第16話

そろそろ水樹がこっちに来る頃だ。

指を折るようにして、楽しみにしている。

克樹の、生活リズムが変わった。

布団と必要品しか無かった部屋に、細々とした物が増えた。

……それが嬉しくて仕方ない。

そんな生活に落ち着きを見せ始めた頃、親をも諦めさせた女の噂が消えた。

連れ込む事も通う事もなくなり、至って規則正しい生活を送っている。

そんなある日、久しぶりに母美奈子から連絡が入った。


「母さん……落ち着いてゆっくり、もう一度言ってくれ」


克樹がたしなめる程に、慌てている。


「だから!」


美奈子は、少し声を荒げて言った。


「茂さんのお父さんが、床に伏してもう長いんだって」


「だから……茂さんって?」


「茂さんは茂さんじゃない?」


美奈子は一瞬息を吐いて、思い当たった様に怒鳴った。


「水樹の父親の茂さんよ」


「えっ?」


克樹はやっと聞いた事はあったが、思い当たらなかったその名前に合点が言った。

水樹が今だに太れない体質になったのは、その父親が育児放棄をし、育ち盛りの大切な時に栄養失調だった為だ。

男としてはかなり貧弱な体格なのは、あの時の名残だ。

自力で何不自由のない生活ができ、それなりの地位を得られたとしても、その細く華奢な身体が昔の哀しみを忘れさせない。

そんな刻印を、押したとでもいうべき父親の名を聞いて、克樹は血が逆流しそうになって息を吐いた。


「……で?何だって言って来たんだ?」


「だからおじいさんが病気で弱っているから、一度水樹に会わせたいって……」


「はぁ?」


「もうずっと入退院を繰り返しているから、元気な内に水樹に会わせたいって……」


「何言ってんだ?」


「茂さんがあんなになったって一度も来なかったし、水樹があんな状況だったのだって知らん顔だったのに……。おばあちゃんは律儀だから、事ある毎に連絡したって、もう関係ない……の一点張りだったから、おばあちゃんが縁を切ったのよ。だから高城さんにもそうさせたの、水樹に知られない様に……それが今更でしょ?そうでしょ?」


「そうだ……」


克樹は忘れていた記憶が、蘇って来るのを抑えられない。

あの華奢な体を震わせて泣いた、あの可愛い泣き顔が蘇って胸を締め付けた。


「それでも、水樹のおじいさんだし……」


「水樹に言ったのか?」


「黙っている訳には、いかないでしょ?」


「そりゃそうだけど……」


「それにもう子供じゃないから……。と言ってもやっぱり心配だし」


「俺にどうしろって?水樹には高城さんがいるし、母さんの言う通りもう大人だ……」


「そうなんだけど……」


「水樹どんなだった?」


「えっ?」


美奈子は質問されて、言葉を詰まらせた。


「その話し、聞いた時」


「ああ……なんだか落ち着いてたわよ。他人事みたいで、連絡してみるって言ってた」


「そっか……」


克樹は父親が死んだと、連絡が入った時もそうだった事を思い出した。

そして水樹は祖母ではなく、伯母の美奈子でもなく、同じ子供の克樹と遺骨を取りに行きたいと祖母に言った。

祖母は頷いて克樹にいろいろと指示を与えて、そして二人を見送った。

あれは中学生の時だ。

行く時も他人事の様に淡々としていて、克樹をイライラさせた。

だが帰って来て、風呂で頭を洗ってやって……。張り詰めたものが切れた時、あの大きな瞳から大粒の涙を流して泣いたのだ。

きっと水樹を、あの辛くて悲しくて思い出したくない、あの時に戻して苦しめているに違いない。そう思うと居てもたっても居られなかったが、今や水樹を支えるのは自分ではない。

あの高校の……。

あの母の元に戻った時点で、克樹はそれまで培った水樹と自分との関係を、自ら手放してしまった。

そしてそれからの時を、克樹の代わりに高城が水樹の支えとなっている。

その姿を見たくないが為に、克樹はずっと水樹から遠く離れて、暮らしている。

あの時の自分を責め、悔やみ続けて時を過ごした。

母からの連絡の後、いくら気に病んだとしても、決して克樹から水樹に手を差し伸べる事は許されず、無論水樹からの連絡などあろうはずもなく。

ただ思うばかりの、毎日が過ぎて行った。

きっと高城が相談にのり、水樹の一番いい方法を示唆しているだろう。

そして以前は許されていた、その場所に克樹はもはや立ち入る事は許されない。

ただ成り行きを心配する。苦しんでいないか、悲しんでいないか危惧する。

そして決して、頼られる事の無い現実に絶望を覚える。






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