二人の高架下



 俺が思い描いたゲームプランは、後半開始一分で崩壊した。


 南条ボールで始まった後半。南条は後ろの三人でボール回しを始めた。するとその三本目の横パスを、いきなり鷹娘がインターセプトしてしまった。南条の選手はまだ心が試合に入りきれておらず、パスが緩くなった。そこにたまたま鷹娘がいただけで、決して狙っていたわけではないだろう。だが、そこからの鷹娘のプレーは常人のそれとは掛け離れていた。ボールを奪ったツータッチ目で、いきなりシュートを放ったのだ。思い切りの良すぎるシュートは油断していたキーパーの膝横を通り抜け、ゴールネットを派手に揺らした。


「入っちゃった……」


 ゴールまでの距離はあったし、すぐ近くにディフェンスもいたから、決してビッグチャンスというわけではなかった。だが鷹娘の一瞬の判断が値千金の先制点に繋がった。前半のヒリヒリするような戦いからはまるで想像できない、取った方も取られた方も、反応が一瞬遅れるようなゴールだ。


「な、ナイッシュー!」


「やりましたね〜!」


「う、うん……! よ、よし!」


 シュートを打った鷹娘本人が一番驚いている。確かにシュート自体はプロが打つような地を這う弾道の素晴らしいものだった。だが、様子を見る限りイメージしてやったプレーではなく、ただ勢いで生まれただけのものらしい。


 ーーまぁ、あの一瞬でシュートの判断ができるってのはストライカーの証拠だな。


 何とも言えない苦笑いが浮かんでくる。そこは絶対シュートじゃないだろって場面で打つ連中というのはいる。その成功率は才能に左右されるが、そういう奴らは得てして土壇場に強い。思考よりも感覚を優先することで生まれる躊躇のなさは、一瞬の攻防における武器だ。

 ちょっとぎこちなくハイタッチをかわす鷹娘は、才能の種くらいはあるようだ。


 ここまでが後半開始三十秒の出来事。再び南条ボールでの試合再開。流石に南条側も実感が湧いてきたのだろう。見るからにパスが速くなった。だが、それは彼女たちの技術をオーバーした速度だったらしく、荒れたパスは簡単にタヌキ娘にカットされた。即座に攻守が交代する。南条とは打って変わって落ち着いてパスを回す女子高生たち。前半とは違い、二・二のフォーメーションだ。予想通り南条も同じフォーメーションで迎え撃つ。

 タヌキ娘から丹頂鶴娘に横パスが通る。それに合わせて中央のスペースに鷹娘がスライドしてきた。


 俺は初手では仕掛けるな、と言った。だが、鷹娘の動きに南条の選手たちが面白いように釣られた。


「ギャップ!」


 南条の選手が声を出す。ギャップとはディフェンス二人の間のパスコースのこと。ここで言うギャップは、丹頂鶴娘から鷹娘への斜めパスを出させるな、ということだ。丹頂鶴娘にプレッシャーをかけていたディフェンスが中側のコースを塞いできた。おかげで縦のスペースが大きく空く。


「リュウっ!」


 そこを丹頂鶴娘は見逃さなかった。いくら初手でやるなとは言われていても、ここまで美味しい状況を使わない手はない。左足のキックフェイントで右足にボールを持ち替え、素早く縦にスルーパスを出した。どうやら同じことを考えていたらしい鷹娘たちも、俺が伝えたパターン通りの動きをする。

 内回転がかかった丹頂鶴娘のスルーパスは、ペナルティーエリアのギリギリ外で鷹娘が追いつく絶妙の速度で通った。注文以上の精度のパスを前向きでコントロールした鷹娘はそのままシュートを打つ。ふりをしてバックパス。後ろにいたディフェンスが足を伸ばしてきていたのをよく見ていた。そこにはどフリーでコーギー娘が待ち構えており、トラップもドリブルもすることなくダイレクトで逆のサイドネットにシュートした。


「二点目っ!」


 望がバンザイして喜ぶ。完璧に決まった。即席のパターンがここまで完璧に成功するなんて奇跡だ。女子高生たちも今度は手放しで喜んでいる。大人しそうなコーギー娘が小さくガッツポーズをして、その後ほんのりと照れていた。

 後半開始一分で、二点目。しかも二点目は狙い通りのプレーで奪ったゴールだった。


「おいおい……」


 嬉しい誤算だが、上手くいきすぎな気がする。それに時間はまだまだある。一分で二点取れるのだから、九分間もあれば逆転されてもおかしくはない。


 腕組みをした指で肘を何度も叩く。小さな音がトントンと頭の中で響いている。失点によってゲームプランが崩れたわけではないから、それほど心配する必要はないのかもしれない。だが、二点リードというのははっきり言って怖かった。メンタル的には二点差が一番逆転されやすいと言われている。リードした側は二点あればセーフティだと思って気が緩みがちになるが、もし一点を返されると途端に一点差である。一点差なら追いかける側に希望が生まれるし、一点を返せたのだから追加点だって夢じゃない。そして同点に追いつかれでもしたら、勢いでは完全に逆転だ。

 攻め込まれていた前半よりもリードした後半の方が落ち着かなくなるなんて、自分でもおかしな気分だ。そして、まるで思い通りになってくれないサッカーというものに嫌気がさす。ピッチの中でも外でも、俺が手綱を握れることはないらしい。


「望。とりあえずは予定通り攻めさせろ。この状況で受けに回るのはよくない」


 ここでチームの方針をはっきりさせておく必要がある。南条は総力を挙げて攻め込んでくるだろうから、勢いをつけさせてはダメだ。それに対応するためには選手の意思統一が絶対条件だった。


「それには私も賛成だけど、何で自分で言わないの? コーチなんだからコウちゃんが言いなよ」


「勝手に就任させるな。今日はちょっと横から口出ししただけだ」


「往生際が悪いなぁ。楽しそうに話してたじゃん」


 全身に不快な鳥肌が立ち、顔が強張る。


 楽しそう? 俺が? こんな、何一つ言うことを聞いてくれない、正体すら掴めない妖怪みたいなものを? サッカーを楽しいと思っていられたのなんて、もう記憶の遥か底だ。こんなもの、俺には拷問みたいなもののはずで……


 昏い思考に囚われたその時、鷹娘がパスカットしたボールが俺の胸めがけて飛んできた。中途半端に浮かんだボールに、俺の手は反応しなかった。


 ーーえ。


 自然に肩の力を緩める。足を上下に開いて、後ろ足に体重をかけて身体を引く。トス、という小さな音をさせて、ボールが胸に当たり、しっかりと一番蹴りやすい場所へと落ちていった。それを、駆け寄ってくる南条の選手の胸元に蹴り返した。


「どうも」


 南条の選手は軽く会釈をしてピッチへと戻っていった。ほんの少し動いただけなのに、慣れないネクタイはねじれてしまった。


「ほら」


 言葉を見失っている俺を、望は悪戯っ子のような顔で笑った。


「やっぱりコウちゃんは、サッカー人だよ」


「……なんだそりゃ」


 先程よりも強い寒気が走る。どうしても、何を置いてもタバコが吸いたくなった。俺はポケットをまさぐって、箱もライターもないことに気づく。


「丹頂鶴娘に、リスクマネジメントだけはしっかりしろって言っておけ」


「え? コウちゃん? ちょっと、どこ行くの!?」


「コンビニ」


 財布はある。確か病院の向かいにコンビニがあったはずだ。


「すぐ帰ってくる」


 そう嘘をついた俺は、ワクワク公園から逃げ出した。正確には、あのフットサルコートから。そして、そこで戦う選手たち、何よりサッカーボールに背を向けた。これ以上あそこにいると、意味もなく叫んでしまいそうだった。














 タバコとライターを買った俺は、病院からアパートまでの道を歩いて帰っていた。何となくイメージしていたよりもずっと遠くて、途中から何をしているんだという思いに襲われている。五本目のタバコをビニール袋に捨てた。歩きながらチビチビ吸っていたら、いつも以上に多くなってしまった。禁煙こそしないものの、最近は吸う本数を減らしていたのだが、昨日今日で全部ぱぁになってしまった。

 道すがらラーメン屋を見つけたので晩飯を済ませ、少し休憩してからまた歩く。いつも俺が通っている行きつけの定食屋があるのだが、そこの炒飯の方がずっと美味かった。そう言えば昨日も今日も行っていない。自炊をしない俺はほぼ毎日そこで飯を食っているから、二日連続で行かないなんて初めてのことだった。


 ワクワク公園を出て一時間以上経って、やっとアパート近くの川にまで帰ってこれた。川と言ってもワクワク公園脇にあるような小さな川ではなく、河川敷に公園やグラウンドがあったりする大きなものだ。二車線通行の橋を渡り始めようとした時、橋の下に見覚えのある背中が入っていくのを見つけた。

 よせばいいのに、そう思いながらも、俺は河川敷に下りて行ってしまった。だが、試合は勝てたのだろうか、なんてずっと考えている方が嫌だった。


 ーー結構明るいな。だからか。


 橋の下には何故か小さな電灯があり、橋脚をぼんやり照らしていた。ワクワク公園ほどではないが、ちょっと運動するくらいは可能な明るさがある。

 ばん、と軽い音がして、また数秒空いたのちに同じような音が響く。それが何度も繰り返されていた。俺が近くまで下りていくと、音の主も気がついたようだ。一度冷たい目でこちらを見てから、何事もなかったかのように無視をした。


「壁打ちか」


 しばらくタバコを吸いながら眺めていたが、俺から話しかけた。


「なに」


 壁打ちをしていた鷹娘は、不機嫌な声で返事をする。

 ボールを壁に向かって蹴り、跳ね返ってきたところをトラップ。トラップの仕方を変えたり、蹴る足を変えたり、本人なりに色々と工夫をしながら、「練習」をしていた。


「もう九時近いぞ。帰らなくていいのか」


「あなたに心配される謂れはないわ」


「それもそうか」


 鷹娘がボールを蹴る。どうやら同じところを狙っているらしい。丁度小さなヒビが斜めにクロスしたところに、黒いボールの跡ができていた。つい最近始めてついた跡ではないだろう。

 強いボールを蹴れば、強いボールが返ってくる。鷹娘は速いパスのトラップが苦手だから、必死に練習している。返ってくるボールに近づきながら、足元でしっかりと止めようとしている。それを愚直に何度も繰り返していた。


「ちょっと」


 軽く息が上がっている鷹娘が、苛立たしげな声を出した。


「タバコ、吸わないでくれる? その匂い嫌いなの」


 かなり距離はあったと思うが、匂いは届いていたらしい。俺は肩をすくめてタバコをコンクリに押し付けた。別に言う通りにしなくても良かったが、反抗する理由もない。手が寂しくなったから、おもむろにスマフォを取り出す。そこには、どうやって俺のアドレスを知ったのか、望からメールが届いていた。


 ーー試合は3ー0で勝ちました。


「あの後も一点取ったのか」


「あんが二人抜いてシュート決めたの」


「ふぅん」


 つまり、俺のアドバイスなど最初から必要なかったということだ。

 さっきから絶対に俺の方を見ない鷹娘は、どんどんキックを強くしている。まるで壁際に誰か大嫌いな人間が立っているかのように。そして、速くなっていくボールに対応できず、トラップを細かくミスしている。右足で蹴りたいのに左側に転がったり、足元に止めすぎてつんのめったり。本当にトラップが苦手らしい。そして残念ながら、トラップが下手だということは、サッカーそのものが下手なのだ。


 その時、今までで一番強く蹴ったボールが大きく的を外れて跳ね返った。それは奇しくも俺の足元に迫る。俺はそれを座ったままぴたりと止めた。止めてしまった。

 ボールを止めたまま聞く。


「……返してって言わないのか?」


「あなたからのパスなんて欲しくない」


「冷たいな」


 パスが欲しくないなんて言われたのは初めてだった。俺の周囲には、ボールを触りたくてたまらない奴ばかりだったから。


「……どうして、今更戻ってきたのよ」


「何?」


 話しかけられていると気付くのに少し時間がかかるほど、小さな声だった。


「私、あなたのことが嫌いなの」


「見てりゃわかる。別に構わん。その分俺は俺のこと好きだから」


 自分を否定できるほどのエネルギーなんて残っていない。高校時代に絞りつくして、置き忘れてきたものだ。それに、わざわざ俺が俺を嫌う必要などない。そんなことは勝手に周りがやってくれるからだ。

 ボールを返してくれと言わない少女は、とても孤独に見えた。電灯の下でポニーテールが揺れている。


「今日、私たちを見てどう思った?」


「そんなこと嫌いな人間から聞いてどうするよ」


「いいから」


 強い声で言われて、俺は彼女たちのプレーを思い出す。足裏でボールを転がした。砂利の感触がボールから伝わってくるのがわかる。

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