あの頃の自分
俺の予測が甘かったことは認めよう。二日続けて練習見学に引っ張り出されることはあるまいと、特に根拠もなく考えていたことはまさしく痛恨の極みだ。女子高生たちの部活の時間帯に合わせて漫画喫茶にでも行っていれば良かった。軽く二時間くらい好きな漫画を読みつつ望の襲撃をやり過ごす。この程度の計画を立てることはなんら難しくなかったはずだ。
だが。だが、である。突如として施錠済みの俺の部屋に侵入し、健気に読書をしていた俺に腹パンを食らわせたのは流石にやり過ぎだろう。十秒足らずで俺を捕獲してみせた望は、実は某国の特殊部隊所属ではないだろうか。哀れ気を失った俺が次に目を覚ましたのは、すでにワクワク公園に向けてハンドルを切るバスの中だった。そして更に恐ろしいことに、Tシャツとハーフパンツのラフな部屋着姿だった俺は、アイロンのびっしりかかったスーツに着替えさせられていた。大学入学時に買ってもらって以来一度も出番のなかったスーツがどこにあったのかは、持ち主である俺でさえも知らないというのに。
「なぁ望。お前実は女子高じゃなくてグリーンベレーに所属してるんじゃないか? お兄ちゃん怒らないから正直に言ってみ?」
「皆んなのコウちゃんへの印象は微妙なとこなんだ。だから今日はビシッと決めてよね」
「そんな話はしていない。お前の戦闘力の根源を聞いてるんだ」
「あと、明日からは普通に学校で練習だからそのつもりでいてね」
「お兄ちゃんと会話しようぜ。なぁ。頼むから」
従姉妹同士の再会は三年ぶりなんだ。話したいことたくさんあるだろ。なんで無視するの。そして俺の話は聞こうとしないのに、部員集めは難航しているだとか、人数不足のせいでできる練習が少ないとか、今日は南条大学の女子フットサル部と試合をするのだとか、一方的に話された。望は話し上手だから、さして興味もないそれらの内容をみっちりと頭に押し込まれてしまった。県立病院前のバス停に着く頃には、南条大学フットサル部、「南条GFC」が女子高生相手に小狡いことをしていることまで理解させられていた。
ーー勝ってギャフンと言わせたいの。
望の表情を見て、俺は鷹娘を思い出していた。生え際の後退したおじさんがたじろぐほど強硬に使用料を払うと言っていたのは、南条GFCの件があったからかもしれない。小狡さの食い物にされてなお誠実であろうとする少女は、きっと息をし辛い人生になる。そして、俺はそんな姿を美しいとも素晴らしいとも思えないくらいには、世の中に毒されていた。
「七時から十分ハーフのラストゲームをするの」
「じゃあ今は何やってんだ?」
「試合」
「……」
まぁ、わざわざコートを借りてパス練やシュート練をするわけもないか。俺は再びワクワク公園にやって来てしまった。昨日と同じ黄色い照明が昼間よりも明るくコートを照らしている。そこでは十人の女子たちが懸命に、そして楽しそうにボールを追いかけていた。見たくもない光景は鮮烈さのかけらもない平凡なものだ。だがそれでも俺には眩しくて、目をそらしたくなった。昨日よりもずっと目を焼いてくる。おそらく、昨日は感覚が鈍っていたのだろう。だから強い実感を持つことがなかった。
「ほら。今日はベンチに座ってもらうからね!」
ボーっとしていると望が袖を引っ張ってきて、フェンスの中に入らされた。俺という新しい参加者に南条GFCのベンチメンバーたちは怪訝そうにしていた。スーツの若い男が女子高生に連れられているのが不思議なのだろう。実際、俺以外に男はいなかったし。
「ん!?」
ピッチの女子高生たちも俺に気づいた。最初はタヌキ娘で、次は丹頂鶴娘。キーパーのフラミンゴ娘が妙な声をあげ、コーギー娘がそれに反応した。最後に気づいたのは鷹娘で、ボールから目を離したせいでトラップをミスした。幸いカウンターにはならなかったが、本人はあまりにくだらないミスに苛立たしげにしている。観戦者にびっくりしてミスるとか、しょうもなさすぎて笑い話にもならない。
女子高生チームは今日は二・二の陣形で、ディフェンスはマンマークだ。対する女子大生チームも同じ陣形、同じディフェンス。女子高生チームは後ろにタヌキ娘と丹頂鶴娘がいて、テンポ良くパスを回している。そしてそこにタイミング良く前の二人が加わることでディフェンスに捕まることを防いでいる。後ろの二人がパスを出して走り、空いたスペースに前の選手が落ちてくる。そうやってボールもポジションもくるくる回していた。特に変わった点のない布陣と戦術と言える。
丹頂鶴娘にボールが渡った瞬間、鷹娘が四人のディフェンスの中央に顔を出した。スペース自体は大きくないが、ピッチの中央からの攻撃は選択肢が多い。丹頂鶴娘もすかさずパスを入れる。コーギー娘が攻撃的なポジションでフォローし、タヌキ娘はカウンターをケアするためにピッチの中ほどにスライドした。
鷹娘はディフェンスを背中に抱えてのトラップだ。相手との距離を取るために足の裏でボールを止める。
ーーもっと腕を使え。
相手から距離を取りたいのなら、ボールをタッチする足と逆の手を使って相手を抑え込む必要がある。それだけで少なくとも二十センチは違う。だが、足に意識を集中している状態で手を使うのはそれなりに難しい。練習で「クセ」にしていないといけない。鷹娘はまだそれができていない。だから、
「くっ!」
相手に足を出される。ボールを奪われはしないが、プレーは制限される。仕方なくサイドにいるコーギー娘にパスした。コーギー娘がフリーというわけではない。ボールを奪われることを回避するためだけのパスだ。到底攻撃とは呼べない。
だが、コーギー娘はある程度の余裕を持って前向きでボールを受けれた。ディフェンスと一対一だ。
コーギー娘は左足でトラップした瞬間、右方向にドリブルするふりをして、一気に右足のインサイドで横にボールをタッチ。相手が伸ばしてきた足では届かない位置でさらに左足でタッチし、相手を抜き去る。ダブルタッチという、基本的だが試合ではよく見られるドリブル技術だ。相手が密集した状態や、体勢が崩れた状態の時に使うと効果を発揮する。右足から左足、もしくは左足から右足にボールを持ち替えるだけの技術であるが、単純だからこそ奥が深い。ボールを動かす幅が小さければ相手にカットされてしまう。また、万全の体勢でいる相手に効果は薄い。その場合は直前にフェイントを入れる必要がある。
だが、相手をかわしたコーギー娘はその次のプレーを考えていなかったらしい。ドリブル好きの選手にはありがちだ。相手を抜くことだけが目的になってしまう。そして実際、コーギー娘はドリブルでかわしてからゴールを見た。ゴールに向かわない攻撃ほど意味のないものもない。カバーに回っていた二人目のディフェンスにピッチの隅へ追いやられてしまった。フットサルのピッチは狭い。追い込まれればどんどんできることが少なくなっていく。結局、フォローしていたタヌキ娘にボールを下げることになった。
タヌキ娘から丹頂鶴娘にボールが戻ってきた。そのトラップに鷹娘のような危なっかしさはなく、ぴたりと止めてみせる。またコーギー娘とは違い、ボールを受ける前から次のプレーの選択肢をいくつか持っているようだった。さっきと同じ場所でボールをもらうために動き直していた鷹娘にパスは、しない。ディフェンスが読んでいて、インターセプトを狙っていたからだ。その辺りもよく見えている。完全にパサーのプレーだ。トラップやパスの正確さから見ても、素質もある。高さのあるボランチは日本ではまだ少ない。男子なら百七十六センチは平均的だが、女子なら十二分に長身だ。それもこんな田舎の弱小。丹頂鶴娘はピッチ上のどの選手と比べても頭一つ分高い。少しばかり夢を見たくなる選手だろう。
ーーま、厳しいけどな。
残念なことに、丹頂鶴娘はドリブルが苦手らしい。ボールタッチそのものは丁寧で柔らかいのだが、いかんせんスピードがない。単純に足が遅い。さらに言えば初速が遅い。瞬間的なスピードがなければドリブルで相手を抜くのは難しい。そしてドリブルのできない選手は、怖さがない。
「あや! 戻して戻して!」
抜かれる心配がないから、ディフェンスは積極的にボールを奪いにいける。パスが得意なのももうバレているせいもあって、丹頂鶴娘がボールを持つとディフェンス全体がパスカットを狙い出す。悪い言い方をすれば、パスしかないのだ。そして、狭いピッチではロングパスが出せない。どんどんどんどん追い詰められていく。
「試合終了です!」
その十分後、試合終了を告げるホイッスルが吹かれた。攻め手を欠いた女子高生チームは無得点。南条GFCも得点こそなかったものの、再三ビッグチャンスを作っていた。タヌキ娘の奮闘と、フラミンゴ娘の三つのファインセーブがなければ四、五点は失っていただろう。
「じゃあ十分休憩したらラストゲームします!」
南条GFCのマネージャーっぽい女子が言った。両チームの選手がそれぞれのベンチに帰ってくる。その全員がじろじろと俺を見ていた。誰がどう見ても俺は場違いなのだ。
「望、どないしたんその人」
「何かあったんですか〜?」
大人なんだから何かなくてもスーツくらい着るだろうが、俺が着ているのはおかしいと思われていた。
「うん。リクルートっぽくビシッとして欲しかったんだけど、なんか変なお店の客引きみたいになっちゃったよ。ごめんね」
そしてこの言い分である。しかも最後の謝罪は俺に向けられたものだった。憐れまれてしまった。女子高生たちも妙に納得した風だ。
ーーしょうがないよ。望は悪くないよ。
非常に失礼な態度だが、怒る気にもならなかった。ここで怒ってしまえば極大のブーメランを食らってしまう。だから俺は女子高生たちにさっさとベンチに座るよう目で促した。もちろん俺はベンチのそばに立っている。二人がけのベンチ二つに、細身の女子高生五人はスペースを余らせて座れた。その辺りを見ても選手としては論外である。
「それでコウちゃん、今から最後の試合なんだけど……」
望がそう言いかけた時、
「勝つためには……どうすれば良いですか?」
丹頂鶴娘が聞いてきた。真剣な表情で俺を見上げている。俺なんかを相手に、心の底からアドバイスを欲しているようだった。それは純粋な勝利への渇望で、全員が同じ目をしている。鋭く刺すような目つきをしていた鷹娘でさえも、俺の言葉を聞こうとしていた。
ーーそう言えば、こいつらが勝ってるの見たことないな。
ふと思ったことだった。昨日今日で観戦したのは三試合。おじさんチームに敗れ、若者チームに敗れ、先程は何とかギリギリ引き分けている。それも内容的には負けたようなものだ。それら全てに言えることが、勝ち筋の見えない試合だったということ。この様子なら、俺が見ていない他の試合もそうなのだろう。
廃部の危機に、部員は集まらず、練習はできず、何とかセッティングした試合では勝てる気配すらない。彼女たちの心はいつ折れてもおかしくないほど、追い詰められているのだろう。だから、信用するに値しない俺のような存在からですら、何かを得ようとしている。前へ進むきっかけを探している。
相手の分の使用料を払うという罰ゲームつきの試合で、勝利以外のプラスアルファがある試合で、勝ちたい。彼女たちは、必死に抗っていた。
その姿は、不思議とかつての俺に重なった。あの、悲鳴をあげたくなるような焦燥感と絶望の中にいた俺と。
ーーあの頃の俺は、ここにもいるのか。
手を伸ばしてあげたいという思いが、静かに生まれた。それは別に善意ではない。不運な女子高生たちに過去の自分を重ねているだけだ。俺は俺自身を救い上げたいだけだった。ならば、今日この日だけ。
「ま、サンコーくらいに聞けよ」
俺はベンチの前で片膝立ちになった。選手たちと目線の高さを合わせる。
「望、ボードはあるか?」
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