ア・ランフェンの事情 8
外に出ると、ウミトが驚いたように呟く。
「……夜」
「そうだ。人目が少なくなる時間まで待っていた。だが、あのような事が起きているのならば、待つべきではなかった。本当にすまない」
「別にラン隊長が悪いわけじゃ」
「だが――」
言いかけた時、どこからか声が聞こえ、咄嗟に身を潜めた。ウミトは何も言わずそれに倣い、背中に隠れる。ここに長居するよりも、安全な場所へ連れて行く方が先だろう。
ランフェンは周囲の気配を探りつつ、なるべく人目を避けて城外へと出ると、脇道を通って家へ急いだ。
彼女は大人しく付いてくる。
外灯に照らされてわかったが、随分とひどい格好だった。服は土にまみれているし、髪も乱れている。頬にも土がこびりつき、ところどころ血が混じっていることに憤りを感じた。
この怒りは、あの牢で彼女に手を出そうとしていた男に向けられたものであり、同時に自身にも向けられたものだった。
(もっと早く行くべきだった……)
会話もないまま家に辿り着き、扉を開けると、待ち構えていたかのように、母が姿を現した。名前を呼び、抱きしめたかと思うと、慌てて解放する。
「こんなに冷えて。早く温まらないと。ひとまずお上がりなさい」
玄関先で衣服に付着した土を払い、手を引いて居間へと案内していく。湯に浸して絞ったタオルを手渡して顔を拭かせ、毛布を背中にかける。その後台所へ引っ込んだかと思うと、湯気の立つスープを持って戻ってきた。
あの様子では食事すら与えられていなかったのだろう。ウミトはほっとした顔をして、顔を綻ばせた。
やはり母を呼んでおいて正解だった、とランフェンはしみじみ思った。己一人では、彼女をこんな風に安心させられなかったに違いない。
食事をする彼女に、母と交互に現状を説明していく。その中で、ランフェンがウミトが身代わりを務めていることを知っていたことを告げ、ようやくきちんとした謝罪を行うことが出来た。
驚いていたようではあるが、特にこちらを責めるようなことはしない。それどころか、この家に居るのは迷惑なのではないかと言い出す始末だ。他に行く場所などないだろうに、どうするつもりなのだろう。
だが、ここでも母が強引に話を推し進め、家に留まることを半ば強制的に了承させてしまう。無事な姿を見て安心したこともあるのだろう。部屋の準備をすると言って、足早に居間を出て行く姿を見送りながら、ランフェンはウミトに対し、本日何度目かの謝罪をした。
「――母がうるさくてすまない」
「別にうるさいとは思いませんよ。なんだか新鮮です」
「新鮮?」
「お母さんって感じで。私には男兄弟がいないので、世の母親が息子にどう接するのか知りませんけど、あんな感じなんですかね」
言われ、ランフェンは愕然とした。
彼女は異世界からやってきた「人間」だ。
彼女にも両親が居て、今日まで育ってきた環境があるという当たり前の事実に、今になって気づいたのだ。
「……考えてみれば、君にも家族がいるのだな」
何もわかっていなかった。
理解しようとしていなかった。
情けなさに反吐が出そうな気持ちになったのは、彼女が翌日から熱を出したことで、さらに拍車がかかる。
「寝てればいいんですから、平気ですよ」
「だけどウミトさん――」
「今の状況で、いつもと違うことをするのよくないですよ。普段通りにしていた方がいいに決まってます」
きっぱりと宣言されては仕方がない。たしかに彼女の言うことは正しかった。
王宮に客が増えたせいで母の仕事は増えているし、ランフェンもまた同様だ。自分はまだ他の誰かに仕事を変わってもらうことも可能だが、母の場合はそうはいかないだろう。
出勤してまず確認したのは、偽聖女が消えたことが露見しているか否かだった。
王宮での申し合わせによると、第二師団の一人が様子を見に行った際に発覚したが、使用人達への周知はしないようにしているという。妖しげな幻術を使う人間が徘徊していると知れば、彼らを怯えさせることになり、仕事に影響を及ぼしかねないという理由だった。本人を知っていると、一体どこの魔女の話なんだと言わんばかりの誇張具合である。
例の二人の男は朝になってもまだ目を覚ましていなかったらしく、今は別の牢に入れられているらしい。いずれ彼らにも尋問が行われることだろう。その際、自分の顔を覚えられているかが問題だったが、たいした明かりもない中、目を合わせるより前に昏倒させているのだから、大丈夫だろう。もしもの時は適当に言い逃れるだけだ。
騎士団の詰所で報告書類を確認していた時、胸元の内ポケットに異物を感じて取り出してみると、紙に包まれた何かが出てきた。
身に覚えのない物だが、懐に入っているということは、自分が入れた物に違いない。
(――昨日、牢の床に落ちていたものか)
ウミトを救出した際、足元に転がっていた物だ。遺留品があっては足がつくと思い、咄嗟に内ポケットへと入れたような気がする。後で確認しようと思いつつ、家に帰った後は服を脱いでしまったので、今の今まですっかり忘れていたのだ。
あの牢では何かわからなかったが、こうして明るい光の下で見ると、特にこれといった特徴のない物だ。
あの男が落としたのだろうか?
土で汚れてしまった紙を剥がし、中を確認したランフェンは、息を呑んだ。
中から出てきたのは小さな石だった。問題なのは、紙の内側だ。
そこには魔法陣が書かれている。ただの魔法陣ではない。声を転移させる通信魔法の陣だ。
慣れていない人間が書いたであろう術式。右下に設けた空白に書かれているのは、女性の名前。
ランフェンは椅子を蹴って立ち上がり、部屋を飛び出した。
急用で仕事を抜けるという言葉を疑うことなく信じ送り出してくれたのは、ランフェンの顔がよほど深刻だったからだろう。後のことを副隊長のルケアに任せ、ランフェンは家路を急いだ。
頭の中は混乱している。
どうしてウミトがこれを持っているのか。
彼女はフミノと知り合いなのか。
だが彼女は聖女として王宮で過ごし、城外へは一度も出ていないはずだ。接触できるのは王宮内だけだとすれば、フミノは王宮に勤めている誰かということになる。
考えたことがないわけではない。簡易的な魔法陣が繋がったことを考えると、そう遠い場所ではないだろう。地方出身の者であれば、王宮に部屋を借りている可能性もあるのだ。
家に辿り着き、扉を開けたところで、誰かの声が微かに聞こえて、警戒が走る。
彼女一人になってしまう為、侵入者対策に守護の陣を張っている。敷地内に誰かが来れば反応が出るのだ。調べたところ、何の形跡もない為、この家にいるのはウミト一人のはずである。
ランフェンはゆっくりと彼女の居る部屋へ近づくと、次第に内容も聞き取れるようになってくる。
「暖房魔法みたいなんがあるんかなぁ。――すごいなぁ、なんでもありやな魔法って――」
扉の前に来た時に聞こえたのは、そんな言葉だった。
どこかで聞いたような不思議な話し方と、抑揚のついた柔らかい声。
「――君は……」
「はい!?」
床に座っているウミトが悲鳴のような声を上げる。いつから此処に居たのかという問い対する答えも、上の空になっていく。
どうして今まで気づかなかったのか。
姿を捕えず、耳だけで受け取ってしまえば、それは明らかだったのに。
ランフェンは震える声を抑えながら、眼前の彼女に問うた。
「……君は、どこから来た?」
「どこからって……」
「昨日、君が囚われていた牢の床にこれが落ちていた」
握りしめて熱くなった石を手渡す。
石に宿った熱は己の中にも未だ
「君の話し方はとても独特で、王都では耳にしない。だが――俺には耳慣れた声だった」
落ち着く為に呼吸を整え、乾いた唇を湿らせながら、再度問いかけた。
「――フミノ」
途端、目の前の女性が小さく息を呑む。
「君が、フミノなのか?」
「……ヴラン、さん?」
この世界でたった一人しか知らないその名を耳に捕えた時、彼の心臓は一際大きく音を立てた。
どくどくと脈打つ鼓動を身の内に感じながら、ランフェンは床にへたりこんだ彼女に声をかける。
なにやら顔が赤い。発する言葉もあやふやだ。
熱が上がっているのだろう。横になるように促すと、のろのろと重そうに身体を上げて、寝台の上にうつ伏せとなる。
「本来なら医者に
「わかってます」
「すまない」
「謝ることじゃないって、昨日から何度も言ったような気がするんですが」
母親曰く、彼女は妙に低姿勢で、自分を下に置くことが多いのだという。こんな時まで自分を貶める必要はないだろうに、それが自分の性分なのだと呟いている。
一度横になったことで少しは落ち着いたのか、フミノが身体を起こした。ランフェンは傍らに置いてあった桶からタオルを取り、水気を絞って手渡す。それを何度か繰り返しながら会話する中で、ハセガワキラリの日記を読んだのだと聞かされた。五年前のことを、一体どういう風に記しているのか。想像したくない。
「あの、ランフェンさん」
フミノが唐突にそう呼びかけてきて、ランフェンはまたも心臓を跳ねさせる。
ヴランであったり、ラン隊長という呼称であったり、今までも彼女に呼びかけられてきた。けれど、ランフェンという名で呼ぶのは、近しい者だけだ。渾名ではない、本当の名前を許せる人間は、そう多くはなかった。
「ヴランって名前で呼ぶのもどうかと思ったんですけど、あの、嫌なら止めますからっ」
こちらの動揺を悟ったのだろう。フミノが慌てて言葉を重ねるが、相変わらず彼女は普通では量れない考えの持ち主だ。異世界の者であると知った今は、これまでの突拍子もない考え方にも納得がいく。
つまり彼女は、この世界において「名を呼び合う」ことの意味や、「名を許す」ことの意味を知らないのだ。
やっぱり止めます――と言いかけた彼女を、ランフェンは遮る。
彼女に名を呼ばれることに不快感はないのだ。ただ少し驚いただけで、嫌な気分になどなろうはずがない。
「構わない。君がフミノと分かった今、隊長と呼ばれるのは居心地が悪い気がする。たぶん俺は、君と話をしている間は、第四師団の隊長ではなく、ただの一人の男だった。なんの肩書きもない一人の人間として、君と話す時間が楽しかった」
「……私もです。あの時だけ、私はフミノに戻れる。こっちの世界に来て、誰も私を知らなくて、聖女だキラリ様だって言われる生活で、自分が誰なのかわかんなくなってて。そんな時、ヴランさんだけが私をフミノって本当の名前で呼んでくれた。だから私は自分を無くさずに済んだんです」
ランフェンの言葉に、フミノはそう応えた。
彼女もまた自分と同じ気持ちを抱えていたのだと知る。
「ありがとうございます。私、ずっとずっと感謝してたんです。でも意味なくお礼言うのも変だから言えないし。本物が見つかった話が出てからは、部屋の魔法陣が使えなくなったらどうしようってそればっかり考えて。だからこうして簡易の魔石の作り方を聞いて、良かったって思って。そうしたら、私がこの世界から消えることになっても、最後にお礼が言えるから……」
フミノは言葉を綴るが、その声は次第に揺れ始めた。
目線が下がり、ついには床を向いてしまう。
「牢屋に居る時も、助けられたんです、これに。寒くて寒くてどうしようもなかったけど、これすごく温かかった。あの変な男が寄ってきた時もそうです。幻聴が聞こえたんです。末期症状。駄目なのに、きっとずっと心の中で呼んでて、聞こえるはずないのに呼んでて――」
こちらを見ようともせず、半ば自分自身に訴えかけるように呟き続けるフミノの声は、途切れ途切れとなり、涙が混じり始めた。
その時、ふと脳裏に蘇ったのは、以前のやり取りだ。
声でしか推測できなかったあの時も、彼女はこんな風に打ちひしがれ、泣いていたのだろうか。決して認めようとせず、誰にも告げず、たった一人で――。
ランフェンは部屋の隅に畳まれた予備のシーツを広げ、フミノの身体を頭からすっぽりと覆う。泣き顔を見られたくないというのであれば、こうして隠してしまえばいいのだ。
シーツの下で頭を上げたのがわかる。咄嗟にその身体を引き寄せると、あっけなく彼女は腕の中に収まった。
「……フミノ」
上手い慰めの言葉など、知らない。
湧いて出てきたのは、彼女の名前だけだった。ビクリと肩を揺らしたフミノは、やがて小さく囁いた。
「……怖かった」
たった一言。
その当然ともいえる感情を口に出すことすら、彼女はずっと耐えていたのだ。
助け出した際、礼を述べることはあっても、思えば彼女は自分の感情を吐露したりはしなかった。そうすれば、周囲に心配をかけるからだろうか。迷惑じゃないかと、いつもそんなことばかり気にしている。
怖かった。
何度も何度もフミノは呟き、身体を震わせる。
怖い、嫌だと繰り返す彼女を抱く腕に、自然と力が入る。
フミノは驚くほどに小さかった。思いのままに強く抱きしめたら、潰れてしまうのではないかと思うほどに。
力なく己の身体を預ける重みが、彼女の存在を強調して、何故だか胸が苦しくなる。呼吸もままならない。こんな苦しみの何倍もの痛みを、彼女は味わったはずだ。
だから、もう同じことは繰り返さない。
あの時決意したのだ。フミノが次に泣くようなことがあれば、必ず自分が守ると。彼女の傍に立ち、彼女の力となると決めたのだ。
泣き続けるフミノをぐっと抱き寄せて、ランフェンはシーツ越しに、彼女の名前を何度も何度も呼んだ。
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