第9話 バリア
朝になった。
丘での出来事以降はなにをしたのか、よく覚えていない。気がつくとミラージュの家にいて、昨日のようにベッドから起きてリビングで食事をしていた。
記憶喪失になったわけではない。頭には夜空の下で抱きしめられたときのことが思い起こされる。心に生じた、闇の中に灯がともって、張り詰めていたものが溶けるような感覚を覚えていた。
まだ衝撃が残っているにも関わらず、周りが平然としているため、いまいち実感が湧かない。ルークの態度に変化はないし、食事の最中も無言で食べ物を口に運ぶだけだ。まさか、全てをなかったことにするつもりなのかしら。
かくしていつものように一日が幕を開ける。
今日は盗賊を討伐する日ですって。村中が騒がしい。玄関を飛び出したときには、村人たちの準備が整っていた。
勇者であるルークが先頭に立って、みんなで村の中心を歩いている。戦闘員たちは各々の武器を持って、戦いに挑みにいくのだ。
私は無心で村の出口へ向かう彼らを見送る。
かすかに謎の言語を用いた呪文が耳にしみこむ。商店が建ち並ぶ通りの端で、戦場へ赴く男性を見送る女性や非戦闘員たちが、目を閉じて祈っていた。
「どうか、死後は幸福に……」
ダメだこりゃ。
すでに身内の死を確信しているじゃない。
心の中ではあきれながらも、私も村人の内の何名かは空へ旅立つと予想していた。
しかし、勇者が返ってくるまで退屈ね。
人目を気にせずにあくびをしていると、村の出口付近で、高い悲鳴が上がった。
一気に眠気が覚めて、頭がクリアになる。考える間もなく体が動いた。
おっと。
商店街にやってきたところで足を止める。
門の手前で見知らぬ少年がナイフを振り回していた。
薄汚い装備には清潔感はなくて、髪型も無造作だ。空いた手には宝石を握っている。
盗賊かしら。そっと建物の陰に隠れて、様子をうかがいつつ、眉をひそめる。
よりにもよって、今から戦いにいくというタイミングでくるなんて、バカじゃないの? 戦士たちに袋だたきに合うわよ。さあ、血に飢えた狂犬たちよ、早く相手になりなさい。って、いないわね。
ああ、面倒だわ。様子を見にいく程度の軽いノリで走ってきたのに、凶悪な相手と目の鼻の先だなんて、恐ろしいにもほどがある。
私、
じっと観察をしていると、盗賊がナイフを振り回す。清楚な格好をした女性が斬られた。真っ青な空に鮮血が舞う。
うわ、派手にやっちゃうのね。明らかに金目のものを持っていなさそうな人だったし、盗み以外を目的とした攻撃よね。
さて、状況が動く。
盗賊がゆらりと体の向きを変える。彼の血走った目は、小さな家の前に立っている少年に向けられていた。あの大した特徴のない顔立ちをした薄っぺらい服を身に着けた子どもは――ミラージュじゃない。
いけない。なんとかしなきゃ……。彼には家に泊めてくれたという恩がある。
一人で生きるのも結構だけど、自分の居場所くらいは作りたいじゃない。そのためになにができるかといえば、周りに貢献するしかないわよね。
ええい、やるしかない。ヤケよヤケ。私が倒れてもあとは誰かが勝手にやってくれるはずだもの。
私は勢いのままに飛び出して、盗賊の前に身をさらす。
「なんだぁ、お前?」
弱そうな少女を前にして、相手が眉間にシワを寄せる。
他人を助けるために現れた人物にしては、私が貧弱そうだからでしょうね。盗賊は笑みを浮かべて、冷ややかな目でこちらを上から見下ろす。
「おぉい、なにしにきやがったんだあああ?」
高圧的ね。
相手からは敵意を感じないし、舐められている。少しイラッとしたものの、不思議と怒る気にはなれなかった。低い評価を下されているであろうこと以上に、自分の存在に気づいてくれたという喜びのほうが勝る。
私って影が薄いわよね。そんな、まさか……こんな幸せなことがあるなんて。
興奮を隠しきれなくて、
もっとも、私が内心でなにを考えているかなんて、敵からは読み取れないわよね。
男はいかにも体を力を抜いていますという風に、だらりと動く。
一見すると酔っぱらいに見えるけれど、実際は目だけは深く澄み切っていて、正気だ。正常なまま狂っているというべきかしら。
悪いことだと理解しながら、自分の欲求のために刃を振るう――いいじゃない。たとえ人の道に反する行為であろうと、ルールでは『してはいけない』と決められていないのでしょう。
だけど、それとこれとは別なのよ。見過ごせないわ。
「失せろや、テメェェェ。どけえええ。さっさと散れやあああ」
うるさいわね。せっかく盛り上がってきたところなのに、水を差さないで。
似たような単語を三連続で並べて主張しなくても、私は相手がなにをしてほしいのかっていうことくらい、分かるのよ。理解した上であえて逆らうつもりなのだから。
とはいえ、戦場には場違いな娘の体ではなにもできない。剣を振るった経験もなければ、獣を狩って食べた記憶もないわ。ましてや人を斬るだなんて、不可能よ。もはや戦えないというのなら、せめて盾になろう。
そう、盾。盾か……。
青く晴れた空と同じ色をした結界が、頭に浮かぶ。
今は亡き黄金の杖を利用して発動させた、いかなる攻撃とて弾く結界だ。実際はあっさりと純白の騎士に破られたのはなかったことにするわ。バリアが弱いのではなくて、向こうが規格外なだけよ。普通の人間が相手なら、通用するのではないかしら。
「死ねやあああ」
ああ、分かったわよ。やるわよ、やるしかないんでしょう?
相手が問答無用でかかってくるのなら、私も全力で迎え撃つわ。
さあ、どうにでもなれ。成功か失敗。確率は五〇パーセントだ。
覚悟なら決まっている。昔は真っ黒でしかなかった瞳も、今は宝石のように輝くかしら。例えるのなら澄み切った星の輝く夜空のように――
「なんだぁ、テメェはあああ? 死んだような目しやがって。なにか? 死を恐れてねぇとでも言いてぇのかあああ? よぉし、分かった。覚悟しろ。バカにしやがって。俺ァな、刃を向けられてるのも関わらず平気な顔するようなやつが一番気に食わねぇんだよおおお!」
いえ、バカにしていたのはそちらのほうでしょうが。
というか、瞳の問題は解決していなかったみたいね。
まあ、どうだっていいわ。
目を閉じた。いつか聞いた、物語にある呪文を、記憶の奥底から引っ張り出すような感じで、心の中で言の葉をつむぐ。
脳内で一つのビジョンが浮かぶ。なにか、赤いなにかが記憶の中でうごめく。それは思い出というにはあまりにも禍々しい。残酷で
おそらく、私の正体は今見たものと同じなのでしょう。
もう、いいわ。今は盗賊を退けるために全力を捧げるしかない。世話になった人を守るために、力を尽くすしかないのよ。
そして、確率は一つに収束する。
目の前でナイフが折れた。相手の攻撃は黒い壁によって防がれる。いつか杖で出した青いバリアとは違う。黒く輝く宝石を薄く伸ばしたような見た目だ。
まさか、本当に出るとは思わなかった。それも黒なんて……まさしく、私の正体が『黒』であるといっているようなものじゃない。
ううん。首を横に振った。
現実から目をそらさずに、むしろ受け入れる覚悟を両の目に秘めて、前方を向く。
私の正体が悪だなんて、ろくでもない人間だってことくらい、最初から決まっていたことじゃない。
口元に苦笑がにじむ。
どんよりと、心の底によどみが貯まる。
「なんだあああ!? テメェ。意味が分からねぇよ。いったいなにを、どんな魔法を使いやがったあああ!?」
屈辱が声音に滲む。
ふふん、どんなもんだい?
腰に両手を当てて胸を張ろうとした瞬間、私の表情は強ばる。
やだ……、まだナイフを持っていたのね。
目は炎を出しそうなくらいギラギラと光っているし、額には青筋が浮かぶ。
先ほどまで握りしめていた拳は開かれて、天へ掲げたかと思うと、片手で取り出したナイフを両手で持つ。
きらびやかな宝石がいくつも地面を転がっていく。
やばい、怒らせすぎた。
プライドを傷つけた結果、手加減をしてくれなさそうな雰囲気になっちゃったわ。
冷静に状況を観察している場合じゃない。早く動かなきゃ、バリアを張る前にやられるわよ。いや、もう間に合わない。うわ、どうしよう。
「くそ
硬質ないい音をかき消すように、盗賊が断末魔をあたりに響かせる。
彼は体勢を崩すなり、いきなり地面に伏せてしまった。
はい? なにが起こったの?
私を殺そうとしていた人が、なぜ逆に倒れているのかしら。
目を白黒させていると、答えを教えるというように、純白の騎士が姿を現す。視界から消えた盗賊の影からひょっこりと。
「すげぇじゃん。君、魔法が使えるじゃねぇか」
「え?」
爽やかで落ち着いた声によって、意識が現実に引き戻される。
いつの間にか私はルークに両手を握られていて、周りに村人たちが集まっていた。
「やるじゃん。役立たずだと思っていたが、こんなところで役に立つとは」
「見直しちゃった。ひょっとしたら、戦力になるかもね」
「よし、行こう。さあ行こう。姉ちゃんも存分に働いてもらおうか」
なんという手のひら返し。
みんな、にこやかな顔で拍手をしている。昨日の邪険にするような、ゴミを見る目はどこへいったのかしら。もしかして、なにもなかったことになったわけ? 今褒めているから許してと言いたいの?
それと、戦いに参加するのは勘弁して。くさってもバリアは晴れるけれど、剣は握れないから。戦闘力は微生物並だからね。
なにはともあれ、一件落着。少年も無事でだっただしって……あれ? 彼がいないわ。小さな民家の前には人の姿がなくて、空白が空いたようになっている。反応なら一番に知りたかったのだけど、がっかりだわ。先に逃げてしまったのかしら。
眉をハの字に曲げたくなるけれど、逃げたのなら逃げたで構わないわ。
自分の感情の問題よりも、今は現実に目を向ける必要がある。
現在やらなければならないことといったら、盗賊団を潰すことでしょう。なら、簡単よ。勇者さまに丸投げすれば、私が出る幕もないわ。
楽な仕事になりそうね。と、片目を閉じようとしたとき、また遠くない位置で悲鳴が上がる。今度は野太い男性の声だわ。途端に周りでキャーキャーと騒いでいた村人たちも静まり返る。
また事件が発生したのだわ。場の空気が張り詰める中、門の外側から走ってくる影が視界に映る。悲鳴の主かしら。汗をいっぱいかきながら村に飛び込んで、すってんと転倒する。彼は地面に膝をつきながら、水を求める遭難者のごとく助けを求めてきた。
「た、助けてくれ。増援だ。あいつら、俺たちを全員つぶす気だ。なにもくれねぇからって、腹いせで」
「なんだと?」
うっそ……。
潰そうとしていたのはあちらも同じということ? 参ったな。不意打ちで潰すのならともかくとして、正面からやりあって、村人に勝機はないでしょう。
一難去ってまた一難。なんやかんやいって、この世界に安全なタイミングや場所なんて存在しない。村にとってのピンチはまだまだ続くのだった。
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