第4話


「時計も、ないみてぇだな」


 心の底からあきれたというように、青年はつぶやく。


「いつからだ。こんなことになったのは」

「そんなの、分かるわけないじゃない」


 冷静な彼に対して、私は肩に力を入れて、当たり散らすように答えた。


「だろうな。俺も正確なところまでお前が知ってるとは思わねぇよ。でも、真実ならつかんでいてもおかしくはねぇ。記憶を消されたか、洗脳されたか……」


 あごに指をそえて、青年は考え込む。

 一方で、なにやら物騒な単語が耳をかすめていって、脳内は凍りつく。いままでなんてことのないまま生きてきたけれど、急に雲行きが怪しくなっていた。自分はいったい、なにに巻き込まれているの? 不穏な空気はますます強くなっていく。


「お前は、どこまで知ってるんだ?」

「知らないわ。なにも」

「だったら、全てを知りたいとは思わねぇのか?」

「全てを……?」


 心が張り詰めていく。

 今の状態で、果たしてなにを知ればいいの? 残酷な真実ならば、ほしくはない。それでも、絶望の中に一|縷(る)の希望が見えるのなら、灰色に停滞した世界が変わるというのなら。

 いや……。

 一瞬だけ浮かんだ光を打ち消すように、首を振る。


「私たちはただ生きている。それでいいじゃない。それだけがあればいいの。全てを知ったところで意味はないかもしれない。だったら、せめて平和で暮らしたい。騎士さまだって、そう思うでしょう?」


 本音に嘘を交えて、両手を大きく広げて訴える。

 青年の態度は変わらない。

 重苦しい顔つきのまま、答えを返す。


「俺だって平和が一番だよ。戦いなんて本当はしたくねぇし、世界には必要がねぇんだ。でも、現実に背を向けたままじゃ、いられねぇだろ?」


 なにが、いいたいの? 

 一歩下がって、柱に背中をつける。


「お前は結局のところ、逃げてるんだよ」


 心の隙間すきまに、するどい現実が入り込む。

 実際は傷つけられていないのに、急所を射抜かれたような痛みが胸に生じる。

 私は口を中途半端に開けたまま、固まってしまう。

 違う。逃げてなんてない。ただ、ありのままに生きようとしているだけ。必要のないことはしなくてもいいと割り切って、不変を貫こうとしているだけだわ。

 口の中で叫ぶ。

 なにもかも否定したいのに、心の底では確かな現実が顔をのぞかせる。

 ああ、分かっていたのに。本当は全て、理解していたのに……。

 ええ、そうね。近くに転がっている謎から目をそらしているのは、事実だわ。だらだらと続く日常からも抜け出せないまま、ぬるま湯につかり続けている。

 もう、いやだ。

 急に泣きたくなった。私はもうなにもしたくないのに。

 現実を受け入れろだなんて、前へ進めだなんて、そんなことを強要しないで。


「私は強くない。全てを受け入れろだなんて、無理よ。私にとっては今の現実だけが全てなの。ほかはなにも知らなかったの。いいじゃない、それで。たとえ幻であったとしても、それに気づかなければ現実でしかないんだから」


 間違いではない。たとえあまい幻想であったとしても、夢で終わるとしても、すがり続けるしかないでしょう。

 ほしいものなら、目の前にあるのよ。普通の人間なら、大切なものを手放してつらい現実に戻るなんて、できないでしょう。

 たとえ、無意味なものだったとしても、現実のために全てを手放すなんて本末転倒だわ。


「でも、俺からすれば、この世界は幻想でしかねぇんだ。意味なんて、見いだせねぇよ」


 まっすぐに、ブレもせずに突きつけられた言葉に、愕然(がくぜん)とする。


「だからって、なにをするっていうのよ」

「神に会いにいく」


 即答を聞いて、カチンときた。


「違う世界へ進むつもり? やめたほうがいいわ。こことは違う世界は危険だって。争いが起きて、巻き込まれたら死んでしまうって」

「多分、そうなんだろうな」


 どうして、落ち着いていられるのよ。

 危険だと分かっていながら、進む気になれる理由が分からない。

 目の前にいる騎士と比べると自分がより小さくなったように思えて、居心地が悪かった。


「なにもかもがうまくいくなんて思ってねぇよ。元の世界に戻るためには、試練を受けるしかねぇんだろうな。そういうのは知ってるし、なんなら攻略してやろうって思うんだ」


 なにもかもがうまくいくなんて思わない。

 試練を受けるしかない。

 なんなら攻略してやる。


 精悍な顔つきのまま繰り出された言葉の数々に、苦笑する。

 迷いもなく自分の意思を貫ける騎士さまはきっと、強いのでしょうね。元の世界ではたくさんの戦いを勝ち抜いて、自軍に勝利を導いてきたはずだわ。

 一方で、こちらの心の問題はいまだに解決していない。

 目的地も進むべき方角すら見つけられずに、視線をあたりにさまよわせて、ついにはうつむく。


「私は、違う。騎士さまとは、違うのよ」


 振り絞るように、声に出す。


「知ってる」


 答えはすぐに返ってくる。

 決して否定せずに、ただ温かく、やわらかな口調で。


「君はそのままでもいい。楽な道へ逃げたって構わねぇ。戦いなんて、避けたって問題はねぇんだ。それが君の生き方だとするのなら、貫くのも悪くねぇよ」


 力強い声が、耳をかすめていく。

 心に生じた戸惑いの中に、かすかに光を見た。


「どうして、そんなこと言うのよ。わざわざ現実を突きつけて、逃げていると指摘して、いまさら、そんな……」


 顔をおおう。

 今にも崩れ落ちそうになりながら、深く息を吸った。


「どうかしてるわ。こんな言葉をかけるくらいなら、せめて、なにも知らせないまま終わりにしておけばよかったのに」


 青年の言葉が私を宙ぶらりんの状態においてしまった。

 戦うか逃げるか、強要をされずにどちらを選ぶべきかという選択をゆだねられて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

 ダメなのよ、私は。

 今の自分じゃ試練には立ち向かえないし、決断も下せない。反対に、騎士はこちらにはできないこともできると宣言している。

 私たちは、あまりにも違いすぎるわ。

 なぜ、彼は完璧なの? 

 影のなさそうな明るい顔をして、常に堂々と自分の意見を口にできる。それが間違いではないと心の底から思っている青年は、私にとっては邪魔なのよ。

 その輝きがこちらの劣等感を煽るのに、平気な顔で目の前に立ちふさがらないで。


「分かってる。解ってる。わかってるから。だから、行って。それ以上、その光を見せつけないで」


 強引に、騎士の手のひらに鍵を押し付ける。

 彼は最初は戸惑いを隠せずに間抜けな表情をしていたけれど、やがて全てを理解した様子で前を向く。


「そいつはいいんだけどさ。俺、どこへ行けばいいのか分からねぇんだよな。案内してくれねぇか」

「地下よ。行けばいいじゃない」

「いや、俺、方向音痴だし」


 軽々しく放たれた言葉に憤慨しつつも、全てをあきらめた。

 いくら方向音痴でも、普通は迷わないでしょう。

 まあ、いいわ。もう、なにもかもが面倒になってきたのだし。


「分かったわ。じゃあ、ついてきてよ」


 かくして私たちは地下に到着する。

 目の前には鉄の色をした巨大な扉が、立ちふさがっていた。


「へー、これが」


 感心したように巨大な扉を見上げる彼に対して、私は得意げに声をかける。


「なかなかのものでしょう? これが地下にあるって知ったときは、たまげたわよ」


 まさか、今になって利用する日がくるだなんて、思いもしなかったけれど。


「じゃあ、行くわよ」


 鍵を使うと、あっさりと開く。二つのドアノブをひねると、扉の内側から光が差し込む。

 まぶしい。ただし、太陽のように目がつぶれそうなほどではない。視界にとらえていると吸い込まれそうではある。


「じゃあな、答えは必要ねぇよ。俺はお前をどうにかするつもりはねぇって言っただろ? 後は勝手にやる。我慢してくれ」


 彼は、去ろうとしている。私を一人残して。

 私はなにも言えなくて。引き止める言葉なんて、繰り出せない。

 そうしたら、私が私じゃなくなってしまうような気がして。

 青年の姿が遠くなる。扉を抜けて外へ飛び出す彼の姿を見送って、ひざをつく。

 行かないでほしいと願ってしまった。

 生まれて始めて、孤独を恐れた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る