第2話 いいイノシシ
「そう警戒せずともよい」
先に口火を切ったのは、獣のほうだった。
「森の外へ案内しよう」
へ?
「おいおい、本音は油断させて食おうってんだろ?」
「バカ言え。
はあ、そうですか……。
いちおう、味方になったということでいいのかしら。
「森は
「でもさ、ほかのやつらって普通は俺らのこと襲わねぇか?」
「普通ではないことをして問題でもあるか?」
「や、別に」
となりにいる青年は非常に落ち着いている。
「この世界ではなにをしても自由なのだ。同族を食らうも敵を排除するのもな。したがって、
「なるほど。そうか、へー。そうなんだ」
「貴様、分かっておるのか?」
「分かってるよ。なるほど、つまり、そーゆーことか」
本当に分かっているのかしら?
私もイノシシの思考は読めないから、人のことは言えないけれど。
一つ言えるとすれば、目の前にいる獣がいい獣であるところくらいかしら。
相手に敵意がないと分かると、肩から力が抜ける。
ようやく木漏れ日が戻ってきて、薄暗かった森にやわらかな日が差し込む。
「さあ、ついてくるがいい」
「はいはい」
巨体が横切って、森の奥へ吸い込まれるようにして、遠ざかっていく。
私たちも相手を追いかけて、慎重に進んでいく。
ぬかるんだ地面に足を取られないように気をつけながら歩くと、あっという間に出口だ。イノシシが最短ルートで抜けられるように気を使ってくれたのかしら。
「いいイノシシでよかったよ」
「本当にそう。なんだけど、あなた、本当は戦いにならなくて安心してるんじゃない?」
「そりゃあ、そうだよ」
「怖いから?」
下手をすれば食われていたわけだしね。
口元をかすかにつり上げながら挑発してみると、ルークは無言で首を横に振る。
「殺生はしないって決めたんだ」
「誰とでも戦わないってわけ? じゃあ、それは飾りなの?」
彼の背負っている剣を指す。
儀式用じみた武具だ。装飾が
「本当は怖くて逃げ出したんでしょ?」
「バカ言え。俺があんなやつにひるむもんか。どちらかというと、食べたらうまそうだなとか考えていて、集中できてなかったんだぞ」
怪しいわね。本当は戦うのが怖かっただけだわ。イノシシを軽く見ているかのような発言も、強がりに決まっているもの。
さーて、いかにしてメッキを剥がしてやろうかしら。
悪巧みをするかのようにニヤついてみるけれど、策が思い浮かばない。
顔を上げると入道雲が
また、暖かそうな色をした雲は夕焼けのサインでもある。
先を急ごうと考えた矢先、急にとなりにいる青年が声を張り上げる。
「おい、あそこ!」
相手が勢いよく指で空気を貫こうとするものだから、気になってそちらを向く。
目を凝らしてみると、西の方角から荒れた大地を通って、すたすたと何者から歩いてくるのが見えた。
「気をつけろ。いいか、声は絶対に出すなよ! 張り上げるなよ! 金目のものとか持ってたら即座に飛びついて、盗みに来るからな!」
「たった今、大声を出してるのはどなた!?」
つられて声を張り上げる。
直後に、遠くに見えていた黒い影が動く。いや、消えた……?
サッという風の吹いたような音が、遅れて耳に届く。
次の瞬間、目の前に謎の男がいた。
残像が視界の中で揺れる。
だ、誰よ?
ヒッと、悲鳴にも似た身近な声が出ただけで、言葉にはならない。
相手の顔をまじまじと見る余裕さえ生まれず、硬直する。
反対に、相手はこちらを値踏みするような目で眺めたあと、視線をそらす。謎の男はそっと私たちの前を横切って、朱色に染まりつつある空へ向かって、威風堂々と歩いていった。
いったい、なんだったのかしら。
ぼうぜんとして立ち尽くしてしまう。
口はポカーンと開いているし、今の私はさぞかし間抜けな顔をしているのでしょう。ルークに指摘される前に直さなければ……。
「あああああああー!」
気を引き締めようとした矢先に近くで大声がしたので、体が震えた。
「いきなり、どうしたのよ?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。
「はあああー?」
あらあら。本当だわ。普段から背負っていたはずの剣が消えている。純白の鎧だけとなった背中には、どことなく寂しげな雰囲気がただよっていた。
まあ、高い値段がつきそうだった武器だものね。狙われるのは当然だわ。
「仮にも剣なのに」
「本当だよ。どっかの誰かさんのせいでな」
「私が声を出さなかったとしても、相手には気づかれていたわよ」
「自分のことを棚に上げて、なに言ってんだ?」
私たちは顔を近づけて、にらみ合う。
「盗まれたほうが全ての責任を背負ってよ。対応できなかった間抜けが悪いわ」
「誰が間抜けだ? だったらお前、やられてみろって。あんなん、無理だぜ?」
「知らないわよ。結果論でしょ?」
大声を出し合ったところで、体力を消耗するだけだわ。
とにかく、今は冷静にならないといけないわね。
「いい? 私たちはとりあえず、宿を取る必要があるのよ。こんな言い争いをしている暇はないの。だから、この件に関してはおいておきましょう」
「最初からそうすりゃあ、よかったんだよ。噛み付いてきやがって」
「イチイチうるさいわね。乗ってくるほうが悪いのよ」
ちょっとカチンときた。
眉間にシワを寄せつつも、怒りはぐっとこたえる。
とにもかくにも、やるべきことは互いに分かっているのよね?
森にはイノシシの見た目をした主もいるし、のんびりとしていたらあたりが真っ暗になってしまうわ。夜はさらなる危険が発生するでしょう。一寸先も見えない闇の中に閉じ込められる前に、安全を確保する必要があるわ。
でも、果たして本当になんとかなるのかしら。
私はぼんやりと、淡い色をした空を見上げた。
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