第2話

水鈴と会った日は気分が鬱ぐ。

あの可愛げな顔を見送った夜は、なかなか眠りにつけない。


克樹は家具も殆ど無い、マンションの一室に辿り着くと、シャワーを浴びてビールしか入っていない冷蔵庫から、一本寝酒に取り出して口を開けた。

暗闇が厭で、朝まで電気を消さない。

これは一人で暮らすようになってから、ずっと続いている。

あの暗闇に身を投じると、自分の体内の嫉妬と欲望が蠢いて克樹を苦しめた。

だから電気は付けている。

リビングの床に腰を落とすと、一気にビールを口に含んで飲み込んだ。

それでも半分以上残った缶を、床に置いて天井を見つめた。


香里とは、憎み合って別れた訳ではない。

だが全て自分が、悪い事も知っている。


高校の同級生だった香里とは、その頃から身分不相応にも、付き合っていたのだから、純粋に好きだった。

大学三年の時に愛の結晶となる水鈴ができて、余りの格差に反対されるのは覚悟していたが、年の近い兄の潤司が変わり者で、尚且つ克樹を気に入っていたから、不思議と奥田家からの反対も無く結婚が許された。

その頃は、傾きかけていた父の会社が盛り返していた事はいたが、どう見たって奥田家とは釣り合いが取れる物ではなかった筈だ。

それがすんなり許されたのだから、偏屈潤司の力というのは、奥田家の中でも相当な物であると想像がついた。

まだ若い燃え上がった愛情の炎は、本物であると疑わず、自分自身が本当に香里を求め、ひたすら愛していると心底そう信じていた。

克樹が二十二歳、香里が二十一歳。

実際のところ己の本質など解らない、それ程若い二人だった。

あの日からの事を思い出すと、暗闇が恐ろしくて堪らなくなる。

己の弱さと欲望の果ての自暴自棄。


克樹は外の暗闇が続く窓ガラスに、幾つもの水滴が叩き付けられ、雨が降って来た事を悟って、ビールの缶を再び手に取って一口飲んで下に置く。

叩き付けられて音を立てる窓ガラスを、食い入る様に見つめた。

気にかけ始めると、音が高くなって行くのが解る。

そのガラスの雨粒を目で追う様にして、もう一口口に含んだ。


明日は中学の時に同じ部活仲間だった、小見の独身最後の飲み会だ。

三年の交際を経て結婚するので、それに出席する為に、克樹は関西での仕事を早めに上げて帰って来た。

小見の結婚式が済めば、また直ぐに新しい現場に赴き、一年以上は向こうに居るだろう。

早めに上京した為、小見との最後の飲み会にも参加ができる。


……明日は久々に水樹と会える……


その事が、克樹を憂鬱にしていた。


あの日……五年前の克樹の結婚式の当日。

克樹は晴れの舞台に、少し興奮気味だった。

高校の時から、格差があるにも関わらず育んだ香里との愛が、今日成就する。

この日を待ち望んでいた……と、幸福感と子供ができた責任感で、高揚している自分をちゃんと理解して、幸せでいっぱいだった。

さっき香里の仕上がりを覗きに行って、その美しさに興奮が倍増し、中学の部活仲間の木本や三野や小見達の様な、気心の知れた友達から祝福を受けると、歓喜がこみ上げた。


「ちぇ、結局克樹は、お嬢様を手に入れたか」


小見が羨ましげに言った。


「逆玉ってヤツな……」


今日は何を言われても、ただただ嬉しいだけだ。


「克樹おめでとう」


弟の様に可愛い、従兄弟の水樹が抱きついた。

これは二人のお約束のハグだ。

水樹は可哀想な生い立ちで、母親は夫と子供の水樹を捨てて、男と逃げてしまった。

それに自暴自棄となった父親は、水樹を育てる気力を無くしたのか、自分を捨てた妻に恨みを抱いたのか、とにかく幼い水樹をまともに育てなかった。

今でも話題にされる、育児放棄というヤツだ。

男と逃げた母親のナツさんが死んだ事を知った、克樹と水樹の祖母は懇意にしていた、弁護士の高城さんに依頼して、水樹の行方を捜して貰った。

ただ母親の死を知らせるつもりだけだったが、余りにも悲惨な水樹の境遇を知って、祖母は自ら水樹を迎えに行き、育児放棄した父親の元から連れ帰った。

祖母が死ぬまでのほんの数年だったが、祖母と水樹は一緒に住んで、今迄の辛い時間をチャラにする程に、おばあちゃんに大事に大事に育てられた。

克樹はそんなばあちゃんが、じいちゃんが死んで一人暮らしだったので、家が近い事もあって娘である母親としょっちゅう行っていたので、自然と兄弟の様な関係になった。

一人っ子の克樹にとって、可愛そうな生い立ちの水樹は、同学年ではあったが誕生日が遅い事もあり、それは気にかけて守ってやるべき弟となった。

ばあちゃんの様に、大事にする存在となったのだ。

小学校の一年か二年で兄弟の様になった水樹とは、よく一緒に風呂に入って頭を洗ってやったり、一緒に寝たり勉強を教えたりした。

そんな仲だから、中学の時の水樹とも仲の良い、部活仲間には〝キモい〟と言われながらも、お互いハグを自然としてしまう。

それは思春期になっても、そして大人になってもだ。


「ありがとう水樹。高城さん」


満面の笑顔で答えた。


「水樹ちょっと……」


母の美奈子が水樹を呼んだ。


「そんじゃ俺らも……後でな」


木本達も慌ただしく出て行った。

一瞬にして静かになった中に取り残されたのは、克樹と高城だった。

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