染めながら震えている久保を除いて。
「だ、大丈夫よっ! 確かにあんまり上手くないけど、これくらいできるしっ!」
「無理ですよ。鶏の発情期の方がまだ落ち着いているほどですから」
「なにその表現!?」
「ちょっと俺もよくわからない」
フラミンゴ娘の妙に平坦な口調が久保に突き刺さっている。鶏の発情期? なかなか騒がしそうだなとは思うが、それよりも暴れていると言うことか? それは果たして人間の動きなのか。
「久保、ちょっと来い」
「な、なによ」
何故か警戒しながら小股でにじり寄ってきた。
「ほら。俺の胸めがけて蹴り返してみろ」
手に持ったボールを久保の利き足に優しく放った。距離は一メートルくらい。久保は難なくインサイドキックで返してきた。少し右にズレたが、誤差の範囲だと思える。
「次は左」
もう一度。今度も普通に返ってきた。
「いや、大丈夫だろ」
目につくような問題はない。左脚のキックにもぎこちなさはなかった。
「いや、兄ちゃん甘い甘い。リフティングさせるのが一番早いて。リュウ、かましたれ」
「かましたれはおかしい」
近くにあったボールを久保が蹴り上げた。この時点で、ん? という痒みのような違和感を覚えた。それがなんなのかはわからないから、もう少し様子を見る必要ありだ。
緊張した様子の久保がリフティングを開始する。右足のインステップだ。脚と膝を伸ばして一直線にし、地面と水平になる高さまで上げるタイプのリフティングで、つまりは基礎的なやり方だと言える。ちなみに、慣れてくると動かすのは爪先だけで、ずっと指の付け根に細かく当てることでトントンとリフティングすることができる。「技」などはここから派生していくものだ。
久保のファーストタッチは右。次も右。ここで異変があった。右足だけでリフティングをしていたし、本人もこれからもそのつもりでいたはずだ。だが、ボールが右足の外側へ、真横に近い角度で飛んでいったのだ。
「あ!」
視線で追いかける久保が身体を反転させ、落とすことは防いだ。だが、そのキックにも精度のせの字もなく、今度は左側に飛んでいく。
本来、リフティングというのは次に蹴りやすい場所にボールを上げる、というものだ。だが、久保のキックは、コントロールなど二の次で、取り敢えず落とさないために脚に当てている、というものだった。ボールがあっち行きこっち行きし、それに久保が必死で付いて行っているという感じだ。そして、八回ボールを上向きに蹴り上げたが、九回目はなく、無情にもボールは地面に落ちた。
俺たちに背中を向けてプルプル震えていた久保が、もうどうにでもなれ、と言う感じで振り返った。
「ど、どんなもんですか」
「ドヤッてる理由が知りたい。幼稚園レベルじゃねぇか」
「よ、幼稚園!?」
「ふふっ」
コーギー娘が後ろで楽しそうに笑っている。馬鹿にしているわけではなく、幼子を愛でている目だ。
久保のリフティングは、久保本人ではなくボールが主人だった。素人にはありがちなことではあるが、久保はもう素人ではないだろうし、本人だってそんな呼ばれ方は望まないはずだ。
タヌキ娘たちが言うように久保にはこの練習は無理かもしれない。それに選手のレベルに適した練習をしないと、効果は薄い。ただ単に谷底に突き落とせばいいと言うものではないのだ。
「まぁまぁ〜。まず一回やってみましょう〜。それに、さいあく竜子さんにパスしない手もありますし〜」
「さらっとすげぇこと言うな」
いや、実力主義のスポーツ社会では珍しいことでもないのだが、それを本人の前で言うか普通。嫌味や悪意が混ざってないのも逆に恐ろしい。
「じゃあ、時間制限も目標もなし。やれるとこまでやってみてくれ」
五人が中央のコーンの側で手を繋ぐ。
「タッチ制限はありますか?」
ボールを蹴り上げる前、丹頂鶴娘が確認してきた。本当はタッチ制限だけでなく蹴り方なども指定したかったが、まだ早い、と言うことになるだろう。
「いや、無しで。好きにやってくれ」
「はい。じゃ行くよ」
丹頂鶴娘がリフティングを開始する。一回二回とタッチし、一つ飛ばした位置にいるタヌキ娘へパスをした。真横からパスをもらうよりはやり易いと踏んだのだろう。
「ほいっ。よっ」
タヌキ娘も安定したタッチでボールを受けた。何も問題はない。
「ほりゃ」
「はい」
コーギー娘へパス。ここでも危なげな雰囲気はない。コーギー娘もスリータッチ目でフラミンゴ娘へと繋げる。
このリフティング練習は、手を繋いでいることで動きが制限される。だから普通のものよりやりにくい。それに隣との距離が近いため、パスが中途半端になると受け手同士でお見合いして落とすことになる。一人でやるよりも正確なコントロールが要求される。
ーーまぁ、何を言おうが結局は遊びの域を出ないのだけど。
どうしたって「練習」になるほどのものでもないのだが、しばらくはこう言ったやり方をしていくと決めた。それに、先程の練習とは変わって、四人は楽しそうにやってる。四人は。
「次いくからね」
「行くでー」
「き、来なさい!」
丹頂鶴娘からタヌキ娘のホットラインを経て、とうとう久保へとボールが渡る。ちなみに、まだ彼女たちは移動をしていない。中央のコーン付近でリフティングしている。
「ん、や!」
久保のトラップは思いのほか普通のものだった。フラミンゴ娘へとパスをし、それもしっかりと通った。
「よし、2番に移動!」
これなら大丈夫かと思い、とうとう移動を指示する。これをするとなると、急に難易度が上がる。選手によっては後退しながらのプレーになるし、受け手が移動することを考慮したパスを出さなくてはならない。また、全員の進行方向が一致していないと、簡単に手が離れる。
「はい」
「よ」
「はい〜」
ゆっくりとしたペースだが、着実に集団は進んでいく。そして、2番である丹頂鶴娘がコーンに触れた。この時だけは手を離していい。
「意外と上手いな」
「でしょ!?」
思わず漏れた呟きに、横にいた望が鋭敏に反応した。さっきまで静かにしていたのに急に出てこられてビックリする。
「そんなに簡単じゃないんだけどな。次、4!」
彼女たちはここまで一度もボールを落としていない。パスの回数は二十回を超えている。そこそこの技術がないとこれは不可能だ。
そう感心していたら、
「あ!」
久保がボールを落とした。4番のコーンにはタヌキ娘が触れなくてはならなくて、集団が回転を必要とした時、タッチをミスした。味方に預けるか自分でリフティングを続けるか一瞬迷った動きだった。
「ご、ごめんなさい!」
「落としてもいい! また続けろ!」
ひとまずはコーンを一周くらいはさせようと思ってそう言った。
ーーこの練習は合わないかな。
リフティング系は少し避けよう。他の子らにはそこまで難しくないらしいし、久保一人だけが浮いているのは可哀想だ。そして実際、
「……っ」
三つのコーンを移動するのに、久保は七回ボールを落とした。タヌキ娘とコーギー娘が一回、フラミンゴ娘が二回ずつ落としたが、そのどちらもパスが中途半端になったことによるミスだ。トラップやリフティングそのものはきちんとできていた。
「……久保、君はリフティング練習しとけよ」
あまり言いたくはなかったが、十回もこなせないのは見過ごせなかった。
「けど意外だな。この手のことは好きそうだと思ってたが」
久保が熱心を超えたストイックな練習をしている姿は二度も見ている。リフティングなんてやればやるほど上手くなるのだから、てっきり得意分野かと思っていた。
「だ、だって、別にリフティングなんて上手くなくても困らないもの」
「現に今困ってるだろうが」
「リフティングの上手い下手なんて、試合に関係ないしっ!」
「どうしてリフティング下手な奴は皆んな同じこと言うんだろうな」
久保が言うように、リフティングが下手でもサッカーが上手い奴はごまんといる。逆もまた然り。だが、やはりリフティングの上手さとサッカーの上手さは比例する。リフティングの上手さとは、「練習外の時間にもたくさんボールに触れている」という実態に起因するからだ。
「別に強制はしないがな。だが、トラップをもうちょっとマシにしたいなら、リフティングはやっといて損はない」
トラップと言いリフティングと言い、どうも久保はコントロール系のプレーにコンプレックス、苦手意識があるらしい。かなり致命的な状態だと思うが、よく今日までサッカーを続けてきたものだ。
準備していたよりずっと早く練習のスケジュールが回っている。飽きさせないためと常に集中を与えるためには、こまめに練習を切り替えるのが効果的とは言うが、この人数だとやれることは本当に限られてくる。せめてあと二人いれば違ってくるのだが。
「んじゃ、次はオーソドックスに一対一のドリブル練習するか。そろそろキーパーもやりたいだろ」
「そうですね。私の本業はそっちですので」
早速フラミンゴ娘がやる気満々に黒い膝当てを装着している。あまり見ないようにしていたため気づけなかったが、茄子が散りばめられた長袖シャツは肘当てが付いているものだった。こんな趣味の悪い柄のキーパー用練習着を作ったのはどこのメーカーだろう。絶対に大手ではない。
「普通のゴールだとデカ過ぎるから、ミニゴール使うか」
独り言のつもりだったが、
「私は普通のゴールで構いませんが」
フラミンゴ娘が耳聡く聞いていた。そして有無を言わせぬ様子でゴール前に陣取ってしまった。
「……ふむ」
ーーキーパーがそう言ってるなら、まぁいいか。
グラウンドの両端に一つずつ置かれているゴール。向き合ってはいるが位置がズレているので、そのまま試合することはできない。だが片側だけを使う分にはなんの問題もない。
「んじゃ、ディフェンスはペナルティーサークルから。少し離れたオフェンスがパスをして、ディフェンスが返した時点でスタート」
キーパー、ディフェンス、オフェンスが一直線に並ぶ。試合では前方から落ちてきた「優しい」ボールをプレーすることなんて稀なのだが、これのやり方は練習としてはよくある形だ。今日は様子見ということにして、明日以降はスタートの仕方を変えよう。
「適当に二手に分かれて……」
本数か時間かどちらでやらせるかと考えていると、
「ちょい待ち!」
タヌキ娘がバッと右の手のひらを見せながら言った。
「どうした?」
「うちは、まず兄ちゃんとやりたい」
「そうですね」
思いもよらない発言だったが、フラミンゴ娘がすぐに賛同した。グローブのマジックテープを犬歯で噛んで、ギュッと絞めている。
「別に挑発とかやないけど、まぁちょっとした歓迎会みたいなもんや」
「ゆ、ゆり、それはちょっと……」
丹頂鶴娘が慌てて間に入ってくるが、窘める声には微妙な迷いも混じっている。口では制止していても、興味がゼロではないのだろう。
「な、な。翔鳳のレベル、体験させてや。お願い! 一回だけでええから!」
俺の出身校の名前が出てきて、一瞬身体が固まった。話すなよ、とは言ってなかったが、積極的に話していいとも言ってなかったので、望を横目に睨む。
「あ、え、えっとぉ……」
小さな体躯をさらに縮めて望が人差し指を合わす。話の流れで自然に口にしたのだろう。変に自慢げに言っていたり、吹聴したりしていたなら嫌な気分になっていたが、これはもう仕方ない。いずれはバレることでもあった。
「はぁ……」
ワクワクされている。俺は期待に応える男ではない。むしろ平気で裏切る男だ。だが、場を白けさせて喜ぶような特殊性癖はなく、人並みに空気くらいは読む。
「一回だけだぞ」
「靴はそれでいいの? 部室にいくつかスパイクはあるわよ」
「いいよ別に」
俺が今履いているのも一応は運動靴だ。三年前に買った唯一の外履きであり、相棒である。
それにしても、部室に使わないスパイクがある、というのはどこの部でも同じらしい。先輩が置いていったものや、サイズが合わなくなったものが部室に放置されていたりするのだ。
「それはなに? うちなんかにはスパイクはいらんってこと?」
「好きに受け取ってくれ」
キッと眼光を鋭くするタヌキ娘に、できるだけどうでも良さそうに返事をした。
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