第7話 鏡
いまだに心がどよめいている。
頭は正常に機能していない。高速で流れ込んできた情報をうまく処理し切れずに、混乱している。
一度、目を閉じる。まぶたの裏に、純白の騎士の姿が浮かぶ。先ほど脳内を巡っていった映像の中にも、彼が映っていた。勇者という役職を与えられた別人ではない。本人だ。サラサラとした金髪に瑠璃色の瞳。夕日に濡れた純白の刃も思い起こされる。
彼は確かに、自分の一族を殺した。証拠は脳内に残っている。もはや、言い訳のしようがないくらいだ。
真意は聞いていないし、聞く機会もなかった。
一つハッキリとしたのは、私たちは昔、敵同士だったという事実だ。
どちらが正しいのかというならば、当然勇者のほうだろう。彼は自身の役割を遂行しただけに過ぎない。私はそれに巻き込まれただけだ。
なおも立ち上がれずにいると、薄闇の中で小さな物が光るのが見えた。
冷たい地面に鍵が転がっている。手のひらに載せると軽くて、メタリックな質感をしていた。細長くて頼りないけれど、使えるのかしら。半信半疑で錠に差し込む。ガチャリという音がした。恐る恐る、鉄の扉を押す。本当に開いた。
いちおう助かったわけだけど、近くに鍵を置き忘れていたなんて、ありえるのかしら。
まさか、罠じゃないでしょうね。
警戒しつつも、外に出る。
じめじめとした空間からは離れて、明るい廊下へと身を
急に青白い光を浴びて目がくらみそうになったけれど、それどころではない。前方に警備の人間がうろついていたため、とっさに身を隠す。
ふー、危なかったわ。
現在は大きな柱の影から様子を見ているけれど、相手はこちらに気づいていないようね。
影が薄くて助かったけど、警備の人はなかなか去ってくれないのが、困るわね。
正面突破でもしましょうか。と、血迷った考えを頭に浮かべながら、振り向く。
後ろにも廊下があるじゃない。ちょうどよかった。こちらから逃げましょう。
気配と足音を消して、走り出した。
必要以上に磨かれた床が鏡のようで、
嫌がらせかしら。なんとなくいい気がしないので、やめてほしいのだけど。
即座に目をそらして、前を向く。
って、うわ! まずいわ、敵じゃない。
装備が先ほど歩いていた人と同じだったから、警備の者よね。しかも、私を見るなり、敵意をむき出しにして寄ってくるじゃない。
もう、面倒ね。
いつまでも固まったままでいたら、牢屋に戻されるわ。引き返しましょう。
無我夢中で駆けて、牢獄の前まで戻ってくると、警備兵が消えていた。
チャンスだわ。
しっかりと落ち着いて呼吸をしつつ、振り返ると、敵との距離は離れているようだった。
また前を向いて走り続けると、狭い通路を抜けて、開けた空間に近づいてくる。ずっと前まで、警備の人間が意味もなくウロウロしていた空間だわ。
なんとか引き離せそうだし、逃げ切れそうだ。
そう思うと、胸に希望があふれてきたのだけど――
嘘、行き止まりじゃない。
城の端までたどり着いてしまったのね。
高い天井と、延々に広がる吹き抜けが、非常にむなしい。
引き返そうにも、追っ手はすぐそこまで迫ってきているわ。
万事休すか。ピンチよね。
敵はフロアに散らばって、横一列に整列した。
彼らは武器を持っている。潜入したときと同じようにはいかないというわけね。いいわ、やってやろうじゃない。
壁際の照明から鮮やかな橙色の光が放たれて、私の顔を照らす。
心にはやる気が満ちる。戦士たちも、武器を構え出す。
いまにも戦いが始まろうかというとき、急に何者かに背後を取られたような感覚が背中に走った。
急にあたりが明るくなって、橙色の光が消し飛ぶような、真っ白な光が全体に広がる。
目を細めつつ、振り返ろうとする。
その前に、最初から前方を向いていた戦士たちに変化が現れた。
「あれは、まさか……」
「正体を映すとされる鏡が、なぜここに」
言ったそばから消失していく。
足元から透明になって、彼らの存在は風のように吹き飛ぶ。
一方で、私は状況を何一つ理解できずにいる。
なにが起こったというの?
どうして、戦士たちは消えてしまったのよ?
突然の展開に、頭がついていかない。
で、でも、混乱している場合でも、謎を解いている場合でもないわ。逃げなきゃ……。いいえ、目の前の敵は散ったわ。今は安全なの。下手に動けば、新しい敵に見つかる可能性もあるわ。
きっと、相手はなにかを見たのね。そのなにかとは私の背後にある。
彼らが見たものの正体を知りたい。
だけど、振り返ってしまえば、自分も戦士たちと同じ目に遭う。
しかれども、好奇心には敵わない。
私は振り返る。そして、背後に突如出現したものの正体を知った。
鏡だ。オパール色に縁取られて、内側は鋼の色を帯びている。床以上に磨かれているようだ。水面よりもはるかに鮮明に目の前のものを映している。まるで、壁一枚を挟んだ向こう側に、別の世界が広がっているかのようだ。
私は中央から目をそらす。端っこに映る廊下を、鏡越しに眺める。狭い通路には観葉植物が置かれていて、鮮やかな緑が真っ白な空間で異様に目立つ。広々としたホールには人の気配はなく、壁に設置された照明が夕日に似た色をした光を放つだけだ。
ああ、しかし――無視はできないか。
手前には、一人の少女が立っている。いいや、彼女は本当に少女だと……人間だといえるかしら。なぜなら、その顔には肉がない。皮すら消えて、骨だけとなっている。
例えるのなら、ボロボロのマントを着た白骨死体。
これが私、私だった。
ああ、やっぱり、そうだったんだ。
ガクッと、膝をつく。
マーブルホワイトの床に、真っ黒なワンピースの
ショックを受けなかったのは、薄々自分の正体に勘付いていたかもしれない。
かわりにむなしい風が胸をすり抜けていく。
「やれやれ、これでは僕が悪いみたいじゃないですか。せっかく、助けてあげたのに」
聞き慣れた、しかし一番聞いた声ではない、幼さの残る男の声。
次の瞬間、目の前にあった鏡は消えて、一人の青年の形へ姿を変える。
「僕はあなたをいじめるために、こんなことをしたのではありません。勘違いしないでください。勝手な誤解で好感度が下がるなんて、一番面倒な展開ですから」
悪びれもなく、涼しい顔で青年――イリュジオンは告げた。
「どうして、ここに?」
立ち上がって、目を丸くする。
私からすればなにもかもが唐突すぎて、頭が追いつかない。
そもそも、なぜフロアに鏡が出現したのか・なぜ彼が現れたのか――その二つの出来事の意味が不明のままで、うまく結びつかずにいる。
「僕は例の鏡の所有者です」
「それは正体を映す鏡と聞いたわ。覗き込めばなにかが分かるという代物かしら?」
先ほど見た、自分の正体を思い出す。骨の顔と体にボロボロのマント――死神としかいいようのない容姿の化け物だ。
――「お前は死神だ」
過去に全世界の人類を敵に回したときにかけられた言葉が、ふたたび耳の奥で反響する。
「僕の能力、分かりますか?」
「知らないわよ。ただ、強いということは分かるわ」
正直な話、私は彼に全く興味がなかった。
そっぽを向くと、彼も苦笑いをしたのか、薄い笑い声が耳に届く。
「強いだなんて、女王の側近だからといって、決めつけないでくれませんかね?」
「違うの? 私なんてあっさりとたたきつぶせると踏んでいたんだけど」
「いいえ、逆です。むしろ、あなたに殴られると僕のほうが一瞬で消し飛びます。だから、その拳もしまってくれませんかね?」
なにか、企んでるんじゃないでしょうね。
目と眉の間を細めて、じとーっと相手を見つめるけれど、なかなかボロを出してくれない。
仕方がないので拳をゆるめて、そっと背中に隠す。
「さて、なにから話しましょうか。いえ、最初は能力に関してですよね」
青年はわざとらしく空咳をしてから、ゆるやかな語り口調で説明を始める。
「そうですね。僕は誰にでも、物体にすらなれるという能力を持っています。だから空気と化して、あなたを追いかけることも可能でした」
「つまり、最初からずっと見られていたってわけ?」
「はい。ですけど、おかげであなたのピンチに鏡として登場して、守ることができた。感謝してもいいのではないですかね?」
恩着せがましいわね。
第一、相手が私を助ける意味が分からないわ。
「檻の中に入っていた鍵も、そちらの仕業?」
「正解です。僕はあなたに記憶を取り戻させるために檻の中に入れたのであって、危害を加える気は一切、ありませんでしたよ」
「嘘でしょ? 明らかに私を追ってきた人たちは殺しにきてたじゃない」
「ああ、あれですか?」
熱を持ってイリュジオンの説明を否定しようとしているのに、彼の反応は薄い。
「彼らはバカですね。下手をすれば、僕よりも無能です。女王の意思なんて気にせず、単純に邪魔なものを排除してようとしていただけですから」
「つまり、彼らは自分の意思で行動をしていたってこと?」
「そうじゃないんですかね?」
まあ、いいわ。今のところ、イリュジオンに敵意は見られない。なにより、戦闘力が低いという話を鵜呑みにした場合、軍配はこちらに上がるもの。もっと余裕を持って向き合ったって、問題はないわ。
「とりあえず、まだ分からないことがある。そちらの正体とか」
「僕ですか。そうですね……ありとあらゆるものになれるかわりに、誰か一人にはなれない……。そんなところでしょうか」
ん? ちょっと、難解すぎて分からないわ。
もっと、簡単に、ハッキリとした口調で言ってくれる?
首をかしげると、青年は視線をそらす。
やや難しそうな顔をしてから、ふたたびイリュジオンは口を開く。
「つまり、僕は何者でもないのですよ。あえていうなら、最初に作られた存在。人類の雛形。それから……全人類の意思の集合体といったところでしょうか」
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