ア・ランフェンの事情 9

 どのぐらいそうしていただろうか。泣き声は小さくなり、胸に感じる重みが僅かに増した。

 いつの間にか剥がれ落ちたシーツの隙間から見える瞳は閉じられている。熱が上がったのか、頬が赤く染まっており、ランフェンはフミノを起こさないように、そっと寝台の上に横たえた。

 ぬるくなってしまった水を替え、固く絞ったタオルで涙に濡れた顔を拭いていく。熱冷ましの薬ぐらいなら、医師を通さずとも手に入れることは可能だろう。怪我の後に熱が出ることも多い為、騎士団に属する者であれば入手はそう難しくない。

 熱を計る為、フミノの首筋にそっと手を当てると、僅かに唇が開き、吐息を漏らした。

 手首にかかったその熱い呼気に驚き、ランフェンは慌てて手を引き抜く。彼女の熱に同調したように己の顔に熱が集中していった。

(別にやましいことなど、何ひとつしていない)

 言い訳がましく狼狽えている耳に、玄関の扉が開く音が聞こえて我に返り、ランフェンは部屋を出る。予想通り、母がこちらにやって来るところだった。

「帰っていたの?」

「ああ。時間が空いたので、様子を見に」

「ウミトさん、どんな様子?」

「今は寝ている。熱が少し上がったようだ」

「そう。私、午後から休暇を貰ったから、貴方はもう戻りなさいな」

「――わかった」

 よほど情けない顔をしていたのか、母が笑って己の背中を叩く。

 背筋を伸ばしてしっかりしなさい。

 子供の頃、そうやって背を叩かれたものだ。思い出して苦笑する。

 彼女を守ると決めたのだ。騎士として、出来ることをするべきだろう。

 聖女は王宮にいる。

 フミノがもう危険な目に合わないように、あちらの動向を把握する為にも、自分は王宮にいる方がいいはずだ。



 それからフミノは起き上がることなく、寝込んだままだった。

 時折目を覚ましては虚ろな瞳でくうを見ている。

 様子を見に行くと、掠れた声で名前を呼ぶので、こちらのことは一応認識しているとは思う。だが、苦しげに息を吐く様子を見るのは辛いものだった。

 やはり医者に診せるべきなのだろうか。

 この日までに解熱しなければと期限を設けた日の朝、ようやく彼女は目を覚ました。

「起きて平気なのか」

 近づくとフミノは笑顔を見せる。

 ずっと寝ていたせいで声が枯れているのだろう。咳きこんではいるが、それでも熱は下がったようで、ランフェンは安堵した。

 今日は母が出かけ、自分が家に残る日だ。そんな日に彼女が目覚めてくれたことを幸運に思いつつ、彼はフミノに魔石を渡した。

『魔石?』

「君が作っていた物ではないがな」

 彼女が家に居る間、王宮の自分と連絡が取れるようにと作っておいたものだ。喉を傷めているらしい今、使うにはうってつけだろう。

 すぐ眼の前にいる彼女と、魔石越しに声を交わすのは、なんとも不思議な気分だ。ずっと聞いていた声の主と、王宮で出会った聖女の身代わりが同一人物であるという事実にむずがゆくなりながら、会話を続けていく。

 現在、王宮内における彼女の立場は二分化している状況だ。

 聖女やその周囲が声高に叫ぶほど、偽者の聖女は国に仇なす行動を起こしてはいない為、フミノを完全な悪と見做みなす者が少なくなり始めていた。かつてのハセガワキラリを知る近衛騎士の中には、別人で納得したという声も多い。

『その辺りの境目がよーわからんのよね。私は私のままなのに、あの子が現れた途端、私はキラリ様に見えなくなるって、どういう魔法?』

「魔法……?」

 フミノの思考が漏れ聞こえた。釣られて呟いた言葉を捕まえて、問いかけられる。

『あの、ランフェンさんの目には、私ってどういう風に映ってましたか? 私のこと、どう思ってました?」

 私のことをどう思っているのか。

 そんな風に訊かれて、咄嗟に思い出したのは、泣き崩れる彼女を抱きしめた日のことだった。

 熱で火照った身体は腕の中に囲っても余るほどに小さく、シーツの隙間から見えた顔は己の胸元にある。

 閉じた瞳、涙に濡れた頬、熱い吐息を漏らす唇と、僅かに乱れた髪が汗に濡れて額や首に張り付いていた。

 強く心臓を掴まれたような感覚。これほどまでに何かを――誰かを守りたいと思ったことは初めてだった。

 その感情に名前を付けるとすれば、何なのだろう。

 自分は彼女をどう思っているのか。

 唾を呑みながら、問い返す。

「……どう、とは」

『今の彼女と比べても仕方ないかもしれないけど、それを差し引いたとしても、私とあの子は全然似てないと思うんですよ』

 するとフミノはそう問いかけてきた。

 ああ、そういう意味か。

 勝手に勘違いをし、落胆するのはどうなんだろう。

 なんとなくフミノに対して後ろめたい気持ちになり、少し休むように言いつけて、部屋を出た。しかし彼女の部屋で振動があり、慌てて様子を見に行くと、床に座り込んでいる彼女と目が合った。

 足を痛めているのか上手く立ち上がれないようなので手を貸し、寝台に座らせる。薬箱にある鎮痛薬を持って戻ると、フミノが上着の袖を引き上げて、腕を晒した。白い肌の至る所に大小様々な痣があり、手首辺りは赤黒く変色している。

 一体、いつ付けられたのだろう。斬られた形跡は無かった為、考えが及ばなかった。拘束した状況は一通り聞いてはいたが、女性を相手にここまで力を入れる必要がどこにあるというのだろう。

 腕がこの状態ということは、他はもっとひどいのだろうか。

 心が冷える。

 ランフェンはフミノに渡した薬を取り上げ、彼女の腕を取り、撫でるように塗り込んでいく。

「……痛むか?」

「……まあ、それなりに」

 呟いた彼女は、続けて言う。

「謝らないでくださいね。ランフェンさんは助けてくれたんです。来てくれなかったら、こんなもんじゃ済まなかったと思うし、そもそも生きてたどうかもわかんないし……」

 ぞっとするようなことを言われ、顔が強張るのがわかった。

 踏み込むのがあと少し遅ければ、そうなっていたかもしれないのだ。

 フミノはさらに、痣ぐらいは大したことはないと言いつのる。痣の有無に性別は関係ないのだと。

 誰かの庇護を持つだけで生活は出来ないと言う女性と初めて相対し、異界の女は本当に変わっていると思った。

 そして、悪くないと、そう考えたところで、背後から声がかかった。

「あら、そういう女性観だったのね」

 いつの間にか戻ってきたメルエッタが部屋の入口から覗いており、その声には、ひどく面白そうな感情が滲んでいた。

 手当てをするからと部屋を追い出され、ランフェンは居間で二人を待つことにしたのだが、さっき見たフミノの痣を思うと、胸が軋む。

 痣ぐらいと彼女は言うが、あれは「ぐらい」で済ませられるものではないだろう。あそこまで痕が残るからには、相当な力を加えられたに違いないのだ。

 近衛騎士の仕事としては、正しい行いである。それを責めることは出来ない。彼らは「聖女を騙った幻術使い」を拘束したのだ。得体の知れない術を回避する為には、抵抗する意志を確実に奪う必要がある。

 もしも彼女のことを知らなければ――。

 事前に母から話を聞いていなければ、自分だって同じように彼女に危害を加えただろう。

 想像して大きく息を吐いたところで、ゆっくりとした足音が聞こえてきて顔を向け、ランフェンは凝固した。

 そこにはフミノが居た。それはいいのだが、問題は彼女が身に纏っている服である。

 それは己が十代の頃に着ていた物だ。見覚えがある。服の所在など気にしたこともなかったが、おそらくそれは実家に置いてあったのだろう。

(どうしてそれをよりによって彼女に着せるんだ)

 ランフェンは母を睨んだ。

「仕方ないでしょう。新しく女性の服を用意するのは難しいのよ、今の状況では」

 それは半分本当で、半分は嘘だろう。さっきのこともあり、自分をからかっているに違いない。最近は忘れていたが、母にはこういうところがある。

 そこから話は、彼女がいかにして王宮に戻るかという問題に移行し、さらに恐るべき出来事を聞かされた。食事に毒を盛られていたのだという。

「何故そんなことが」

「まあ……女の敵は女ってことですよ」

 どこか他人事にように彼女がそう言った時、場に新たな声が加わった。

「顔のわりに、大人びたことを言うお嬢さんだな」

 入口を塞ぐようにして、伯父が――ア・ヘンドリックが立っていた。

 一体いつの間に侵入したのか。

 相変わらず気配が読めない人だ。

 伯父がここまでやって来たのは想定外だったが、遅かれ早かれ彼とは対面しなければならなかった。その場所が王宮ではなく、自宅であることは、こちらにとって悪いことではないだろう。

 食事を終え、話し合いを始めるに辺り、ランフェンはフミノに魔石を手渡した。

『大丈夫だ。あの人は敵にはならない』

『でも、あの、めっちゃ恐いんですけど』

『……それは否定しない』

 ぎょっとしたようにフミノが自分を見たことは気づいていたが、伯父の手前、平然を装う。彼との勝負はすでに始まっているのだ。彼女の為にも、隙は見せられない。

 しかし、伯父の放った先制攻撃は、ランフェンにとって想定外の物だった。

「で、もう結婚の証明は出したのか?」

「どこからそういう発想になるんですかっ」

「だっておまえ、メルエッタが随分馴染んでいるようだし、この時期に家に泊めて大事に護ってる相手といえば、ついに嫁さんが見つかったと思うのが普通だろう」

 鷹揚に構え、嬉しそうに言い放つ。そういう方向から攻撃してくるとは思っていなかった為、言葉を探しあぐねていると、隣でフミノが言い訳を始めた。

 だが彼女の思考はまた、段々と自身を追い込む方向へと暴走を始める。

 魔石を介して流れてくる思念は、単純な焦りから始まり、どんどん恐怖へと染まっていく。

『もし、また、あんな風に、人知れず始末されるような、そういう事態になったとしたら……』

「君はどうしてそうなんだ! 勝手に決めるな!」

 黙って聞いていられなくて、ランフェンはフミノの思念を遮った。驚いたのか、負の思念が霧散する。

「――わかった。悪かったよ。ちょっと見極めたかっただけで、おまえさんを追い込むつもりはなかったんだ」

 フミノの顔色から、さすがにやり過ぎたと思ったのか、ヘンドリックが早々に謝罪する。急に態度を軟化させた男に、フミノは訝しげな表情を浮かべた。

 そこから先の話は、ランフェンにとっても初めて聞く話だった。

 曰く、フミノにはハセガワキラリのかけた幻術が掛けられていて、そのせいで周囲は疑うことなく、彼女を聖女として受け入れていたというのだ。

 ハセガワキラリの魔法ならば、それも可能だろうと思うので、そこに関しては納得したものの、問題はそこではない。

 原因がわかっていながら何も告げず、状況の見えない敵陣に、何の力もない女性を単独で送り込んだことだ。ハセガワキラリの目的を探る為、彼女を利用したことなのだ。その結果、どれほど傷つけたと思っているのだろう。

「……何故それを彼女に告げなかった」

 知らず、ランフェンの声が低くなる。対してヘンドリックの方はといえば冷静なもので、甥の怒りを受け流している。

 怒りのあまり目つきすら変わっている息子を見て、メルエッタが仲裁に入った。

 妹が介入したことで、ヘンドリックの方も落ち着いたのだろう。フミノに対して謝罪をし、彼女もまたそれを受け入れている様を見て、まったく彼女は人が良すぎると、ランフェンは嘆息した。

「私の代わりにランフェンさんが色々言ってくれたし……」

「そうだな。あんな風に怒るのは初めて見たな。おかげでよくわかった」

 一体、何がわかったというのか。

 最初の発言からなんとなく想像はついたが、ランフェンが一応問いかけてみると、案の定ニヤリと笑ってヘンドリックは答えた。

「おまえが、このお嬢さんを大事に思ってるってことがだよ」

「あら、やっぱりそうなの?」

 母までも便乗して身を乗り出す様を見て、よく似た兄妹だとランフェンは頭を抱えたのだった。

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