初観戦
ワクワク公園には喫煙所がなかった。ちびっ子が利用する公園に喫煙所がないのは至極当然のことかもしれないが、喫煙者は年々肩身が狭くなっていて悲しい。仕方ないので、公園の隣を流れる小川のガードレールにもたれかかってタバコをふかしていた。ほとんど動かない水面を見下ろしていると、たまに魚が跳ねる。川に下りていく階段もあるから、夏は子供の遊び場になっているのだろう。
俺がいる場所からは、フットサルコートは見えない。高さが違うし、少し離れている。春の星を縮こまらせるような明るい照明が見えるだけだ。
望には一本だけという条件で吸うことを許可してもらったが、二本目に火をつけた。小さな火から細く頼りない煙が夜空に上がっていく。
ーーもうっ! スポーツ選手の周りでタバコなんか吸わないでよね!
望の言う通りだろう。きっと昔の俺でもそう言った。それがまさか言われる側になるとは。だが不思議としっくりきた。最初から「こう」なる運命だった気がしていた。
俺の網膜の上には、五人の少女達が立っている。タヌキ娘の頬についていた人工芝特有の黒いゴムチップまで鮮明に思い出せる。彼女達は紛れもなくサッカー選手だった。素人ではなく、時間つぶしでやっているのでもない。上達と勝利を目指す選手プレーヤー達だ。だが、それに比べてどうだろう。あの若く未熟な選手達には、俺はただのダラしないおじさんに見えたらしい。
自らを嘲る乾いた笑いがせり上がってきた。たった三年。三年離れただけで、俺から一切のサッカーの「匂い」が消えていたのだ。どれほど積み上げようが、どれだけ練り上げようが、己を高めんと捧げてきた時間の半分にも満たない期間で、俺は全てを亡くしたのだ。もちろん、蘇ってくることなどないだろう。
ーー滑稽で、バカバカしい。
二本目のタバコもちびた。そろそろ戻らないと望に叱られる。それだといつまでも帰れないし、飯も食べれない。大人しく携帯灰皿にタバコをねじ込んだ。気味悪いくらい光り輝くコートに戻ってみると、
「遅い! 絶対何本も吸ってたでしょ煙人間!」
開口一番、望に叱られた。フェンスの向こうのベンチに座っている。
「ほら、ちゃんと見ててよ!」
とっとと帰りたかった。それでも目は勝手にボールの動きを追っていく。
彼女達は先程よりも平均年齢の若い男性チームと試合していた。だが、相手のレベル的にはおじさんチームの方が上だ。別に年齢を重ねているから、というわけではない。単純に強いチームの上手い選手と、弱いチームの下手な選手という差があるだけだ。彼女達の練習相手としては、今の相手の方が無難だろう。
4番、7番、8番がゆっくりとボールを回していく。若者チームはそれにプレッシャーを与えることはしない。ディフェンスに力を割くつもりがないのだ。別に部活としてやらされているわけではない。しんどくて地味なディフェンスなどそっちのけで、ただ攻撃だけを楽しめば良いというスタンスなのだ。だから相手がミスするのを待ちながら、体力を使わぬよう適当にディフェンスしている。
それに対して、女子高生チームは困ったようにボールを回し続けている。相手チームが自陣に引きこもっているせいで攻撃のスペースを見つけられないのだ。誰が見ても面白味のない試合だった。やっている本人達もエキサイティングはできないだろう。
だが、こういう試合状況はサッカーでは頻繁に起こりうる。両チームがじりじりと拮抗し、ゲームが動かない。チャンスがない。観客が喜ぶ見所もない。別段サッカーに限った話でもないはずだ。
では、これを打開するにはどうすれば良いのか。方法は大雑把に二つだろう。一つはアイディアだ。トリッキーなパス、大胆なドリブル突破、複数人の連携。定石では考えられないプレーで相手ディフェンスを圧倒する。拮抗状態とは、きっかけさえあればどちらにも流れが傾くということだ。一度のアイディアでゲームの行方は十分変わる。だが、残念ながらこの方法には大きな欠点があった。それは、相手の予想を上回るアイディアを思いつくことが非常に困難だということ。世の中のほとんどの人が新しい発明ができないように、悲しいかな、ほとんどの選手がアイディアを生み出せない。そして、そのアイディアを実行するだけの技術がないということ。アイディアによる打開とは、天才にのみ許された行為だった。
それでも、天才のいない凡人だけのチームでも試合をし、勝たなくてはならない。なら残された方法は何なのか。答えはシンプルである。耐えるのだ。つまらないゲーム展開を、動かない状況を、じっと我慢し、耐える。いつかくるであろうチャンスを淡々と待つ。その時にそなえて集中力を高め、練習してきた個人プレーや連携プレーを思い出しておく。凡人が戦うために編み出された定石が、まさに通用する瞬間を待つのだ。
だが、若く未熟な女子高生チームは、耐えることができなかった。
4番の鋭いパスが7番に通った。それは明らかに「攻撃のスイッチ」を入れるパスだ。7番はボールの速度を落とすことなくダイレクトで9番へと繋ぐ。ディフェンダーを背後に背負った9番に、8番と4番がフォローに入る。基本的なパス&ゴーに「クサビ」を絡めた攻撃だ。クサビとは最前線にいる選手に簡単にボールを出してしまうこと。受け手はゴールに背を向けているため攻撃的なプレーは難しい。だから味方が素早くフォローする。すると、最前線の選手から「落とされた」ボールはほぼ確実に前向きの選手に渡る。直前の速いクサビの縦パスによってマークは剥がされているから、前向きかつフリーで、元いたポジションよりも前線でプレーできる。サッカーでは基本中の基本。攻撃の定石でありながら、成功したならば非常に有利な状況を作り出せる戦術である。そう。成功したならば。
「あっ!」
望が短く叫んだ。クサビのボールを受けた9番が、二人のディフェンダーに囲まれたのだ。9番が速いパスの処理にもたついた。本来ならツータッチ以下、最低でもスリータッチで他の選手にボールを預けるべきだったのに。8番と4番はダッシュしている。二人はほとんど9番を追い抜くか、並ぶ位置まで走ってしまった。これではパスが出せない。横パス、もしくは斜め前にパスをすると、自分が背負っているディフェンダーの足が届く可能性があるからだ。更には、見えていない背後に思わぬ伏兵がいるかもしれない。ここで横パスをカットされてしまったら、9番、8番、4番、全員が置いてけぼりにされる。だからこそ、9番は少ないタッチでボールを離さなくてはならなかったのだ。
だが、それを見事に失敗した。9番がパスができないと判断した頃には、ボール奪取のチャンスを見つけたディフェンダーに囲まれてしまった。
「リュウっ! 戻して!」
「百合子さんやり直っ!」
7番と8番が攻撃の再構築を余儀なくされた時にはもう、ボールは奪われていた。そして当然、攻撃がしたくてしたくてたまらなかった若者チームが一気に攻め上がる。
先程までのチンタラプレーが嘘みたいな加速。 ボールを奪った選手は、こちらの7番をマークしていた選手にパス。逆サイドにダッシュで駆け上がる。パスをもらった方は、実に楽しげに細かいタッチでボールをこねる。足裏で転がす、またぐ、キックフェイント。プロに憧れる素人選手にありがちの、「上手そうに見えるだけ」のプレーだ。全てのフェイントが効果的でなく、魅力的でもない。だが仕方ない。やりたいのだ。どんなに大人になっても、プロがやっていることを真似たいのだ。それに、スマフォと黒電話くらいの差がある拙いプレーも、他の選手が上がってくる時間を稼ぐという点においては貢献した。ボールホルダーの外側から別の選手がオーバーラップしていく。そこにパスするか否か。不用意に飛び込むことなくじっと我慢していた7番とのかけ引きの勝負になる。
ボールホルダーは、キックフェイントを入れた。中にドリブルで切り込んでいく。7番はそれを読み、抜かれることなく付いていく。が、そのせいでスペースが空いた。そこにすかさずヒールパス。オーバーラップを途中でやめていた選手にボールが渡る。完全フリー。だが、この選手はボールを止めなかった。ダイレクトでロングパス。必死に戻っていた8番と9番の頭上を越え、最初にボールを奪った選手にパスが通る。角度はないが、キーパーと一対一だ。普通なら胸トラップからのシュートだろう。ピッチにいた全員がそう思ったはずだ。胸トラップは次のプレーに移行するのに若干遅れが生じる。ディフェンスに戻る9番はそこを狙う。
ーーいや、違うな。
まだボールは宙に浮いている。パスの受け手が上体を反らした。そのまま飛び上がる。
ボールから目を離さない。空中で身体をひねる。そしてーー
「えぇっ!?」
ジャンピングボレーシュート。パススピード、身体のひねり、脚の振り。多様な要素を取り込まれたことで更に加速したシュートは、キーパーの肩口を抜けてゴールネットを突き刺した。
「うおおおお!!」
「やるぅー!」
「ぃえーーい! どーよ!? 見たか今の!?」
若者チームが歓声をあげる。シュートした本人も信じられないといった表情だ。フェンスの外で何となく観戦していた人や、休憩していたおじさんチームも興奮した様子で手を叩く。プロの試合で飛び出せば間違いなくリーグベストシュートに選ばれるであろうスーパープレーだ。
「す、すっご……」
望は口に手を当てて唖然としている。そりゃそうだ。あんなの滅多に見れるものではない。ましてやこんな田舎の草サッカーの試合で生まれるプレーではないだろう。
間違いなくあの選手は身体能力抜群だ。そしてセンスが良い。現役を退いてもそこそこ動けるだけの体力作りもしていたのだろう。本人の才能と積み重ねと、色々な偶然が重なった結果、生み出された奇跡だった。
サッカーというのは、時折こういうことが起こる。思いもよらないスーパープレーが飛び出す。だから人を惹きつける。選手の心を魅せる。そこに上手いも下手もない。プレーすることをやめなければ、奇跡が起きることがあるのだ。
興奮冷めやらぬピッチの中、女子高生チームはすっかり雰囲気に呑まれていた。相手のプレーにビビってしまっている。ただ相手に一発マグレが出ただけで、別に実力差が一気に広がったわけでもないのに。
「望。何点差だ?」
「え、今ので0ー2」
「時間は?」
「あと……二分」
望はストップウオッチを見ながら答えた。
ーーあと一点はやられるかな。
相手は行け押せムードだ。この狭いフットサルコートで、残り時間が二分もあれば簡単に点が入る。切り替えができていない女子高生チームには厳しい。そう思った時。
「望ちゃん! あと何分?」
9番が大きな声を出した。
「え、あ。あ、あと二分です!」
望は選手全員に聞こえるように大きく言った。それを聞くと9番は力強く頷き、仲間に向かって手を叩いた。
ーーあと二分あるよ! 頑張って一点返そう!
そう言う仕草だ。
「あやゴメン! 私のミス! 次はちゃんとやるからまた同じのちょうだい!」
「わかった」
7番が手を挙げた。
「よし。ほな最後まで頑張ろか!」
「ええ!」
「……次は止めます」
女子高生チームがにわかに活気を取り戻し始めた。落ち込みかけていた雰囲気を持ち直し、これから試合が始まるかのように、目を希望で輝かせた。彼女たちのボールで試合が再開される。
「……」
試合終了のホイッスルが鳴る直前、裏に抜け出した9番がゴールを決め、女子高生チームが一矢報いた。
俺は最後まで戦い抜いた彼女達を見て、無性にタバコが吸いたくなっていた。
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