また会ってしまった




 小中高。トレセン、Uー15、国体。色々なチームに所属し、幾人もの指導者の元でプレーしてきた。そのいつの時期でも、俺を見てくれていたのは良い指導者たちだった。底なし沼で溺れ死にそうになっていた俺がまだ生きているのは、彼らが側に居てくれたからだと最近気づいた。それが良かったのか悪かったのかは決められないが、恵まれた環境にいたことは事実だ。


 ーー哀れだな。それが普通のことでも。


 指導者は有限で、質もピンきり。相性だってある。自分に合った指導者なんてそうそう会えるものじゃない。それが普通だ。だが、そういう「人の縁」に恵まれなかった丹頂鶴娘が、俺には酷く哀れに思えた。「俺」を自分の求めた指導者だと思ってしまうような箇所なんか特に。


「……少し考えるから、飯食ってろ」


「え、それって……!」


「コーチになってくれるの!?」


 勢いよく起立した望を目で座らせる。望のせいで少し溢れたお冷やを丹頂鶴娘がふきんで拭いていた。


「そういう意味じゃない。少し考えるって言っただけだ」


 少しだけ、考える余地が生まれたのも事実だが、それは本当に狭域だ。ボール一個分のパスコース、人一人分のスペース。そこを使える選手はとても、少ない。


「だから今は飯を食え。冷めるともったいない」


 火傷しそうなほど熱かった一つ目のコロッケは胃の中へ。程よい熱さの二つ目に齧り付く。俺が黙々と食事を再開したのを見て、望と丹頂鶴娘も箸を手に取った。少し安堵したような二人が穏やかな会話を始め、俺は鯛の煮付けが綺麗に骨だけ残されていくのを視界におさめていた。













「2200円になります。分割?」


「うぅん、一括で」


「わかった」


 望から千円札を三枚受け取ったヒヤシンス娘は、ハッカー並みの速度でレジを打った。バシュバシュバシュ! というレジ音とは思えないような音が鳴る。


「レシートと、800円のお返し」


「ありがとう」


 望に見えるよう綺麗に四枚の小銭を手の平に並べたヒヤシンス娘は、手首をくるりと回転させてそれらを纏めて摘み、望の手の中に返した。


「ありがとう。また来るね」


「ご馳走さまでした。美味しかったです」


「ごっそさん」


 ボリュームある定食をペロリと平らげた二人は、ことりちゃんがとても気に入ったようだった。今度は他の部員も連れてくると約束している。


「またどうぞ」


 だが、ヒヤシンス娘は二人との会話に別段興味もなさそうだ。


「こら! もうちょっと愛想良くできないのかい!」


 隣のおばちゃんが景気良く娘の頭を叩く。ヒヤシンス娘は一瞬うざったそうにおばちゃんを睨んだが、何も言わなかった。


「おばちゃんそりゃ無理だぁ。それに、霧子ちゃんはそこが売りなんだから」


「そうそう。そんなに怒っちゃ可哀想だよ」


「もう。お客さん達がそうやって甘やかすから、この子がこんなになっちまったんだよ!」


 店内にいた客たちが楽しそうに笑いながら囃し立てる。おばちゃんは怒った素ぶりはしているが、どちらかと言えば嬉しそうだった。


「小鳥遊さん、また学校でね」


「うん」


 そんな店の様子を見てニコニコする望は、手を振りながら暖簾をくぐった。ヒヤシンス娘は振り返したりはしなかったが、素直に返事をしたので、望は満足みたいだった。


「ふわ〜。美味しかったねぇ!」


「安いのが良いよ。量も多いから、カロを連れてきたら喜ぶと思う」


「だね。絶対皆んなで来ようよ」


 二人は店から出てすぐにまた食べにくる時のことを話している。

 これは本格的に俺の生活圏が侵されそうだ。この先一人で昼飯を食べに来たらこいつらの内の誰かと鉢合わせた、なんてことがあるかもしれない。それは非常に嫌だ。


「んじゃ、お前ら帰れ。俺も帰るから」


「えぇ〜。返事は?」


「俺はお前みたいに脊髄で動いてないんだよ。ちゃんと物事は考えるの」


「優柔不断なだけじゃん」


「熟思黙想と言え」


「ん……? じゅ……なに?」


「心を平静にして、よく考えるってことだよ」


 耳慣れない四字熟語にはてなマークを飛ばす望に丹頂鶴娘が耳打ちしている。俺は俺で、高校時代のメンタルコーチの口癖が考える前に言葉になったことに少し驚いている。望に脊髄云々を語っている場合ではない。


 ーー染み込んだのは、毒ばかりじゃないのか。


 意外というよりも不可解だった。


「じゃあな。早く帰れよ」


「あ、待ってよコウちゃん!」


「え、えっと……公太郎、さん。これを」


 歩き出した俺は望にシャツをつかまれ、その間に丹頂鶴娘に回りこまれた。おずおずと差し出されたのは、食事中ずっと丹頂鶴娘の膝に置かれてあった紫の小包だ。


「あん、仲村の家のお菓子です。良かったら……」


「いらん。甘い物は嫌いなんだよ。あと、これからタバコ吸う」


 嘘でも強がりでもない本音だ。俺が見せた一番キツい対応に、丹頂鶴娘が傷ついた顔をする。大人びた外見でも、まだまだ十五歳だ。


「自分たちで食え。食いモン無駄にするな」


 フォローらしいフォローもしないまま、俺は丹頂鶴娘の横を歩き過ぎた。一瞬迷ったが、すれ違いざまに肩を叩いた。善人ぶる必要もないが、悪人になる必要もない。俺は中途半端が性に合う。


「コウちゃん! 後でメールするからね!」


 望の声は無視した。もう俺の頭の中はタバコの匂い一色だ。肺がニコチンを求めている。あいつらに会うといつもよりタバコが欲しくなるのは本当に困ったことだった。よくよく考えてみれば、俺は別にタバコを愛しているわけじゃないのだ。中毒ばかりが進んでいて、あの煙に身体が絡め取られている感覚。


「……ちょっと歩くか」


 こそっと背後を向くと、望と丹頂鶴娘は反対方向に帰っていた。もう俺の方は見ていない。この隙に行き先を変更する。別にあいつらを気にすることなどないのだが、タバコを吸うと言って無理やり引き離した手前、別の行動をしているのを見られるとバツが悪い。


 ーーどこに行こうか。


 タバコは少し我慢しよう。なに、別に一時間も二時間も歩くわけじゃない。先程の思い出しついでに、メンタルコーチがよく言っていたことを呟く。


 ーー考えごとをする時は、散歩をしながらすると良いわよぉ。それが緑ある森の中だったりしたら最高ね。


 都内に大自然はなかったから、俺もよく同級生たちと森林公園とかに行っていた。確かに、あの時間だけは気が楽だったかもしれない。いつかを境に、散歩など頭に浮かぶことすらなくなったが。

 自然。自然を探して歩く。桜峰市は田舎だが、案外自然は多くない。どこも不恰好にコンクリで塗り固められた、古き良き景観にも綺麗な都会にもなり切れない半端な場所ばかりだ。上桜かみさくら地区に行けば山が、下桜しもさくら地区に行けば海があるが、ここは生憎の中部。どっちも徒歩で行ける距離じゃない。


「なら川か」


 市内を東西に分断する桜川。何年か前の台風で砂利と石ばかりになってから水などほとんど流れていないが、川は川だ。場所によっては水たまりもあるし、魚もいる。そして、鷹娘が壁打ちしていた橋脚もある。

 やっぱりタバコを恋しく思いながら、ぼんやりと歩く。少し考える、と言った。言ってしまった。いや、言わされた感が強い気がする。丹頂鶴娘の熱意ではなく懇願が、俺の心に響いた。だがそれは決して美しい黄金の鐘のような音色ではない。黒板を爪で引っ掻いたみたいな気色悪い音だ。


 俺に教えて欲しいと、あの娘は言った。プレーを見て欲しい、とも。そうは言っても、俺が彼女のプレーを見て何ができるのか。そりゃ、「見る」くらいなら誰でもできる。だが、「見た」ことで生じるリターンを俺は持てるだろうか。あの娘が、あの選手が、あのチームが。彼女たちが欲している勝利に繋がる「何か」を、俺が見つけだせるのだろうか。

 俺の引き出しに入っているものなど、失敗と徒労と後悔だけで、プラスとなるものは1グラムもしまわれていない。


 ーー無いんだよ。前へ進むタネが。そんなモン持ってるなら、俺が教えて欲しいくらいだ。


 俺の中には、ガソリンもエンジンもない。タイヤすら取り付けられていない。そんな俺が、彼女たちに何をしてやれる?


 あぁ。気の迷いで色々考えてみたが、やっぱり呆れるほど生産性がなかった。俺が所有しているものに名前を付けるなら、全て「失敗」と「無価値」に分けてラベリングされる。

 

 ーーやっぱダメだ。考えれば考えるほどそう思う。


 望は適当な理由をつけて誤魔化しておけばいいとして、丹頂鶴娘は少し時間をかけて頭を冷やしてもらおう。そうすれば、彼女が求めているものが俺ではないと気がついてくれるさ。これが、少し考える、と言った俺が出した結論だった。そうと決まれば、これ以上歩くことはない。本当にぼんやりしていたらしく、もう土手にまで来てしまっていたが、くるりと回れ右をした。


 したところに、今一番会いたくないのに、こうして会ってしまうことを考えもしなかった人間と目があった。


「……何してるのよ」


「そりゃこっちのセリフだ」


 タオルを首にかけた練習着姿の鷹娘が、心底嫌そうな顔で立っていた。こめかみから頬へ流れる汗を拭って、斜め上を見ながら肩が上がるほど深く息を吐く。


「望と綾に会わなかったの? やっぱり逃げてきたのかしら」


「さっきまで一緒に飯食ってた。君は、ランニングか。すぐ下に土の道があるんだから、わざわざコンクリを走るなよ」


 逃げてきた、という言葉を殊更に強調する鷹娘に、俺も皮肉半分で返す。固いコンクリートは膝に悪く、マラソン選手でもないのなら走るべきではない。そんなことも知らないのか、と。ちょっと下におりた河川敷には土のグラウンドや公園があるのだから。


「あなたには関係ないでしょ。思ってもない気遣いはやめて」


 別に気遣いではないのだが、首筋にタオルを当てる鷹娘のお人好しを訂正する気もない。


 ーーついでだ。


 暫定キャプテンに聞いてみよう。


「君らは勝手に俺をコーチにするって決めたらしいが、君個人はどうなんだ」


 俺を嫌いだと正面切って言い放った歳下の少女。どんな表情をするかと思いきや、眉一つ動かさなかった。


「……私は、別にどうでもいい。でも皆んな乗り気だから、反対はしないわ」


「ふーん」


 キャプテンらしい意見を言う鷹娘は、何故か一瞬言葉を詰まらせた。その小さな我慢と行き違いが後々の不協和音にならなければ良いが。まぁ、俺がコーチなんてものにならなければそんな綻びも生まれない。


「オーケーわかった。俺が持ってるのなんて失敗と無価値だけだ。こんなもん君らだって教えられても困るだろ。俺はコーチなんてやらない。それでいい。それがいい」


 今さら古傷抉られてたまるか。おどけて肩をすくめるフリをして、この場から離れられる道を探した。鷹娘の横を通るのは嫌だし、背中を向けるのも不安だった。だから、見事なまでに中途半端に護岸工事された斜め25度の土手をおりる。俺の目線が鷹娘の腰にまで下がった時、


「……別にいいじゃない」


 囁きに近い音量なのに、叩きつけるような烈しさのある声が俺の鼓膜を震わせた。そして、


「別にいいじゃない! 失敗でも、挫折でも! あなたが経験したことを語ればいいじゃない! 成功譚や必勝法だけが指導じゃないでしょう!? どうして今のあなたがそんな後悔の絞りカスみたいになっているのかを、周りに伝えればいい! あなたなら、次はそうならない為にはどうすればいいかなんて、とっくに気づいているんじゃないの!?」


 突然、春の中天に激昂が響いた。それは俺の度肝を抜くのに十分な熱量を発し、俺の足を一歩退かせた。


「あなたが高校でどんな想いをしたのかは知らない。でも、逃げるのならもっとちゃんと逃げなさい。萎びたナスみたいにチラチラ後ろ振り返っていないで」


 俺の心臓に噛み付くような視線は、ワクワク公園で見せたものと同じだった。肩で息をする鷹娘の足元に、ひらりとタオルが落ちた。だが、硬く握り締められた拳がそれを拾うことはなく、歯痒さに耐えるかのように震えている。


「なんだ、俺のこと昔から知ってたのか」


 あまりのことに目眩を覚えながらも、必死に声が裏返えらないよう抑えていた。


「知ってるわ。竹川南中の頃から」


「はっ。俺のファンってことかよ」


「そうよ」


 何とか茶化した声に力強く即答されて、とうとう二の句が告げなくなった。春の柔風が俺の身体に汗を生み、掠ることで体温を下げてさせていく。


「正確には、ファンだった、だけど。あなたのプレーを見て私はサッカーを始めたから」


 

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