サッカーの話をするな

脚が重い。身体が重い。芝生のピッチが泥沼に変わり、俺の身体はズブズブと沈み込んでいく。

 ボールが重い。ユニフォームが重い。わずか450グラムの5号球が鉄球となって俺の自由を奪っていく。


 身体が言うことを聞いてくれない。ボールが言うことを聞いてくれない。望むイメージとの乖離が止める間もなく加速していく。

 ミスをする。奪われる。ミスをする。奪われる。それでも。それでも。このピッチに立っている限り、俺は選手プレイヤーだ。チームを勝たせなくてはならない。味方の役に立たなくてはならない。


 諦めるな。


 ミスをする。奪われる。ミスをする。奪われる。


 諦めちゃダメだ。どんなに身体が付いてこなくても。ボールが離れていったとしても。


 ほら、スペースが出来た。チャンスじゃないか。行け、行け。ボールを呼べ。ここに来いと、俺に寄こせと味方に叫べ!


 「パスをくれ」そう手を挙げるべき瞬間、俺は己の現実を視て愕然とした。

 気がつくと、俺はボールを呼ぶことをやめていた。


 諦めるなという言葉だけが、一人どこかで叫び続けていた。












 季節は春。大学三年目にしてやっと二年生になった俺は、ぼんやりとベランダでタバコを吸っていた。この有様だと、また進級を逃しそうだと思いながら。だが、そんな静かな時間は長くは続かなかった。


「お願いお願いおねがーい!! もうコウちゃんしかいないの!!」


「知るか。帰れ」


「やだ! 良いって言ってくれるまで帰らないから!」


「うるさい。お前は子供か!」


「子供だもん!」


 片田舎の隅っこに申し訳なさそうに建つボロアパートの俺の部屋に、予期せぬ珍客がやって来ていた。


「お願い! うちの部のコーチになって!」


「嫌だっつってんだろうが!」


「何で!? いいじゃん! 女子校だよ!? 女子サッカー部だよ!?」


「一切合切に魅力を感じねぇよ!」


 三年ぶりに会う従姉妹の八尾望は、身長も伸びていなければ顔つきも変わっていない。だが、図々しさだけは逞しく成長しているようだった。突然何の連絡もなく押しかけてきたかと思えば、俺のガードを破って部屋にまで侵入し、何度断ろうと諦めることなく執拗に「お願い」を繰り返す。望の所属する女子サッカー部に、かつてない危機が訪れていると言うのだ。


「このままだと人数不足で廃部にされちゃうんだってば!」


「だったらまず人数集めしろよ! なんでコーチって話になるんだ!」


 平静を失った女子高生が辿り着いた訳の分からんお願いに、俺も声を大きくして反抗する。必要以上に自分がエスカレートしているのを自覚していた。サッカーなんて煩わしい単語を聞かされたせいで、心の奥底の醜いものが寝返りを打ち始めてしまっている。これに起き出されると本当に面倒くさい。いつもより断然早いペースでチビたタバコを押し潰す。イライラを加速させないよう次のタバコに手を伸ばしたが、


「とりゃ!」


 ライターもタバコも望に奪われた。小さな背中に隠される。


「私入れても六人しかいないから、勧誘期間終わったら廃部なの!」


「六人もいれば同好会とかになれるだろ」


「無理。うちの学校、競技が成立するだけの人数がいなくちゃ同好会にもなれないの。私は何とか誤魔化すとしても、あと一人足りないんだ」


 何気なく飛び出した「誤魔化す」という言葉に、俺は望の胸元を見た。学校帰りらしい制服は、可愛らしい赤いリボンを胸に咲かせている。だが、望はその内にあるべき機関を持っていない。かつては持っていたのだが、ある日を境に失った。雨に濡れたアスファルトが紅を滲ませていく光景が、一瞬フラッシュバックし、消えた。


「だからお願い! 騙されたと思って!」


「何で歳下に騙されなきゃいけないんだよ」


「ぶー!」


「ぶー言うな」


 ぶすくれて頬を膨らませる望を見て、更に昔のことを思い出す。タレ目が特徴的なたれパンダみたいな顔立ちは昔と相変わらず。小柄で華奢な体躯も手伝って、年齢よりもずっと幼く見える。今年から高校一年生らしいが、見る人によっては小学校高学年くらいに思うかもしれない。その分愛嬌はあるが、大人の女性として扱われることはないだろう。まぁそれでも、ショートボブの髪は綺麗に梳かされていて、女子高生らしく見た目に気を使っていることはわかる。


「大体さ、なんで新入生以外全員辞めてんだよ。なんか問題がある部なんじゃないのか」


「だから言ってるでしょ。顧問の先生が休職したせいで、他の部に移っちゃったりしたの。一人は留学したらしいけど」


 望が言うには、各学年三人ずつしかいなかったサッカー部の部員たちは、休職した顧問を良く思っていなかったらしい。それでほとほとサッカーが嫌になっていたところ、運良く「建前」ができた。大して伝統もなく、もちろん強豪でもないサッカー部にいつまでも所属する義理もない。指導者も人数もいない。確かに辞める理由はいくつもあり、続ける理由はほとんど無い。その成れの果てが新入部員六人のみの窓際サッカー部の誕生である。

 だが。


「どうしてそこからコーチって話が出てくるんだよ」


 誰がどう考えても部員集めが先決だろうに。何故そんな余計なことに時間を割くのだ。


「暫定顧問の先生、サッカーなんかてーんで知らないお爺さんでさ。良い先生なんだけど、技術的な指導は無理。だから上級生たちも辞めちゃったところもあるんだよ。つまり!」


 人差し指を突きつけてくる。


「指導者がいれば戻ってきてくれるかも、か」


「いかにも!」


「口調変わってんぞ」


 辞めてった奴らを引き戻すのが狙いか。そしてどう言う経緯かはわからないが、俺が同じ市内に帰ってきていること知って、こうしてアプローチしてきたわけだ。


「皆んなにはまだ言ってないけど、コウちゃんは翔鳳のOBだもん。誰も文句なんか言わないよ。むしろ大歓迎だよ」


「あー」


 イライラで眉間にシワが寄る。率直に言って、不愉快だった。望が勝手に俺をアテにしてるだとか、昔のことを思い出させられるとか、そういうことじゃない。ただサッカーの話をされることが嫌だった。己の分というのを思い知らされたこと。次第に、だが確実に周りに追いつかれ追い越され、最終的には置き去りにされたこと。そして何より、かつて自分の中で輝いていたものが見る影もなく色褪せた事実。その全てがサッカーという言葉の中に蠱毒のように充満している。とにかく、サッカーの話をしたくなかった。


「他あたれ」


 自分の喉が鳴らしたとは思えないほど冷たい声だった。それがより一層俺をイラつかせる。本気でタバコが欲しくなって、右脚が貧乏ゆすりを始める。


「やだ。コウちゃんが良いの。コウちゃんじゃないとダメなの」


「色っぽく言ってるつもりかもしれないが、普通にガキんちょがグズってるようにしか見えないからな」


 望の外見年齢は、アヒルの子供みたいに俺の背中を付いて回っていた頃とほとんど変わっていない。俺は一生こいつを子供扱いできる自信がある。そして俺は子供が嫌いだ。


「そんなこと言ってて良いの? おばさんに言いつけちゃうよ。コウちゃんが廃人みたいな生活してるって」


「実際してるんだよ」


「じゃあおじさんに言う。コウちゃんが腐れ大学生になってるって」


「実際なってるんだよ」


「じゃあ、リョウさんに言うもん!」


「は?」


 思いもしていなかった名前が出てきて、フリーズしてしまった。


「お前、あいつの連絡先知ってるのか?」


「うん」


「嘘だろ……」


 中学の卒業式の日に短い置き手紙だけを残して消えてしまったあいつ。毎月母親の口座に入金があるから、生きていることだけはわかる。だが、それ以外の一切の情報がない家出人。


「何で……。お袋は知ってるのか」


「うん。私から言ったもん。でも放っとけって言ってたよ。別に怒ってる風でも無かったけど」


「まぁ、そうだろうな。あいつの心配なんてする必要ないからな」


 嫌味でも嫌悪でもない。ただ単にそう言う人なのだ。常識で測っているとバカを見る。


「リョウさんなら呼べばすぐ来てくれるよ。どこにいるかは知らないけど、別に離縁した訳でもないんだし」


「……」


「コウちゃんの今の様子を見てどう思うかな。リョウさんだから怒ったりはしないと思うけど、色々大変なんじゃない?」


 この状況を何と言えば良いのだろう。四面楚歌? 八方塞がり? 実際にはコーチとあいつの二つしか外的要因はないのだが、どちらも分厚く、また途方もなく大きすぎてそう感じてしまう。こいつらのコーチを引き受けるか、それともあいつに会うか。

 どっちも嫌だ。


「……六人いるんなら、フットサル部でも作れば良いだろ」


 苦し紛れの抵抗だ。


「良くないよ。サッカーとフットサルじゃ全然違うって、コウちゃんならわかってるでしょ」


「……」


 当然わかっている。素人目には似たように見えるかもしれないが、二つはまるで別の競技だ。求められる技術も戦術も、ルールだって異なる。当然、「醍醐味」や「面白さ」だって違ってくる。サッカーをやりたい人間からすれば、フットサルに鞍替えしろと言われても譲れないものがあるだろう。


「どうする? これ以上抵抗するなら、今すぐ電話かけちゃうよ。ほらほら。090まで打っちゃたよ」


「ま、待て! 早まるな!」


 スマートフォンをひらひらさせる望に、俺は本気で顔を青くする。言うまでもないが、俺はあいつが苦手だ。嫌いという感情ではなく、とにかく苦手なのだ。できるなら一生会いたくない。あいつが出て行った時、清々したとは言わないが、心の底から安堵したのがその証拠だ。


「ならわかってるよね?」


「う……ぐ」


 一千万払えばこの状況を何とかしてやるぞ。そんな人間が現れたら、俺は迷わず払う。内臓売ってでも払う。だが、俺に逃げ道はなく、選ばなくてはならない苦行の道が二又に裂けて遠く伸びている。右手では望が手招きしていて、左手にはあいつの背中があった。

 俺の脳内ではかつての記憶が秒速百メートルで吹き荒んでいた。叫び出しそうな焦燥と苦痛。口の中いっぱいに広がる砂鉄のような苦味。


「わ、わかった……」


「ん?」


「……あいつには連絡しないでくれ」


「じゃあ、コーチしてくれるんだね!」


 俺は黙っていた。絶対に頷きたくない。コーチなんて真っ平御免だ。だが、とりあえずはこの場を凌ぐため、望の言うことを聞いているフリをする。あとはさっさと帰ってもらいさえすれば、何とかなる。そう思っていたのに。


「じゃあ、今から皆んなのところ行こっか!」


「……え」


 望の無邪気な笑顔が俺の危険信号に鮮やかな赤を灯した。


「こ、これから……?」


「うん!」


 上機嫌な望の瞳は、俺の抵抗を威圧的に禁じている。最初から、俺は望の掌の上で転がされていたのだ。弱小ですらない女子サッカー部の部員たちに、俺は今から会いに行かされることになった。


 ーー最悪だ。

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