始まりは雨



 遠藤綾はずっと落ち着かない気持ちのままだった。昨日の夜からよく眠れなくて、今朝はいつもより一時間も早く目が覚めてしまった。二度寝する気にもなれなくて、ならばランニングでもしようかと思ったが、カーテンを開けると外は雨が降っていた。どうして気がつかなかったのか、二階から見える道路をなかなか強い雨が水浸しにしてなお降り続けている。徒歩通学の遠藤だから、換えの靴下を持って登校しなければならないと頭の端っこで考えた。スマフォで天気予報を確認したら、これからどんどん雨足は強くなるらしい。ならばさっさと家を出るのが吉か。


「……はぁ」


 パジャマを脱いで、吊るしてあった制服に着替える。膝丈の紺のプリーツスカートを履き、キャミソールの上から白のブラウスに袖を通す。ここまではいい。だが、ブラウスの胸元に付けなくてはならない、大きな赤いリボンが嫌だった。三年生は水色で、二年生はイエロー。どちらも清潔でクールな感じなのに、何故か一年生だけ派手派手しい赤だ。学年ごとの持ち回りなので、これを三年間付け続けることになる。

 別に、赤いリボンそのものに不満があるわけじゃない。普通に可愛いと思うし、久保竜子や、それこそ小鳥遊霧子が身につければとても綺麗で愛らしい色合いのコーディネートになる。他の学年からは、赤が一番の「アタリ」だと言われているのだ。


「でもなぁ……」


 だが、自分には似合っていないと思う。無駄に身長が高いせいで、こういう可愛い系の服装全般が似合わない。背が高くて羨ましいだとか、手脚が長くてカッコいいだとか言われるが、そんなの全然嬉しくない。周りの女の子ほどオシャレに興味があるわけではないが、着られる服が限られているというのは辛い。この制服だって、実はサイズぎりぎりだった。もしかしたら今後買い換える必要もあるかもしれない。


 ーーせめて顔がもっとキリッとしてたらなぁ。


 マッサージするように頬を手で持ち上げる。十五歳の自分は、まだ顔つきに幼さが残る。アンバランスなのだ。体格ばかりが大人びていて、顔が子供のまま。それでいて中性的なので、本当に男の子みたいだ。多分あと数年経てばもう少しマシにはなるのだろうが、貴重な青春時代を「待つ」ことに費やすのはどう考えても損だ。

 いつものごとくコンプレックスに悩まされつつも、学校に行く支度を整えた。あとは適当にトーストでも焼いて食べればいい。

 元気を出せ、私。今日はあの人が来てくれるんだから。廃部の危機を抜け出したわけではないが、それでも踏み出した一歩の歩幅は大きい。

 部屋を出る前にもう一度、手ぐしで前髪を整えた。


 遠藤が昨日から落ち着かないのは、今日から楠田公太郎がコーチに来てくれるからだった。あの人となら、何か普通ではないことができる気がするのだ。










 七時間目が終わりに差しかかる頃になっても、雨は降り続けていた。水捌けの悪いグラウンドはちょっとした川のようになっている。校舎とグラウンドに一メートルくらいの高低差があることも、水が溜まる原因となっていた。また、もともと桜峰女子高等学校の敷地が低いため、台風や豪雨になると雨水が流れ込んでくる。その度に土嚢を積まされる若手教師は、よそ者の俺から見ればとても不憫だった。


 ーー初日から雨とはツいてねぇ。この場合はどっちだろうな。


 ずしりと重そうな雲を見上げる。雨音の心地よさと濡れた靴下の気持ち悪さのどちらに気持ちを委ねようか、ぼーっとしながら考える。

 俺は今、私立桜峰女子高等学校の部室棟の屋根の下にいた。つい先程まで、副校長と部活長と話し合いをさせられていて、やっとの思いで逃げてきたところだった。桜峰側は女子校という立場上、俺のような若い男の出入りに恐ろしく敏感だった。身分証明書だけでなく履歴書の提示も求められて、大学側にも連絡が行ったらしい。兎にも角にも、「学校側が招いた人物が生徒に対してふしだらな行為をする」という事態を危惧しているのだ。その危惧にはもちろん「ふしだらな行為」以外も含まれてはいるが、基本的にはそこが最重要らしい。俺がサッカー部のコーチをすることになった経緯や、目的、指導方針など、かなり細々とした部分まで聞かれた。その中には、俺みたいな人間に対してですらどう考えても失礼に当たるだろうと思われる不躾な質問もあった。まぁ、俺の大学での生活を鑑みれば仕方のないことかもしれないが。


 ーーミスったかなぁ。


 一昨日、久保の攻撃的な感情の波に呑み込まれた俺は、妙なテンションになっていた。その結果、その場の勢いだけでコーチになると望に伝えてしまった。しかも間の悪いことにその時、望の周囲には丹頂鶴娘とタヌキ娘、コーギー娘、フラミンゴ娘がいたらしい。一人でランニングしていた久保を除いて、桜峰高校サッカー部全員集合である。望一人に言っただけなら揉み消すこともできただろうが、五人分の言質を取られてしまっては誤魔化しようがない。

 正直、まさかここまで面倒なことになるとは思っていなかった。今後も似たような話し合いの席が設けられるみたいだし、今更になってあの時の決断を後悔する。そして何より、この女子校というある種の特殊な環境そのものが、俺にとって大きなストレスだった。昼休み頃に桜峰に到着したのだが、校内ですれ違ったり、案内をしてくれていた事務員さんと話をしたりしている生徒たちが纏う「私たちは青春を謳歌しています」というキラキラしたオーラは、見ているだけで胸が詰まりそうになった。若い女子が標準装備しているスカウターで俺の「男子力」を舐め回すように測定されるのも、身体が竦むような不快感があった。決して自意識過剰ではなく、現実にそこら中から視線が飛んでくるのだ。

 初日の数時間だけで何度帰りたいと思ったかわからない。ようやく一人きりになれて吐いた安堵の一呼吸の重さは超ヘビー級だった。


 ーー狭いグラウンドだな。


 目の前のグラウンドを見る余裕が出てきたのは、雨避け下のベンチに腰を預けて十分以上経ってからだった。

 数百メートル向こうにソフトボール用のフェンスと敷地の外の林が見え、その少し手前には小さなテニスコートがある。右側の校舎の側に建つ倉庫は随分と草臥れていた。俺が今いる二階建ての部室棟もかなり古いもので、コンクリの壁はヒビが入っていたり、黒く変色していたりする。ざっと見て回ったが、使われているのはソフト部と陸上部、サッカー部とテニス部だけで、空き部屋が五つもあった。


「あ、お兄さん〜」


 どう考えても部活動に力を入れてない校風を端々から感じ取っていると、校舎の方から傘をさして歩いてくる生徒がいた。一瞬誰かと思ったが、育ちの良さそうな穏和な雰囲気を感じて気がついた。コーギー娘だ。サッカー中にお団子にしていた長い髪は前に下ろされ、先端部分で優しくまとめられている。


「本当に来てくれてたんですね〜。目つきの悪い眼鏡の人が学校を回ってるって噂でしたよ〜」


「目つきは余計だ」


 流石は女子校。噂話の広がる速さはとんでもない。そして、やっぱり良くも悪くも若い男には敏感に反応する。


「もうすぐ皆さんも来ますから〜。部室に入っててください〜」


「いいのか?」


「構いませんよ〜。見られて困るものもありませんし〜。朝のうちに掃除もしましたから〜」


 相変わらずのんびりとした口調のコーギー娘は、ポケットから取り出した鍵を指でくるくる回す。四つある内のこちらから二つ目の部室の扉を開ける。


「どうぞ〜。ここが私たちの部室です〜。まぁ、今週末には取り潰されてるかもしれませんけど〜」


 何故か他人事な様子で笑いながら、俺を招き入れてくれた。パチりとスイッチを押すことで、薄暗い部室に明かりが灯る。


「ふむ」


 外から見て思っていたよりも広い。正面に鉄格子のはまった窓とその下に置かれたベンチ。左右の壁に並ぶロッカー。部屋の真ん中にも安っぽいベンチがあり、入ってすぐの左手に、ボールの詰まった籠やコーン、マーカーと言った用具が一かたまりにされて置かれている。一番大きいものは、組み立て式のミニゴールだった。必要最低限の機能だけを有している感じで、好感を持てた。


「マットで靴底拭いてくださいね〜」


 扉の内側のフックに鍵を引っ掛けたコーギー娘は、真ん中のベンチにカバンを置いて自分のロッカーを開ける。ロッカーの中に取り付けられた小鏡越しに目が合う。


「どうですか〜。女子の花園ですよ〜」


「どうって言われてもな。うわ、ボールぶよぶよじゃねぇか」


 おもむろに手に取ったボールにはほとんど空気が入っていなかった。ママさんバレーで使えそうな柔らかさだ。


「そこにあるのは古くって〜。空気が抜けやすいんです〜。だから使ってないですよ〜」


 そういえば望がそんなようなことを言っていた気がする。パッと見ただけでも、使えそうなのは二つか三つくらいしかない。オーソドックスなミカサの白黒ボールたちが年季の入った顔でこっちを見ている。俺たちはもう疲れたよ、と言っている気がした。


「あれ、兄ちゃん来とるやん」


「こんにちわ。不法侵入ですか? それとも盗撮ですか?」


 すると、傘をささずにここまで走ってきたのであろう、髪を濡らしたタヌキ娘とフラミンゴ娘が入ってきた。湿ったフラミンゴ娘のブロンズヘアは、朝露を引っ掛ける蜘蛛の糸のような美しさがあった。二人ともマットで念入りに靴底を綺麗にしている。


「兄ちゃん気ぃつけといた方がええで。あんは綺麗好きやから、汚れたまんまで部室入るとド突かれるで」


「別にド突いたりはしませんよ〜」


「おや、隠しカメラは無さそうですね。盗撮しないつもりですか?」


 コーギー娘一人だと割と静かだったのだが、二人増えたことで一気に部室が騒がしくなった。姦しいとはこういうことか。実際、俺に話を振ってはいるが、会話の中心は彼女たちだ。タヌキ娘も真ん中のベンチにカバンを放り投げて、自分は何をするでもなく窓際のベンチに胡座をかいて座った。フラミンゴ娘はさっきから熱心に部室中を探し回っている。何を探しているのかは面倒なので聞かないし、質問も無視した。


「で、今日はどうするんだ。まさか外練はしないだろ」


 サッカーは雷が鳴らない限りは雨でも試合をするが、雨の日に外で練習するチームは少ない。強豪校は室内練習場を持っているし、基礎的な筋肉トレーニングなんかは室内でもできるからだ。あと、土のグラウンドで雨の日に練習してしまうと、翌日足跡が固まってボコボコになる。これを綺麗に平すのはかなり大変なのだ。


「えー。その辺は兄ちゃんが決めてくれるとちゃうん?」


「そんな細かいスケジュール調整なんかしねぇよ面倒くさい。まぁ、やっときたいことがないでもないが……」


 一応は、コーチを引き受けた上で最初にやらなくちゃいけないことはあった。だがそれも全員が揃ってからじゃないといけない。望と丹頂鶴娘、あと久保が来ないことには、


「こ、こんにちわ!」


「あー! コウちゃんこんなところにいた!」


 と、思っていたところに丹頂鶴娘と望が到着した。二人の背後に久保もいて、無表情を作ろうとしている表情で傘の水分を切っていた。


「こんなところってなんだよ」


「玄関前で待ち合わせって言ったじゃん!」


「だったか?」


「だったよ!」


 どうも俺を探し回ったらしい望はぷりぷりしている。丹頂鶴娘と久保もそれに付き合っていたのだろうか。彼女たちも真ん中のベンチにカバンを置いた。あそこは人が座る用ではなく、カバン置きらしい。

 扉のすぐ隣の位置で壁に背を預ける俺に、六人の少女たちの視線が集まった。

 左側のロッカーの前で手を後ろに組んで立っているコーギー娘。

 窓際のベンチの端っこに横向きで座っているフラミンゴ娘。

 その隣で相変わらず胡座をかいているタヌキ娘。

 なんかすげぇ嬉しそうな顔でニコニコしている丹頂鶴娘。

 斜めになりながら壁にもたれかかっている久保は、気難しそうに眉根を寄せて腕を組んでいる。

 そして、もう逃がさないぞ、という顔をして俺のすぐ横で扉の前を陣取っている望。


 このたった六人の少女たちが、桜峰女子サッカー部だった。


「コウちゃん、挨拶アイサツ!」


 今日も結局、新入部員は見つからなかったらしい。今週の金曜までにあと一人揃わなければ、この部はなくなってしまう。無力な生徒たちはまだ崖っぷちに立たされたままだ。

 俺はそこをどうこうしようとは思っていない。今週だけのコーチになるならそれまでの話だ。人数集めはコーチの仕事ではないし、俺ができることはほぼ無いと言っていいだろう。


 だから、俺は俺の思う「コーチとしての仕事」を遂行しよう。

 第一歩は踏み出した。だがそれは、久保に背中を突き飛ばされてよろめいた結果、奇跡的に前へ脚が出ただけだ。ここから先は、自分で歩かなくてはいけない。前へと、前へと歩いていくのだ。


「そうだな、まずはチームの方針を決めようか」


 堅っ苦しい挨拶なんて必要ない。俺は早速本題に入った。

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