やりたいポジション
まだ昼食時には早いが、店が混み始めてきた。テーブル席一つを残して全ての席が埋まっている。全員が三十代から五十代くらいの男性客だから、望と丹頂鶴娘が微妙に浮いていた。そしてそんな若い女の子と差し向かいで座っている俺もまた然り。彼らは俺たちを発見すると一瞬興味の色を瞳に映す。だが、すぐにどちらの店員さんが注文を聞きに来てくれるかに感心を切り替える。おばちゃんだと実家に帰ったような安心感を滲ませ、ヒヤシンス娘だとほんの少しだけ鼻の下を伸ばす。
これが「ことりちゃん」の光景だ。どちらの店員さんにも魅力があり、店主が作ってくれる飯の美味さに間違いはない。全ての客が店に対する信頼を持って訪れてきていた。
「それでね、コーチの件だけど、もう学校に許可とっちゃったから」
「あぁそう」
「人数もいないのにコーチなんて云々は結構言われたけど、私とリュウちゃんで押し切ったの。古見先生も口添えしてくれたし。あ、古見先生ってのは今の顧問の先生ね」
「へぇ」
「グラウンドはソフト部と陸上部とサッカー部で分けて使ってるから、あんまり広くないんだ。けどね、サッカー部とソフト部は火曜日か木曜日のどちらかは休みにしないといけなくて、でもどちらかはいつもより広く使えるから、その辺も考えてやってるんだよ」
「ふーん」
「これ、グラウンド使用の日程表。あと、うちの部の備品管理表。コーンとかマーカーとかは結構新しいんだけど、ボールがかなり古くて空気が抜け易くなっちゃってるから、各自持ち寄りにしてる……って! ちゃんと話聞いてくれてる!?」
「いや全然?」
マジで一切聞いていなかった。
店内はタバコが吸えないせいで、待っている間少し手持ち無沙汰になる。俺はテレビも見ないから、神棚の横に設置されているテレビもあんまり役に立たない。だが、実を言うところ別にこの店は禁煙指定しているわけでない。昔おばちゃんが妊娠したのを知った客が自主的に控え始めたのを契機に、今では禁煙が暗黙のルールになっているのだ。
ーーあー。タバコ。
だから俺は望の言うことなんか右から左に聞き流しながら、イライラを抑えるための煙を欲していた。
「あの、なんでタバコ吸われてるんですか?」
俺のそんな心情を敏感に察したのか、丹頂鶴娘が真剣な面持ちで聞いてきた。彼女も将来的に喫煙を考えている、などと言うわけではなく、単純に元スポーツマン(笑)が喫煙者になっているのが不思議なのだろう。
「バカな子供の考えそうなことだよ。ちょっと悪いことしてる奴がカッコよく見えただけさ。そっからはただの中毒だな」
俺が喫煙し始めたのは二十歳になった当日からだから、要するにかなり恥ずかしい理由だ。
「そんなことより、もう! ちゃんと聞いてよ! ほら、色々書類とか持ってきてるんだから」
「やだね」
「良いの? リョウさんに電話しちゃうよ!」
ーーはぁ。どうしたもんかなー。
誤魔化し目的の沈黙を選んでいると、タイミングよく料理が運ばれてきた。
ヒヤシンス娘がノートパソコンより一回り大きい定食の盆を左手だけで支えている。
「魚定食の方」
「私、です」
声は相変わらず冷ややかだが、丹頂鶴娘の前に盆を置く動作はとても丁寧だった。
運ばれてきた魚定食からいい薫りが湧き立つ。丹頂鶴娘は自分が予想していたより遥かに豪華な定食を前に嬉しそうに目を輝かせている。だが、
「今日の魚、鯛」
「え」
ヒヤシンス娘がメイン食材の説明を始めた瞬間、ぴき、と硬直した。
「鯛の炊き込みご飯、刺身、あら汁、煮付け。あと唐揚げはサービスで増量してるって。まぁ余りなんだけど」
ヒヤシンス娘が淀みなく説明していく料理の数々は、大の男でも充分腹を太らせられるだけの量があった。その全てが鯛をふんだんに使われていて、まさしく鯛づくし定食。
「コロッケはもうすぐ揚がるから。じゃ、ごゆっく……」
「ちょっっっと、待って!」
丹頂鶴娘の悲鳴に近い声に、他の客が何事かと目を向けてくる。
「こ、これ……。全部で、いくら?」
本日の魚定食。実はこれ、値段が書かれていない。そりゃ毎朝獲れる魚をおっちゃんが仕入れてきているのだ。種類も数も違う。定額など提示できない。つまりは時価。それも今回は魚の王様とも呼べる鯛をふんだんにあしらった定食が、時価。
硬直から震えに変わった丹頂鶴娘の隣で、望も顔を青くしている。まさかこれほど豪華なものが出てくるとは思っていなかったのだろう。果たして高校生に払える値段なのか。
「あぁ、900円」
怯える二人に対して、ヒヤシンス娘がさらりと言った。
「この鯛、傷がついてるとか小さ過ぎるとかで市場に出せないヤツだから。それでもウチじゃ高い方だけど」
ぽかんとしている女子二人が可笑しくて、俺はくつくつ笑ってしまう。
「安心しろよ。この店とにかく安いから。そうじゃなきゃ毎日のように食べに来れるわけないだろ」
一品料理とかなら500円以内で食べれる。この店の客入りが異常に良い一つの理由だ。
「ま、次からはちゃんと値段見て決めた方がいい。田舎もん丸出しだからな」
ヒヤシンス娘はとっとと次の仕事に移っている。その無関心な姿勢が、ビクビクしていた二人があまりにも間抜けだったことを教えてくれる。
「よ、よかった〜。鯛って聞いた瞬間、鳥肌立っちゃた」
「私もコウちゃんに奢らないといけないから、ホントに心配になっちゃったよ」
恥ずかしさよりも安心が勝ったらしく、女子高生二人は安堵して胸を撫で下ろす。見るからに悪くなっていた顔色が元の健康的な色に戻ってきている。望と丹頂鶴娘が定食をスマフォで撮影している間に、おばちゃんがコロッケ定食を持ってきてくれた。これまたデカいコロッケが三つ、大皿に盛りつけられている。
「これで全部だね。じゃ、ゆっくり食べてってね」
「はい」
「ありがとうございます。いただきます」
ーーいただきます。
俺も手を合わせ小声で言う。これはもう癖だった。習性と言い換えても良いだろう。中学高校と体育会系だった俺が叩き込まれたのは、飯への態度だ。出されたものは全て食べる、卓や皿を汚さない、そして腹がいっぱいになってからが勝負。身体をデカくするにはひたすら食べなくてはならないから、遠征などでは吐く手前ギリギリまで食わされた。
ーー食え。食うことも練習だ!
黒い箸を一番でかいコロッケに突き刺す。
「ねぇコウちゃん。コーチのこと、そんなに嫌なの?」
すると、特大コロッケをかじる望が悲しそうな目と声で訴えてきた。食うか会話するかどっちかにしろ。
「嫌だな。ここ最近サッカーの匂い嗅いだせいで気分悪いんだよ。俺にとっちゃピッチもグラウンドも有毒ガスみたいなもんだ」
「それがコウちゃんのまだサッカーしたいって気持ちを邪魔してるやつなんだね。やっぱり心的問題だよね」
「サッカーがしたいなんて前提があるかどうかも怪しいがな。俺が選手としてピッチに立つことなんてもう無いし」
俺は俺が持つ心的問題とやらの正体をとうに知っている。ぐちゅぐちゅと毒虫が身を捩り絡みつくかのような音。それこそが俺の心的問題だ。其奴らに大騒ぎされると大変なことになるのがわかりきっているから、思い知らされたから、俺はサッカーに関わらない。
「あの。でも一昨日は私たちを助けてくれました」
「ありゃ君らが上手くやっただけだ。自分らのウィークポイントとストロングポイントを理解できれば、あれくらいの相手なら勝ちを取りにいける。つまり俺は必要ない」
あの日俺が女子高生たちに何かしてやれたとかと言うと、そんなことは一つもない。だから俺がコーチに就任したとしても、こいつらが欲しているようなことはしてやれない。上手くなりたい、強くなりたい。そう強く願って進もうとしている彼女たちに、俺のような敗北者が何を伝えられるというのか。
「俺はやらない。てかやっても仕方ない。多少の指導ができる人なんて、探せば他にいくらでもいるさ」
それこそワクワク公園で試合しているおっちゃんたちに頼ればいい。経験を伝えるという意味では俺よりも優れている。
「……はぐ」
じとっとした目付きで、望は俺を睨んでいる。コロッケを食いながら。俺に言いたいことが山ほどあるが、コロッケが美味しくてそれどころじゃない、って顔だ。これなら今日のところは切り抜けれるか。そう思った。
「その、私……」
だが、丹頂鶴娘がぱちりと箸を置いた。
「私……昔から背が高くて、ずっとセンターバックしかさせてもらえなかったんです」
「……」
「人数少なくてディフェンス希望の子がいないのもあったんですけど、私はディ……」
「おい」
俯いたままの丹頂鶴娘は徐々に感情を露わにしていく。それを途中で遮った。
温かい味噌汁が美味い。せっかくのこんなに美味い飯なのに、いちいち引っかかるせいでやりにくい。
「君は望と同級生だろ。その望が普通に話してるんだ。君だけ敬語使ってるのはおかしい」
「……え。あ、でも……」
「ちゃんとした人間に敬語使われると虚しくなる。俺がやりにくい。それで、続きは?」
この話は終わったと言って、中断させた話を元に戻す。
「わ、たし。……ミッドフィルダー、ボランチがやりたかった。何度もそう監督に言ったけど、全然やらせてもらえなくて、小学校でも、中学でも」
味噌汁を飲みながら聞く。よくある話だ。年少サッカーでは、運動神経が良い子、上手な子を中盤より前でプレーさせる。そういう子たちがたくさんボールに関わることが、一番勝ちやすいから。子供の五年後、十年後を見据えられる指導者は少なく、その時々の都合で子供を配置し、将来性を鑑みることもない。だから、鈍臭い子や下手な子がキーパーやディフェンダーに回されることになり、更に選手間の差が広がっていく。悪い意味での適材適所。
ユースチームや、スポ少でも全国大会に出場するようなチームは違うが、指導者や子供が少ない田舎ではそういう悪循環が当然のように蔓延っている。それは日本サッカーの大きな課題であり、損失だ。才能のある子が人知れず辞めていく。
丹頂鶴娘もこの悪習の被害者だったらしい。この長身が活きるのは間違いなくセンターバックだろう。空中戦でのアドバンテージは試合展開に大きく関わる。そして反対に、田舎の年少サッカーのレベルでパスサッカーをするのは難しいから、適当にロングボールを蹴る方が効率的だ。ならばキックが上手い丹頂鶴娘にわざわざミッドフィルダーをさせる意味もない。
「ずっとずっとやりたくて、パスさえ上手くなればボランチやらせてもらえると思って必死に練習したけど、最後までセンターバックだった。ユリと二人で」
ユリとはタヌキ娘だ。あの低身長でセンターバックを張れていたのはタヌキ娘の実力がズバ抜けていたからだろう。ハンデがあってもポジションを確保している者が隣にいたことは、丹頂鶴娘をより苦しめたに違いない。
「だから……だから私、あの試合で、私の身長じゃなく、プレーを見てくれたことがとても嬉しかった。あなたなら、私のことをちゃんと見てくれる気がして、あなたに、教わりたいと思った。私のコーチになって欲しいって本気で思った。うぅん、思ってる。だから、図々しいのは百も承知で、それでも、お願いします」
前髪で顔が見えなくなるほどのお辞儀だった。
「私たちのコーチになって欲しいんです。お願いします。私のプレーを……これからも見て欲しいんです」
真摯な姿勢と、縋るような声が俺に向けられる。そんな姿を見ながら、俺は丹頂鶴娘が哀れに思えて仕方なかった。
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