第10話
ならば克樹はどうすればよかったのか……。
ひたすら崇高で純粋な、兄弟愛だと信じていたあの頃……。
そうだあの頃の様に、水樹の魂の拠り所であるべき、絶対の存在としている為には、決して自分の欲望を気づかれてはならない。
只々、血縁の清い絆でなくてならないのだ。
それ故、今でも水樹の心の中には、幼い頃からの唯一の理解者であり、一番近い存在である従兄弟としての克樹があるのだ。
克樹は何も無い部屋で、膝を抱えて煙草を吸っている。
静かな夜は、なんだか久しぶりに克樹を穏やかに包んだ。
触れてはならない従兄弟。
だが昔の様にお互いを思い合える、この安らぎは何だろう……。
水樹の見つめる瞳に、何の意味もない。
ただ肉親の情があるだけだ。
だが今夜の克樹には、その情が心地よかった。
確かに判然と見せた、高城との違いを表すあの表情に、不思議と嫉妬や妬みを持たなかったのは何故だろう、と自問する。
ただ愛おしさだけが増して行く……。
翌日の午後、予定通り克樹は新しい現場に向かった。
少しずつ東京を離れると、心が落ち着いた。
今更ながらに恋い焦がれる従兄弟と、離れる事は気持ちが安らぐ。
どんなに思っても届かぬ思いは、遣る瀬無く辛かった。
また暫く顔を見ずに済む……。
それは安堵と寂しさを呼んでくる。
顔を見ない事は、克樹に安らぎを与える反面、直ぐ会いたい気持ちと、
笑顔を向けて欲しい感情を呼び起こす。
だが会えばもはや人の物となり、克樹以外の人間に心を与えた水樹を思い知る。
それは寂しく切ない事だった。
現場近くのマンションの一室を、借りて住むのは何時もの事だ。
そして、最低限必要な物しか置かないのも、何時もの事だ。
大半の仕事が、奥田から回ってくる。
マンションやビルを手広くやっている、平林の仕事もこれに含まれるから、寝る所には事欠かない。
大体ワンルームで、家具付きの物があてがわれる。
あてがわれる……というのは、奥田か平林がそう指示しているからだ。
香里の夫であった時からの事だから、つまる所待遇はかなりいい。
だが、克樹は現場に近ければ文句を言わない。
ただ寝起きだけの生活だから、気にする事もない。
今回は、新神戸の駅の近くの、スーパーが閉めた跡地にマンションを建てる。
マンションは幾度か手がけているが
「克樹が自由に好きなように建ててみろ」
と平林から言われた。
それはありがたいが???と思っていると、どうやらその背後には、あの変わり者の奥田が居るようだ。
大体仕事だから、やる気や熱意だけでは、如何にも行かない事は当たり前だが
「とにかくお前の好きにしろ」
と平林が言った。
そして奥田がニヤリと笑った。
「金は出してやる」
如何して奥田がそんな事を、平林にさせたかは定かではないが、時代を読み取れるあの奥田だ、決して損をする事をするはずが無い。
香里とは別れたが、同い年の義兄だった奥田は、誰よりも信頼している。
だから、二度と巡って来ないだろうと思われる、この仕事に対する意気込みだけは、今まで以上に持っているし、力も入れているから、寝食を忘れて働きに働いている。
そんな克樹に、足繁く通って来る女ができた。
現場近くの飲み屋の女で、仕事の帰りに寄っている内にそういう関係になり、体を合わせている内に、女がマンションに来るようになった。
他に作るのも面倒なので、珍しく一人しか関係を持っていないので、合鍵を渡すと足繁く通って来ては、掃除洗濯食事の支度をしてくれる。
「来てたのか?」
遅く帰って、部屋が明るく、誰かが待っているというのは心地いい。
「今夜は肉じゃが」
「そっか」
克樹は微かに笑むと、シャワーを浴びに行く。
女に作らせて喜ぶのは、じゃが芋料理が多い。
だから何処の女も、こぞってじゃが芋料理を作ってくれた。
以前水樹と一緒に住んでいた時、ヤツが好んで作った料理だ。
それを今の女に作らせている自分は、なんて野郎だろうと思う。
罪の意識はあるものの、選ぶ女はどこか水樹に似ていた。
今回のクミはスレンダーな所と、おっとりした所が気に入っている。
似た所は無い。
だが仕草が何となく、水樹を連想させて気に入っている。
シャワーを浴びて来ると、テーブルの上に食事の支度がしてあった。
女という者は世話をやくのが好きなのか、尽くす事を好むようだが、克樹は何時もそこまでの付き合いは好まない。
束縛されるのも好かないが、当たり前の様に側に居られるのも好きではない。
だが今回仕事に没頭している所為か、クミには甘えている所もある。
が、だからと言って、彼女の気持ちに答える気持ちは毛頭無い。
「最近仕事は?」
「休み取ったんよ」
「ふーん」
克樹は肉じゃがに箸を付け、ビールに手を伸ばして言った。
その気の無さにクミの顔が曇る。
女の望む言葉は口にしない、それは不思議と身についた。
自分の口から愛の言葉を発したのは、何時の事だろう?
ああ……心から香里を愛していると、信じてやまなかったあの頃だ。
あの頃の自分は、一体何処へ行ってしまったのだろう。
克樹は煙草に火を付けて、口に運んだ。
肉じゃがは何処の女が作っても美味かった。
水樹が作った肉じゃがよりも美味かった。
だが、克樹の求めているのは、あのちょっと完成されていない肉じゃがだ。
お世辞にも美味いと言えない、あの肉じゃがをまた食ってみたい。
じゃが芋料理を作られる度にそう思う。
「クミこっちに来いよ」
違う相手を思い浮かべて女の名を呼ぶ。
罪悪感も無く、当たり前の様に繰り返して来た事だ。
クミは表情を明るくして、嫋やかな身体を惜しげも無く預けてくる。
その身体を抱き止めながら、克樹はただ欲望の為だけにくみしいていく。
そんな事ともつゆ知らぬ女達は、一時の甘美な声を上げる。
今は仕事が面白くて夢中になっているから、他に物色する暇も無くクミだけだが、何時何処で、水樹に似たところがある女を見つけるか解らない。
その一部に夢中になると、複数の女と付き合う事も平気だ。
では水樹がダメなら、まるっきりそっくりな女は、いないものだろうか?
そんな女がいれば、克樹は救われるのだろうか?
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