定食屋「ことりちゃん」
春うららかな土曜日である。大学生は曜日と生活の繋がりが希薄になりがちだ。講義のコマによっては平日でも休みの場合があるし、土日でも出勤しなくちゃいけない時もある。だが俺のような腐れ大学生は講義にすらあまりいかないから、本格的に曜日感覚がずれ始める。この感覚は普通の学生や社会人には理解できないだろう。理解できないでいい。理解した瞬間に人としての純度が落ちる。
そう言うわけで、俺はいつものように昼近くになって起き出した。開けっ放しのカーテンは日光を遮ってはいなかったが、俺が起床した理由は空腹だ。日光は人間の肉体や脳を目覚めさせる働きがあるそうだが、俺はその辺も麻痺してきている。朝夕なく四六時中眠い。
腹が減った。だが部屋に食い物はない。俺は自炊をしないし、コンビニ弁当は好きではない。そもそも田舎だからコンビニが近くにない。自宅から7キロ以上離れているコンビニなどコンビニエンスとは呼びたくない。だから俺は基本的には外で飯を食べる。徒歩五分のところに安くて美味い大衆食堂があるからだ。いつも賑わっている店だから絶対に潰れることはないだろうが、もし何らかの理由で店が閉まることがあれば、多分俺も一緒に死ぬ。それほどまでに俺の食生活は店に依存していた。目覚めの一服を吸ってジーンズとTシャツに着替える。重みの代わりにチャラチャラと薄っぺらい金属音をさせる財布とケータイを尻ポケットに押し込み、アパートを出た。鉄錆の音を踏み鳴らしながら階段を降りると、
「あ」
「あ」
「あ……」
私服姿の望と丹頂鶴娘に出くわした。二人ともおしゃれと言うほどではないが、女子高生らしい健全で清潔感のある格好をしている。まぁ、学校外の女子と会う機会なんてほぼゼロに等しい俺だ。女子の服装なんてスカートかそれ以外かくらいしか見分けがつかない。だから二人ともスカートではないこと以外の特徴を認識できなかった。やたらと二人の身長差だけが目につき、最初は若いカップルかと思ったくらいだ。
「ふぅ。良かった。コウちゃん生きてたんだね」
「勝手に殺すな。昨日今日で死んだりしねぇよ」
望は安心半分、揶揄い半分で笑ったが、すぐに唇を尖らせた。
「だったらメール返してよ」
暗に三日も続けて会いに来るなと言ったつもりだったが、伝わっていない。
「女子高生になったからって浮かれてんのか? ちゃんとベンキョーしろベンキョー」
「コウちゃんにだけは言われたくない」
「ざーんねん。俺はずっと中の上の成績取ってましたー」
「私だってそれくらいだもーん」
「あ、あのぅ……」
俺と望が鈍い火花を散らし始める中、丹頂鶴娘が気まずそうに声をかけてきた。彼女が顎を引いているおかげで目線は同じ高さだ。何を言いたいかはおおよそ予想がつく。丹頂鶴娘が大事そうに持っている紺色の風呂敷包みが雄弁に語っている。
「はぁ……。まぁ、立ち話もなんだ」
「部屋に上げてくれるの?」
「ヤダね。俺はよほど仲良い奴じゃないと部屋に入らせない」
望は侵入してきたから別口だ。丹頂鶴娘がピンと伸びていた背筋を丸めてしまった。大人気ないとは思うが、下手に出てるとよくないということは経験済みだ。
「立ち話もなんだから、お前らもう帰れ。俺は飯食いにいく途中なんだよ」
「じゃあ、私たちも連れてってよ。綾ちゃん、ご飯まだだよね?」
「そ、そうだけど……」
「こら、丹頂鶴娘を見ろ。恐縮して縮こまってるじゃねぇか。悪いことは言わんから帰れ。俺は話聞く気なんかないぞ」
「お昼くらい奢ってあげるよ。実家の手伝いしてお小遣いもらってるから」
「しゃーねぇな。話聞くだけだぞ」
「変わり身はっや」
「金がねぇんだよ」
バイトなんかしてないから、仕送りだけで生きている。自慢じゃないが、ここ一年は最低限の飯と生活用品しか買い物していない。あとはタバコ。それでもかなりカツカツだ。
「で、どこ行くの?」
「すぐそこだ。ことりちゃんって定食屋があるんだよ」
俺の行きつけ。中年夫婦が経営してる小さな店で、おばちゃんには顔も名前も覚えられている。下手したら住所まで知られている。
「それでね。やっぱりコウちゃんにコーチになって欲しいんだよ」
「立ち話もなんだって言ったのもう忘れたのか」
「歩きながらだからいいでしょ」
くそ。図太い。望曰く、彼女たち女子サッカー部は俺をコーチとして迎え入れることを決めたらしい。俺の意思を無視して勝手に決めるなと言いたい。そして今日は俺が起き出す時間帯を狙って交渉(笑)に来たというわけだ。ご丁寧に菓子折持参で。丹頂鶴娘は望の援軍と他の部員の代表ということらしい。まぁこの子は常識人っぽいし、頭も賢そうだから、鷹娘やフラミンゴ娘に来られるかよりは多少マシだ。
その後も望の口撃をのらりくらり躱しながら歩く。丹頂鶴娘は俺たちの後ろを居心地悪そうに付いてきている。望にしては珍しく、丹頂鶴娘への気配りを忘れている。相当熱が入っているらしい。
「おら。着いたぞ。ちょっと静かにしてろ」
「あ、うん。なんか普通のお店だね。がっかり」
「当たり前だろうが。どんな想像してたんだ」
大きい道(一車線)に入る手前の交差点にある定食屋「ことりちゃん」。赤い暖簾に黄色い文字で店名が書かれているが、それ以外は看板の類はないため、外から来た人が利用することは少ないだろう。地元に根付いた古き良き大衆食堂の薫りをさせている。
「いらっしゃい。あら」
「こんちわ」
暖簾をくぐると、恰幅の良い四十代くらいのおばちゃんが明るく出迎えてくれた。俺の顔を見るとすぐにころっと笑顔になる。日本人の「おかん」のイメージそのものみたいな女性だ。
「珍しいね。コウちゃんがそんな若い子連れてくるなんて」
「従姉妹とその友達です」
「はぇ〜。なんだ、彼女さんかと思ったよ」
「二人いるのはおかしいでしょ」
「わからないよ〜。最近の子は私らとは違うからね」
おっしゃる通りだが、それが俺に当てはまることはないだろう。一応彼女なんてものを夢見てた時期もあるにはあったが、今じゃ都市伝説より縁遠い。
「初めまして。私コウちゃんの従姉妹の八尾望って言います。それで、こっちは友達の遠藤綾ちゃんです」
「あらあら。こりゃご丁寧にありがとう。明るくて礼儀正しくて良い子だね。ウチのとは大違いだよ」
望が早速コミュニティを広げようと人好きのする笑顔で会話を始めた。ここが侵食されるとちとヤバい。
ーー連れて来たのは間違いだったかなぁ。
三つある四人がけテーブルの一番奥に座る。厨房で調理に勤しんでいる店主のおっちゃんに背中を向ける形だ。この店は入って右側にカウンターと繋がっている厨房があり、左側に複数がけの席が三つある。厨房の出入りは店の奥で、トイレもそこにある。
「ここ、良いですか?」
「あぁ」
おばちゃんとの会話は望に任せて、丹頂鶴娘が俺の向かいに座った。さっきから不必要なくらい萎縮しているので、流石に可哀想だ。ちょっとでも肩の力を抜いてもらおうと思って、メニューを渡す。
「ここは何でも美味い。好きなの食べな」
「は、はい」
「そんな硬くならんでも」
笑ってしまった。俺みたいなのにこんなガチガチになってたら、これから苦労する。
「よいしょ。コウちゃん知ってた?
名残惜しそうに会話を切り上げた望が丹頂鶴娘の隣に着席した。本当にコミュ力が高い。栄はおばちゃんの名前だが、桜峰出身なのは知らなかった。二年通っている俺ですら知らない情報を早くも掴んでいる。
「何にしよっかなー。綾ちゃんは?」
「私は……。この、本日の魚定食って何かな」
「それはおっちゃんが朝市場で仕入れてきた魚を使ったやつだ。数に限りはあるが、その分美味いぞ」
「へ、へぇ。じゃあこれにしよっかな」
「私、は。うーん。コロッケ定食を……」
望が俺と同じものを選ぼうとした時、
「いらっしゃい」
若い女の店員がお冷やを三つ持ってきた。
「ご注文は」
そして、お冷やよりも冷え冷えとした低い声で注文を取ろうとする。すると、
「あ」
「え?」
「ん?」
声に反応した望が驚いた素振りではっと顔をあげ、それに丹頂鶴娘もつられた。二人の視線は、注文を聞きにきてくれた女の子に向けられていた。
「た、小鳥遊さん?」
俺も女の子の方に目をやる。いつも働いているバイトの子だった。
「わぁ、ぐーぜん! 小鳥遊さんここでバイトしてるんだ!」
「八尾さん……と、だれ?」
「あ、遠藤綾です。望と同じサッカー部」
「あぁ、うん」
小鳥遊さんと呼ばれた女の子は、驚いた様子もなければ、嬉しそうでもない。非常に淡々としている。望だけが楽しそうにはしゃいでいた。
「全然知らなかった。あれ、でもうちの高校バイト禁止じゃ……」
「許可もらってる。あと、ここ私の実家」
「へぇー! そうだったんだ! 全然知らなかった……!」」
確かにこの子は大体いつも働いている。なるほど実家の手伝いか。これも二年以上通っていて初めて知ったことだ。
「注文いい?」
「……あ、う、うん!」
これから望が会話を広げようとしたタイミングで、女の子が店員に戻った。いや、この子は最初から店員の立場に徹していたのだろう。
「あ、えっと。本日の魚定食って残ってますか」
「ラスいち」
「じゃ、じゃあそれと」
「私はコロッケ定食……」
「を、二つお願いします」
お冷やに口をつけながらVサインする。ヴィクトリーではない。二つの意味だ。
「魚一つとコロッケ二つ。じゃ、お冷やのおかわりはセルフなんで」
「あ、はーい」
伝票に素早くメモした小鳥遊さんとやらは、最後に店の奥を手で示して厨房に戻っていった。店主、彼女にとっては父親に注文を伝えている。
「ねぇねぇ。なんかちょっと意外だね」
「うん。そだね」
望と丹頂鶴娘が真顔で頷きあう。
「知り合いか?」
「私のクラスメイト」
「ふーん」
つまりあの子も高校一年生か。
「コウちゃんもしかして〜。小鳥遊さん目当てで来てるんじゃない?」
「は?」
望がにやにやしている。
「だって小鳥遊さんすっごい美人でしょ。学校でも有名なんだから」
「なんだ。もしかしてお前らイジメてるのか」
「なわけないじゃん失礼な。むしろ神格化されてるよ」
そんなもんか。女子校って女のジメジメした部分の集合体だと思っていた。容姿の優れている子は無条件で標的にされる、みたいな。
「美人、ね。言われてみたらそうだな」
「白々し〜」
「本当だよ」
望のクラスメイトは、カウンターに座るスーツ姿の男性客に注文を聞いている。その横顔は相変わらず無表情だった。それでも。
「確かに好ましいの間違いないけどな」
「やっぱりー」
「多分お前が思ってるような理由じゃないぞ」
俺はあの小鳥遊という娘が機械的であるところに好感を持っている。客との会話は必要最小で、声の調子も常にフラットだ。客に商品を提供する以外は一切干渉しようとしない姿勢は、俺みたいな一人客にとって気が楽だ。仕事も早いし。飯を食べるという定食屋の意義を最大限に発揮させていると思う。
ーーよく見たら綺麗な顔してるのも事実だけど。
心の中で思ったが、望に変な勘繰りされるのも面倒くさい。口にはしないでおく。
「でも本当に意外。小鳥遊さんって孤高なイメージだから、接客業してるとこなんて想像もしなかった。実はクラスじゃ友達と喋ったりしてるの?」
「うぅん。自分から誰かに話しかけるとこは見たことないかな。私隣の席だけど、今日が一番長く喋ったよ。でも、いつもすぐ帰っちゃうのって、実家の手伝いしてたんだね」
「なんか印象変わった」
「だね」
どうやらあの子は学校でもあのまんまらしい。姦しい女子校で一人無言で過ごしている様子を想像してみると、なんだか非常にしっくり来た。
すると、ツナギを着た二人組みのおっちゃんが入ってきた。小鳥遊さんはカウンターに並んで座った彼らにお冷やを運んでいる。俺はこの二人組みのおっちゃんを何度も見かけたことがある。おっちゃん二人はメニューを見ることなく注文し、彼女も頷くだけで受けた。常連客が何を食べるかなんて言われなくてもわかっているのだろう。
「なんかさ、ヒヤシンスみたいだよね」
丹頂鶴娘がため息混じりに呟いた。高校生ばなれした雰囲気を持つ同級生のことを言っているのだろう。
小鳥遊さんは少し茶色がかったセミロングの髪を一つに結い、肩先に垂らしている。ジーパンとTシャツに、店の黄色いエプロンをつけただけのシンプルな服装だが、それでも芯の通った美しさがあった。
「うん。私は白のイメージかなぁ」
「やっぱり?」
ヒヤシンス。俺はてんで知らないが、多分あの子に似合う美しい花なのだろう。
「じゃ、ヒヤシンス娘だな」
呼ぶこともないだろうが、一応呼び名をつけておく。
「あのさぁ、コウちゃん。人に動物由来のあだ名つけるのいいかげんやめなよ」
「ヒヤシンスは花なんだろ」
顔を覚えるのにはそれが一番早い。
ーーでも花の名前使うのは久しぶりだな。
もう一度お冷やを口に含む。俺が動物以外の名前を使う相手は、だいたい天才だったから。
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