30. 小林文乃の冒険
そこは通称「森林地帯」と呼ばれている。
何の因果か、名字に「木」を含む者ばかりが在籍しているせいである。
これはもう、総務部が意図的に配置しているのではないだろうかと、誰もが疑っているのは無理からぬことだろう。
「田村さんとか居たら、肩身狭いっすかね」
「木辺だからある意味セーフじゃね?」
「ああ、部首。それ含めたら範囲広いっすね」
そう言ったのは、新入社員の林。会話の相手は、彼の二年先輩にあたる森。ちなみに二人の直属上司は竹林という。
そんな会話を耳にしながら名簿の見直しを行っていた小林文乃は、エクセル上に生えまくっている「木」の並びに今更ながら感心する。よくもこれだけ集めたな、という気持ちもあるが、同じ一文字を使った漢字の種類と、別の字を組み合わせた名字のバリエーションの多さに感心するのだ。
なんということでしょう!
語尾に感嘆符をつけたくなる。
「小林さん、田宮への依頼の履歴って、どっかにあったっけ?」
「基本、紙ベースなんですよねー。それじゃわかりにくいんで、エクセルにまとめてるんですけど」
「それ、どこに入っとる?」
「あー、私が勝手に作ってるんで、私のローカルに。どっかにフォルダ作って入れましょうか?」
「マジで?」
「とりあえず、うちのキャビネットの――、フォルダ作りましょうか。データ系まとめたやつ。他のとこも、この際一緒に入れてもええと思いますし」
「頼んだ!」
「リンク先、メールしますね」
「ついでに他のリーダークラスも宛先入れといて」
「了解ですー」
声をかけてきた藤森主任は、掛かってきた携帯を受ける為、その場を離れる。文乃はデスクトップのショートカットを使い、社内イントラの部内キャビネットにアクセスする。少し考えた後に、業務用フォルダの中に他社依頼と名付けたフォルダを作成して、己のドキュメントに保存してある一覧表をドラッグして放り込んだ。ついでとばかりに、田宮運輸以外に取引のある会社のデータも同じフォルダへ格納する。作成したフォルダへのリンクを貼ったメールを、主任を含めたリーダー職の六名宛に送付したところで、席を立った。
エアコンの風が身体の片側に集中砲火を浴びせるので、左側だけ冷えて仕方がない。外から帰ってくる人の為にもあまり温度を上げられないところがあるのだが、冷え症の彼女は薄手のカーディガンを羽織っては脱ぎ羽織っては脱ぎを繰り返している。だが、今日はいつも以上に冷気が襲ってくるような気がして、こっそりと設定温度を確認に立ったのだ。
「二十一度とか、下げすぎやろ」
上げたろか――と胸中で呟き設定パネルに指を乗せた時、扉を開けて誰かが戻ってきた。
まずいところを見つかった気がして一瞬固まった文乃を見て、男性は首を傾げる。
「文乃さん、何固まっとるん?」
「いや、ちょっとビックリしただけで」
あははと空笑いを浮かべる彼女に、彼――鈴木は天井を見上げて、手をそちらにかざす。
「エアコン、寒い?」
「二十一度ですよ、なんぼし寒いでしょ」
「えんじゃない、上げても」
「かまんのんですかね?」
「ええけん、上げとかんかい。やったもん勝ちや」
そう言うと、文乃の横から手を伸ばし、躊躇なくボタンを数回押す。クールビズの設定温度では蒸し暑く感じるのが常だが、二十四度は中間温度としては及第点だろう。寒すぎず暑すぎず。
午後になり、詰所に人が戻ってくる頃、なんとなく集まって飲み物を手に雑談をするのが、この部署の習慣だ。
別に強制しているわけではないので、参加しない人は参加しないし、日によって集まるメンバーも変動する。業務の都合があるからだ。
小林文乃は、そこに自分の机がある関係で常に在籍メンバーではあるのだが、参加しているというわけでもなく、耳を傾けつつも仕事をしたりしなかったりだ。その日は誰かの出張土産があった関係で、それを目当てに人が集まり、いつもの倍ぐらいの人数と化していた。
配られた東京土産をありがたく頂戴し、ミルクティと共に頂きながら会話を拾っていると、本日の話題は「お盆休みについて」だった。
今年のパールウィークは四日間なので、あともう一声欲しい! といった内容である。
それに際し、パールウィークってなんすか、という声があがり、ゴールデンウィーク・シルバーウィークの亜種だと誰かが説明する。金銀の次は銅じゃないんすか? と不思議そうに言われ、団体の意見が二つに割れた。
「マジかよ、金銀ときたらパールやろー」
「金メダル銀メダルの次は銅じゃないっすか」
「いや、メダルの話じゃねーよ」
「金銀パールプレゼントを知らん、だと?」
「プレゼント?」
「あれ、何のCMだっけ。小林さん覚えとる?」
離れた位置にいる文乃に質問が飛んできて、彼女は思案しつつ答えた。
「なんでしたっけ? 洗剤とかだったような気ぃするけど」
「あー、なんかそんなだったわ」
「それでつまり、プレゼントってなんすか。宝石くれるんですか?」
「よく知らん。ただ妙にそのフレーズだけが頭に残るんだよ」
「ありますねー、そういうの」
ジェネレーションギャップに
今年はカレンダーの回りが悪いのか、祝日を損していたり飛び石連休だったりで、まだ先の話ではあるけれど、年末年始も最短休みである。
パールウィークって言い出したのは、果たしていつからだったか。数年前にあったお盆休みが怒涛の一週間だった時に、誰かが他の長期休暇にあやかって名前を考えようと言い出したのだ。この雑談タイムにそんな話が出て、翌年からうちの部署では冗談まじりに「パールウィーク」と称している。
(お盆休み、か……)
その時期になると、小林文乃はいつも思い出す出来事がある。まるで長い夢のような、それでいて一瞬の出来事を。
引き出しを開けると、貴重品を入れたカバン。
その中を探って小さな巾着袋を取り出すと、他の誰かに見えないようにこっそりと中身を出してみる。
いつ見ても変わらない、青みを帯びた天然石。研磨され、表面には綺麗な模様が走っている。一緒に入れてあるのは、もっと深い青をした小さな石。こちらはショッピングモールの店先で投げ売りされていた屑石だ。とても綺麗なのだけれど、小さすぎるのと、僅かな傷のせいで商品としての加工が難しいらしい。
けれど彼女は、この青に惹かれた。
知っている人の瞳を彷彿とさせる色だったからだ。
他のどれでもなく、埋もれた中にあったソレを握り、迷わずレジへと向かった。それはきっと石に呼ばれたのだと思う、そんな出会いだ。同店で、石を入れるのに適した巾着袋も購入し、所持していたもうひとつの石と共にいつも持ち歩いている。
家に飾ってあっても意味がなかった。ほんの少しの変化も見逃したくはないという気持ちがある。
我ながらおかしな話だと、彼女は自嘲する。空想するのは好きだけれど、夢は所詮、夢でしかないのだ。
人差し指でそろりと石の表面を撫でる。意思を持って、施された模様をなぞってみる。部屋の空気に触れたせいか、さらにひんやりと冷たく鎮座するせいで、石を乗せた手がかじかむように痺れてくる。
苦笑して、石を袋に戻してカバンの中へ。引き出しを閉めて、席を立った。
今度はホットコーヒーでも飲もう。冷えた手の平を温める大きな手は、ここにはないのだ。
毎日の業務は特に大きな変化はなく、変わり映えのない日々だといえば、そうなのだろう。
それで良いと思っていたし、目立つことが昔から苦手だった。集団の中に埋もれる存在だったし、はみ出した存在になることを恐れてもいた。
自己主張の乏しい社会人でも、組織の歯車の中でそれなりに生きていけるので、現状にさしたる不満はない。裏を返せば、望みもないということだ。
何かを必死に望むことはないと思っていた。物欲が薄いので、無ければ無いでなんとかなるのが自分だったからだ。
強く願えば叶う。
思いの強さに比例して、大きな力が生まれる。
あの世界のように魔法と呼べる不思議な力は存在しないし、超能力に目覚めたわけでもないので、何かが大きく変わったわけじゃないけれど、それでもほんの少しだけ気持ちに変化は訪れたと思っている。
まあいいか、と諦めていたことに、ちょっとだけ執着してみたりする。
買うか買わないか迷ったあげく止めてしまった物を、思い切って買ってみたりする。
入るのを躊躇っていた小奇麗な喫茶店の扉を開き、ちょっとした満足感を得てみたりもする。
ああしよう、これをやってみよう。
意欲を持つことで、世界は変わる。圧倒的に輝くと言えるほどキラキラした気持ちはないけれど、気持ちが高揚する程度の喜びは胸を温める。
他人に言うと大げさだと笑われそうな小さな事だが、彼女にとっては有意義なことだった。
何でもいいから、自分を誇れるようになろうと思ったのだ。そうでないと、合わす顔がないではないか。
魔石と呼ばれた石は、ここではただの綺麗な石だ。魔法陣も単なる模様にすぎない。
移ろう日々に記憶は流されていくけれど、この石と現代日本では出番が無さそうなドレスが、あの世界を夢から現実になんとか繋ぎとめている。あちらに残してきてしまったソーラー電池の腕時計も然りだ。
新しく買った腕時計を眺めると、時刻は夕方。定時まではあと三十分ほどだ。もうひと頑張りいたしますか。
待っててくれ――
最後に聞こえた声を繰り返し思い出しながら、日常を生きる。
それが小林文乃の冒険だ。
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