第4話 世界にとっての悪


「待て。待ってくれ。お前がここで死んだところで、どうにもならねぇんだ」


 途端に彼はうろたえ始める。


「幻よりも現実だって? こんなにもいい景色が広がっているのに、お前はそれを手放すのかよ?」


 あたりを見渡しながら、青年は苦々しく語る。


「俺はお前のためだったら、なんだってやってみせる。願いも叶える。不満だって抱かせない。お前には、似合わねぇんだ。あんな、殺伐とした世の中は」

「そちらにこそ、似合わない」


 だって、ルーク・アジュールは人を殺さないじゃない。


「この世界なら、人は死なない。滅ぼす悪も存在しない。理想的な世界とは思わない? だからこそ、この世界に固執してるんじゃないの?」

「違う。俺は……」


 明らかに動揺を見せた。

 彼は唇を噛んでうつむいて、顔に悔しさをにじませる。


「確かに俺は争いとは無縁の世界にいたんだ。退屈だって思いながら平和ボケしたりもしていた。ニュースじゃ殺人事件だなんだって言ってたけど、俺たちには関係ない。でも、なんだか許せなかったんだ。そういう非日常の要素とは無関係なところにいて、なにもできずにいる自分が」

「だから、求めたというわけ?」

「ああ。勇者の器として選ばれて、その呼びかけに応じたんだ」


 完全に素が出ているわね。

 仮面が破れた気配をしみじみと感じながら、私は真剣に彼を見澄ます。


「俺はきっと、争いを求めている。滅ぼすべき悪が目の前にいることに歓喜していたんだ。俺だって正義のヒーローになれるって、意識して、嬉しかった」


 青年は苦々しい想いを吐き出す


「逆なんだよ。俺はあの世界を求めていたんだ。絶対的な正義として悪を滅ぼせるあの世界を」


 なるほどね。

 平和な日常ではなにも起こらないけれど、事件を解決する能力も持たない。

 勇者として召喚された後の世界では、危険がともなうかわりに自分の力で全てを解決できる。

 でも、彼はどちらかというと、勇者としての自分に執着しているように思えるわ。


「お前は違うんだ。お前は、悪にはならねぇ」

「じゃあ、どうして、私は魔王に堕ちたの?」


 小首をかしげて、問いかける。


「お前には、正当な理由がある。復讐を選ぶだけの動機が、揃っていた。それだけだ……」


 それは、どうかしら。


 荒れた大地を流れる血を思い出す。襲いかかっては散っていった者たちも無念を想像する。

 私はありとあらゆる者たちの未来を奪っていった。それを罪と言わず、なんというのだろうか。


「私は死神よ」

「違う!」


 断固とした否定。


「君は普通の女の子だった」


 また、あの表情を見た。

 彼の眉間にシワが寄る。

 苦しそうに、だけど確かな意思を持った瑠璃色の瞳が目の前で光を放つ。


「俺は、知ってるんだ。お前たちは平和に生きたかっただけだって。そんなやつらが一方的に悪とみなされて殺される。迫害を受けて、町の片隅にまで追いやられて、それでも止まらずに。俺には、それこそ許せねぇんだ」


 負の感情を表に出さない彼が、眉をひそめて、今は目には見えない者たちを軽蔑していた。


「だけど、それを手にかけたのは勇者さまでしょう」

「そうだな」


 彼はまた視線を下へ落とす。

 それすらも許せないとばかりに、青年は大きく舌打ちをする。


「俺はいろんなやつを斬ってきた。背を向けて逃げる子どもを。仲間を守ろうとする人間を。そうしねぇと、未来が滅びるから」


 彼は魔王の正体を知らされていなかった。だから、片っ端から殺すしかなかったのでしょう。殺した分だけの呪いや怨念を背負うと知っていながら。


「俺こそが真の悪なんだ。これだけの罪を背負って、まだ止まらなかった。最後の一人になるまで、殺し尽くした」

「そして、最後に残ったのは私だったのでしょう」

「お前だけは、無理だったんだ。一緒に同じ時を過ごした、お前だけは」


 顔を上げて、遠くを見つめる。

 すでに日が沈んでいる。茜色の光が私達を照らしていた。


「限界だったんだ。どれくらいの人間を殺せばいいのか分からなくなって。でも、最後の一人だっていうのに手が進まなかった」


 青年はうつむく。

 その足元から長い影が伸びる。


 私は彼を許さない。同胞を殺し尽くして、私を封印した。そのような存在はきっと、償いきれない罪を背負っているのでしょう。


 でも、彼は勇者であり、私たちは悪。絶対に滅ぼさなければならない相手だった。たとえ一人ひとりに罪はなかったとしても、普通ではないというだけで罪になる。


 私たちは、世界にとっての悪だった。


「迷ってばかりだったんだよ。今も、ずっと。お前を殺さずに済む方法があれば、そうしたさ」

「無理でしょうね。神の力を使用するために、私たちはこの世界にとらわれているの。だから、私だけの力では脱出なんて不可能だわ」


 淡々と、事実のみを言葉としてつづる。


「だったら、それなら、もう、死ぬ以外に脱出なんてできねぇのなら」


 拳を震わせて、下をむいたまま彼は主張した。


「ここで暮らそう。平和な世界でずっと生きていこう。それなら、誰も傷つかねぇ。今のお前はなんだってできるんだろ」

「今の私なら、ね。可能だと思うわ」


 答えを、感情を込めずに口に出す。

 彼は顔を上げて、一抹の希望でも見出したかのような目で、こちらを見る。


「だったら、協力してくれ。誰も傷つかない世界を作る。ここを新しい世界に作り変えるんだ」


 彼の目は真剣だった。


 ルークは信じているのね。それで全てが得られると。

 でもね、残念だけど、答えは出ているの。


 私は伸ばされた手を払いのける。


「お断りよ」


 確かな目を見て訴える。

 彼は裏切られたような目をして、その場に立ちすくむ。


「言ったでしょう。私は幻よりも現実を選んだのだと」


 この世界は夢だ。

 自分の願いは叶うし、思う通りに動かせる。

 いわば、私は覚めない夢の中に閉じ込められているという感じかしら。


 だけど、そろそろ、目を覚ます時がきたのではないの?


「だから、さよなら」


 きっぱりと告げる。


 手のひらを宙に掲げる。


 目を閉じて念じれば、手のひらに魔力が集まってくる。


「なにをする気だ? 待て、やめろ」


 青年の声に焦りがにじむ。


 悪いけれど、その声には答えられない。

 私は全てを放出した。


 槍と盾のぶつかり合いで魔力をバリアに込めたときと同じように、全てを吐き出そうとしている。体から抜け出した魔力は結晶へと姿を変えて、地面へ転がる。


 体内に残した能力を使ってみれば、あっけなく結晶は砕け散った。

 青年は絶望的な表情で膝をつく。


「お前、本当に、やっちまったのか?」


 がっくりとうなだれる彼を見下ろす。


「ええ、手放したわ。神としての能力の全てを。これで私はなにもできない。全てを失ったのよ」


 神としての世界の権限はいまだにあるし、キャンパスも消失していないだろうけれど、無力になったのは事実だ。


「馬鹿野郎が……」


 私はその気持には答えない。そのタイミングはとうの昔に過ぎてしまっていたのだから。

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