もう一度あの場所に
「おかしなことじゃないはずよ。子供がプロに憧れるのと同じで、私はあなたに憧れた」
外国語で話されているのかと思うほど現実感がなく、意味がわからない話だった。
ーーアコガレ。あこがれ。憧れ。憧れ?
「だから、去年あなたを見かけた時の衝撃は最悪だったわ。カメムシを嚙み潰したみたいな感じよ」
カメムシを食べたとかいう共感できない例えのおかげか、外国語の翻訳が一気に進んだ。口がまず最初に捻り出したのは、子供のような言い訳まみれの反論だった。
「俺は、プロじゃない。勝手に憧れられても困るし、失望されたって知ったことじゃない」
「知ってるわ。でもそれこそ私の勝手。それに、こうしてあなたが私の前に現れたりしなければ、一人で呑み込んでいた話よ」
呑み込んでいたと、鷹娘はきっぱりと口にする。お前のことなんて、もうどうでもいい。かつての失望なんてとっくに片付けて、前に進んでいる。
立ち止まっている俺とは大違いだった。
「わかってないようだから、もう一度言うわ。逃げるなら、しっかり逃げて。振り返らなくていいか、振り返っても見ることもできないくらい遠い所まで行って。あなたが別の道に歩き出せるのなら、きっとそれが一番いい」
ここまでの鷹娘の言葉は、俺の体力と気力をガリガリ削りまくるだけの、言わば攻撃だった。だが、それが突然ふわりと優しいものに変化した。そうなって初めて、俺は彼女がとても綺麗な声をしていることに気がついた。夏の風鈴のような涼しく透き通った声は、春の河川よく響いていく。
「そんな姿で立ち止まっているんじゃなくて、あなたは選ぶべき。進むことと、進む道を」
前へ前へと進み続ける少女の真っ直ぐな瞳が、俺の身体の芯を貫いて駆け抜ける。
「でも」
俺と鷹娘、二人の視線が交差した。鷹娘の迷いない表情が、彼女が本音を語っているのだということを俺にわからせてくれる。
俺を見下ろす鷹娘の声には、微かな願望と現実への拒絶が包み込まれていた。
「でも私は、此処に居て欲しい」
ーー此処に。
風が強く吹いた気がした。俺の心の中で灰色の煙を上げて燻る残火が、消えた。
そして。
「あ……」
消えた火が。今消えたのに、胸がじわりと熱くなってくる。消えたはずの心の中に小さな燐火が灯っていく。
これは、これはかつて、俺の胸に煌々と猛っていた炎と同じ、どうしようもなく身体を震わせる、最高のエンジン。
「……私が言いたいことは、これだけ。大声出してごめんなさい」
久保竜子がしゃがんで靴紐を結び直す。ひと月前に発売されたはずのランニングシューズのソールは、中敷きが見えそうなほど擦り切れていた。少女は身じろぎすら忘れている俺の横を通り抜け、河川敷へ駆け出していく。すれ違いざま、ポニーテールが俺の頬をかすめ、桜の花弁をぺたりと貼り付けていった。この近くに、桜の木は植わっていない。
「……」
ーー失敗をしたのなら、それを伝えればいいじゃない。
俺は尻ポケットに手を突っ込み、意図せず入っていたスマートフォンを掴んだ。昨日届いたメールに添えられていた番号を打ち込む。
「もしもし? コウちゃん?」
3コール目だった。
「望。条件がある」
「え?」
「試合は土日にあるんだ。二日前の木曜に休みなんて有り得ない。火曜もそうだ。試合明けの月曜一日だけ練習して、次の日に休む意味がどこにある」
「え、ちょ、ちょっと待って!」
「休みを取るなら試合明けの月曜。百歩譲って水曜。ウィークを前半後半に分けれる」
「いや、いやいや! きゅ、急に何を!? あ、綾ちゃんちょっと離れて! 近いってば!」
戸惑いを隠せない望みの背後からタヌキ娘とコーギー娘の声も聞こえてきた。それがにわかに興奮を帯びていくのがわかる。
「コーチ、引き受ける」
ーーやらせてくれ。
とは、まだ言わない。言わないのだから、一方的に通話を切った。
花弁を親指で払いのけて、俺は空を見上げる。初めて、過去に意味がある気がした。
いつもの半分にも達しない距離でランニングを切り上げた久保竜子は、家で熱いシャワーを浴びていた。頭上から降ってくる湯がシャンプーを溶かして肌を滑り落ちていく。立ち込める湯気が目の前のガラスを曇らせ、ぼんやりとした肌色だけを映し出していた。自分自身が映るガラスを、久保は力任せに叩いた。
ーーあなたの、ファンだった。
思い出すだけでカーッと頭の中が熱くなるのがわかる。痛みに近い熱に思わず強く目を瞑る。眉間に寄った皺が深すぎて、細く整った眉が一つになりそうだった。バルブを回して更に湯を熱くする。肌が赤みを増して痛みを訴えたが、頭痛に比べたら微弱なものだ。
「私はなにを……」
あんな堂々と、宣言するかのように本人に言ってしまった。あの時は必死で何も考えていなかったが、後になればなるほど恥ずかしくなってくる。これはきっと、異性に好意を伝えるよりも恥ずかしい。
床に溜まった泡がどんどんお湯に溶かされて混ざり合っていき、最後には完全に消えていった。どんなに熱いお湯を被っても動悸が治まらない。しばらくそうしていたが、水道代の無駄だと観念して浴室から出た。お日様の香りがするバスタオルに顔を埋めても、身体の火照りがどうしても鎮まらない。これはもうどうしようもないと顔を離すまで十分を要して、やっと乱暴に髪をふき始めた。肩甲骨まで伸びた髪から落ちる雫が腰と尻を伝って足ふきに染み込んでいく。
「あぁ、もう!」
ミランの九番のユニフォームに袖を通してから下着をはいた。混乱のせいで服を着る順番がぐちゃぐちゃになっていることに気づいて余計に居た堪れなくなった。
「あぁ、もう!」
もう一度悪態をつく。バスタオルを髪に巻きつけてずんずん足音を言わせながら二階の自室に帰る。
部屋に入ると、2006〜2007シーズンのチャンピオンズリーグ優勝カップを掲げるインザーギのポスターが出迎えてくれたが、そろそろ別のものに変えようかなぁと思ってしまう。南側に面した窓以外の壁のほとんどの場所に、合わせて八つのポスターが貼られている。インザーギが、ゴン中山が、ネドヴェドが、闘志をむき出しにした表情でボールを追いかけていた。
ーー忘れよう。
リビングの現役を退いた二世代前のテレビを点けて、テレビラックにパンパンに詰め込まれているDVDを引っ張り出す。嫌なことを忘れるにはサッカーを観るのが一番いい。やはり2006〜2007シーズンのチャンピオンズリーグ決勝、ACミランvsリヴァプールが鉄板か、それとも2008〜2009のバルセロナvsマンチェスター・Uのサミュエル・エトーのゴールを見るか。
久保はワールドカップももちろん好きだが、やっぱりチャンピオンズリーグの方が好みだった。国籍も人種も関係ない唯一無二のチームメイトたちと共に人生を賭けた試合を闘う。彼らの闘志と信頼関係、そして感情の爆発がたまらなく好きだ。
急かされるような気持ちでDVDを選ぶ久保の部屋は、何から何までサッカー一色だった。本棚には中学の教科書が居心地悪そうに隅っこに収まっているが、それ以外は全てサッカー関連のもの。壁にはポスター以外にも二着のユニフォームが飾られ、勉強机の上には中学時代の市総体優勝の写真や、中沢百合子や遠藤綾、仲村あん子との写真が飾られている。この部屋で唯一サッカーの匂いがしないのは、窓際の姿見の鏡とハンガーにかけられている学生服だけだ。
ーービョーキやで。
三人をこの部屋に初めて呼んだ時の中沢の第一声だった。三人が微妙に引いていて久保は首を傾げたものだ。これくらいは別に普通だと思っていたし、それに最終的にはテスト勉強なんて忘れて四人でプレミアリーグスーパープレー集を大喜びで観たのだから、皆んなだって同じ穴のむじなだ。
興奮を抑えきれない外国人実況者の声が部屋に響き始める。
ーーごめん。私もうサッカーとかどうでもいいから。
その時何故か、何とかして部に戻ってもらおうと会いに行った、二年の藤沢先輩の目が脳裏に浮かんだ。
ーーそんな。もう一度やりませんか。絶対に楽しいですよ。それに、このままだと部が……。
ーー私には関係ない。他をあたって。
取りつく島もなくそう言って去っていった背中に、追いすがって声をかけようとは思えなかった。藤沢先輩は本当にサッカーへの興味を失っていた。それはまるで、初めからサッカーなんてものを知らなかったかのような目つき。先で待っていた二人の金髪の先輩に追いついた彼女は、心底楽しそうな横顔で階段をおりていった。
ーーあぁ。この人はもう。
サッカーを見ていない。でも、それならそれでいい。無理強いするようなことじゃないし、先輩が別のことを楽しみにしているなら、邪魔をしちゃいけない。だから先輩のことはすぐに納得できたし、久保ももう彼女に興味はない。交差するかと思われた線が実はズレていただけ。
ーーでも、あの人は違った。
一年前、思わぬ「再会」を果たした楠田公太郎の目は今でも覚えている。
それは今日と同じような暖かな春の土曜日だった。中学最後の大会に向けて頑張ろうという気持ちと、初めて最上級生になった居心地の悪さみたいなものが上手く整理できていなった頃。気持ちのモヤモヤを晴らすためにいつもより速いペースで河川敷の土手を走っていた。河川敷のグラウンドではスポ少サッカーの試合が行われていて、それを横目に見ていると、
ーーえっ。
向こうからノロノロとした足取りで歩いてくる若者を見つけた。それはかつて久保をサッカーの道に引き込んだ、楠田公太郎だと一瞬で気づけた。髪も伸びて眼鏡もかけていたけれど、間違いない、彼だ。だが、外見の微妙な違いなんかよりも、その目つきに言葉を失った。
それはまるで、ヌルい炎に焼かれているかのような昏い瞳。磔にされたまま苦しみに悶え続ける歪んだ視線。精気のない表情でスポ少サッカーを見下ろしている。
ーー私は、あなたに憧れてーー。
いつか言おうと、言いたいと思っていた言葉は喉奥で引っかかり、ヒューヒューというおかしな呼吸音に変化した。公太郎のその目を見ただけで、彼が今どんな状況にいるのかを理解した。その原因をピタリと言い当てることは無理だが、高校で何かがあったのだとは察した。
立ち止まったままの二人の距離は縮まらず、そしてとうとう公太郎は横道にそれて行ってしまった。久保の心に昏い瞳の色だけを焼き付けて、それ以降二度と会うことはなかった。
ーーそれなのに、どうして。
あの日からもう会うこともないのなら、こんな気持ちになどならなかった。ほとんど忘れかけていたようなことだったのだ。だが、高校で出会った八尾望が連れてきたのが公太郎だった。一年を経ても瞳の色はそのままに。
サミュエル・エトーが叩き込んだ先制点に、スタジアムが大歓声をあげる。マンチェスター・Uのペースで進んでいたゲームが一気に反転した前半十分のプレー。これを観たくてDVDを再生したのに、久保の目も耳も何も拾っていなかった。ただ頭に浮かぶのは、別方向に向けられた藤沢先輩の瞳と、ひたすら後ろ向きであり続けた公太郎の瞳。その違いだけ。その二つを知っていたからこそ、久保はヘソが煮え繰り返りそうなほど腹が立った。いつまでも、何年経っても、過去をただ眺め続けているだけの公太郎がどうしても憎く思えてしまった。
己が身勝手なのはわかっている。とんでもなく子供っぽいとも思っている。だが、憧れだった人が失意のまま燻っていることが我慢できなかった。公太郎の高校時代に何があったとしても。
「此処に、いて欲しい……」
自分で言ってしまってから気がついた、自分の本音。此処で、もう一度私たちと、サッカーをして欲しい。これが一年間溜め込んでいた感情だった。
試合の前半が終わろうとしていた。あいつのせいで全く観戦に身が入らなかった。
もう考えるのはよそう。言いたいことは全部言い切った。これから公太郎がどうするかなんてものに気を取られている暇はない。部員勧誘期間は来週の金曜日の午後五時まで。あと六日で最低でも一人増やさなければ廃部にされてしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。自分が大好きなものに精一杯打ち込むために。皆んなと一緒に試合に勝つために。
「よし! 頑張るぞ!」
わざと声に出してギュッと拳を握った。頭の片隅に浮かんだ、あいつの戻ってくる場所を守るために、などという言葉はそっと胸の奥に押し込めた。
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