18. 長谷川きらりの安寧
私は相当疲弊していたらしい。
赤の他人に成りすます日々と、そこに寄せられる期待と応えられない不安に押しつぶされる重圧は、自覚しないまま蓄積していたのだろう。
溜まりに溜まりきった疲労は熱となってついに表面化し、私は数日間、朦朧としていたようだ。
ここに来た翌日、ヴランさん――もとい、ランフェンさんの前で醜態を繰り広げた後、一体いつベッドに横になったのかすら覚えていない有様である。
そんなわけで、ようやく熱が落ち着いたらしい今、私は頭を抱えている。
いい年こいてあんな風に泣いて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃであろう顔を晒して、どの面下げて会えばいいのか。
(無理。恥ずかしすぎて無理……)
枕に顔を埋めていると、ドアがゆっくりと開く音がする。
「ウミトさん、大丈夫ですか?」
おはようございます。
発した言葉はしかし正確な音にはならず、
メルエッタさんもまた驚いたのか、こちらに駆け寄って膝を付いた。
「大変! とりあえず水を飲んでくださいな。それから無理に喋ろうとせず、喉を休めてくださいませ」
手渡されたコップに注がれた水をちびちび飲む。飲んだ先から喉が痛い。唾が喉を通る感覚さえ苦痛を伴うこの感覚。風邪の症状ってどんな世界に来ても同じらしい。
「食欲はありますか? 食べられそうなら何かお持ちいたしましょう。いつ目覚められてもいいように、用意はしてあるんですよ」
お腹具合を己に問うが、答えは否である。
首を振って否定すると、メルエッタさんは「では何か喉を刺激しない物を考えましょう」と言い、立ち上がった。大丈夫ですと言いたいんだけど、まともな声が出てこない。
出て行く背中を見送って、私は小窓の方に目を向ける。
カーテンの向こう側は明るいので、今は朝、もしくは昼。――ひょっとして夕方? とりあえず、夜じゃないことはわかった。
さて、私は一体何日寝ていたんだろう。自覚するかぎり、熱は下がっていると思う。身体は熱いけど寒気がするという、よくわからないジレンマからは脱却している。
再びドアが開いたので振り返ると、そこに居たのはランフェンさんだった。
私は凝固する。まずい。まだ対処方法を決めていない。
おはようございますと言いかけて、今度は音にすらならずに
「起きて平気なのか」
こちらに駆け寄って膝を付いた
「大分顔色が良くなったな」
まじまじと見られると妙に恥ずかしい。私はこんなにも気まずい思いを抱えているというのに、この御人はいつもと何も変わらない。むしろ王宮で会話していた時よりもずっと柔らかい表情をしている。卑怯だ。
「ランフェン、朝からなんですか。気持ちはわかるけど、もう少し節度を持って接しなさい」
「人聞きの悪いことを言わないでくれないか」
「ごめんなさいね、ウミトさん。不躾な男で」
メルエッタお母さんから、甘い匂いのするカップを受け取る。
柑橘系の香りが鼻をくすぐる。蜂蜜入りレモネードとか、そんな類のやつだろうか。
風邪の時というのはどんな世界においても以下略。
喉を潤しながら、私がぶっ倒れてから三日経っていることを聞かされて、驚愕した。夢か現か幻か、二人がかわるがわる顔を覗きにきたことはうっすらと覚えているが、そんなに時間が経過していたとは。その間、まともに飲食していないのであれば、この喉具合も頷ける。
今からメルエッタさんは仕事に出かけ、ランフェンさんだけが家に残るという。休みなのか、それとも勤務時間の関係かはわからないけど。
私が寝ている間にどれだけの事が進行したのか。私が脱獄したことによって、どういう事態になっているのか。
聞きたいことが沢山あったが、この喉ではそれもままならない。
どうしたものかと考えていると、ランフェンさんがある物を手渡した。
(魔石?)
「君が作っていた物ではないがな」
頭で呟いたことに対して答えが返ってくる。
その久しぶりな驚きに、これが何なのか私は理解した。
『これ、新しく作ったんですか?』
「君が寝込んでいる間にな」
『ってことは、アレですか。私が作ったのは失敗ですか』
「失敗はしていないと思うぞ。言っただろう、転写方式は時間がかかる、と」
『じゃあ、もうちょっとすれば使えるようになる?』
「――妙にこだわるんだな」
『だって初めて作ったもんやし……』
ヴランさんとの繋がりを保ちたい、という私の願いが込められている。
簡単に捨ててしまえるものじゃないのだ。
「これで喉を使わなくても話が出来るだろう」
ちょうど良かった――と、ランフェンさんがそう言った。さすが、出来る男である。
喉を傷めていることは想定外だろうに、新たな通信魔石を用意している理由についてはわからないが、壊れた時の予備とか、私のお粗末な魔石を見て、失敗を見越して作ってくれたとか、そんなところだろう。
お互い魔石を握りしめ、ランフェンさんは喋り、私は内なる声を返しながら、知りたいことを訊ねていく。
私が牢から消えたことは、翌日の朝になって判明した。
発見したのは、例の近衛騎士だ。状況の確認に行ったんだろう。そこで、二人の男が気絶している上、私の姿が消えていることに驚愕し、上に報告。守護騎士達が驚く中、長谷川
たぶん、彼女の中では「小林さんは脱獄して王宮に攻めてくるポジションを選んだのね」ぐらいの解釈だろう。
別に攻め入るつもりはないんだけど、私がどんな行動をしたところで「偽者に怯える聖女」を演出して、私を責めるんだろうと思う。
だから彼女の事は、正直どうでもいいのだ。
私にとって恐ろしいのは、騎士達による物理的な攻撃の方である。
「君の捜索は大々的に行われているわけではない。近衛騎士の中でも意見が割れているんだ」
『どういう意味ですか?』
「聖女を崇拝している者は、偽者をなんとしても排除せんという勢いだが、ここ数ヶ月の聖女――元の聖女ではなく、君を見ている者は、疑問に感じている」
『なにが疑問?』
「聖女が声高に言うほど、君が悪人だとは思えないということだ。君の行動や振る舞いは、国を
(その辺りの境目がよーわからんのよねぇ。私は私のまんまなのに、あの子が現れた途端、私はキラリ様に見えなくなるって、どういう魔法――、魔法?)
改めて考えて思う。
これは魔法なんだろうか。
そういう術が存在するんだろうか。
「魔法……?」
うっかり伝わってしまったらしい。ついでだから確認する。
『あの、ランフェンさんの目には、私ってどういう風に映ってましたか? 私のこと、どう思ってました?」
「……どう、とは」
『今の彼女と比べても仕方ないかもしれないけど、それを差し引いたとしても、私とあの子は全然似てないと思うんですよ』
「そうか。魔法か」
『そうです。幻術とか、そういう類の魔法ってありますか?』
「あるには、ある。聖女ならば可能かもしれんな……」
『使うのが難しい、とか?』
「今は失われた、
あたしの魅力にみんなクラクラ☆
日記にそんな記述があったことを思い出す。
考え方がぶっ飛んでいるが、彼女は聖女として召喚された「選ばれた者」なのだ。
「ハセガワキラリは、性格は好かないが潜在能力は底知れない。彼女は確かに本物の聖女なんだ」
あまり長い時間、話をしているのも良くないと言われ、会話は一旦中断された。
ランフェンさんは部屋を出て行き、私はベッドの住人となった。
寝すぎるぐらい寝ているので、むしろ起きていたい。平気だと言い張ったが「俺が母に叱られる」という言葉に引き下がる。母は強し、だ。
持たされた魔石を眺めてみる。
私が作っていた物よりも大きくて綺麗だ。当然かもしれないが、やっぱり悔しい。
こんな物を作ってしまうぐらいだ。ランフェンさんはきっと魔法の才能もあるんだろうし、その血筋を否定したいわけでもないんだろう。テオルドさんに対して引け目を感じているとメルエッタさんは言っていたが、それだけ父親のことも気にしているし、きっと尊敬もしている。
仮でもいいから名前を――と求められて、彼はヴランと名乗ったのだ。
ア・ランフェンではなく、ヴ・ランフェンを名乗ったかもしれない、もうひとつの可能性。あったかもしれない未来の姿。
彼が、魔法陣に携わった出来事において私に告げたのは、その表れではないだろうか。
(そういや大森部長も愛妻家だったなぁ……)
テオルドさんにどこか似た元上司。文乃ちゃんは娘に似てるんだよなーというのが、酒の席における定番台詞だった。国際結婚をして海外に移住したらしく、簡単に会えないらしい。退職したら向こうに住みたいと言っていたが、結局どうしたんだろう?
私は元の世界の事を考えた。こんな風に考えるのは初めてかもしれない。
きっと今までは無意識に避けていたんだろうと思う。里心がつくとか、そういうことじゃなくて、考えてしまえばこっちの世界で立っていられなくなりそうだったから。
私は背筋を伸ばして立っていたかったのだ。平気だ、大丈夫だと言い聞かせて、ひたすら前を向いていた。
そして限界が来て、今こうしている。
弱さを曝け出した私を、受け入れ、助けてくれた人達がいる。
だからこうして、元の世界の事だって考える余裕が出来たんだ。思い出して凹んで、また泣きたくなったとしても、きっと見放したりはしないだろう。
結論づけたところで、少し元気になったので、ちょっくら動いてみますかと起き上がり、床に足をつけて立ち上がった。
そして転んだ。
振動が聞こえたんだろう。ランフェンさんが様子を見にやって来た。
「どうした!」
『立とうと思ったら立てませんでした。足が、こう、へろっと』
思った以上に身体が
床に座ったまま、膝をさすっていると、手を差し出された。こうして手を借りるのは果たして何度目だろうか。
「膝を痛めているのか?」
『どうなんでしょう。ずっと寝てたから、上手く力が入らないだけかもしれないです』
「沈痛効果のある塗り薬がある、使うか?」
『ありがたく頂戴します』
ベッドに腰掛けて待っていると、ランフェンさんが薬を持ってくる。透明なジェル状のクリームで、ツンと鼻につく臭いがする。湿布に似た臭いだから、たしかに効果がありそうだ。
普通にしていてもじんわり痛みがある腕で試してみようと袖をまくりあげたところ、ところどころに痣が出来ているのがわかる。うん、なかなかにグロいなこれ。
手首が全体的にひどいのは、拘束具が重かったせいだろうか。右手の方がひどいのは、きっとあの時、牢の中で右手を掴まれて宙吊り状態になったからだろう。思い出して唇を噛む。
(もう平気やし、あんなんなんでもないし)
「フミノ」
「はい」
大分出るようになった声で返事をすると、ランフェンさんが難しい顔で私を――、私の腕を見つめている。
私が持っていた薬を取り上げると、おもむろに私の腕に塗りはじめた。
驚いて手を引こうとするも、固められたように動かせない。強く握られているわけでもないのに、一体どういうカラクリだ。
「……痛むか?」
「……まあ、それなりに」
嘘を吐いたところでバレるだろうから、少し迷ったけどそう答えた。そして付け加える。
「謝らないでくださいね。ランフェンさんは助けてくれたんです。来てくれなかったら、こんなもんじゃ済まなかったと思うし、そもそも生きてたどうかもわかんないし……」
すると、ランフェンさんの眉間に皺が寄る。しまった、逆効果だったか。
「どっかにぶつけて青痣作るのとかよくあることだし、知らん間に痣になってていつの間にー、みたいなこともあるし、骨が折れたわけじゃないんだから、痣ぐらい別に――」
「だが君は女だ」
「女でも痣ぐらい作りますよ」
「……君は強がりばかり言うな」
ううむ。この世界の女性は痣ひとつで大騒ぎなのか。どんだけやわなんだ。
「多少の強がりは必要ですよ。子供じゃないんだから、ただ誰かの庇護を待つだけでは生活できません」
生きていくにはお金が必要で、お金を得る為には労働が必要である。
そう言うと、虚を突かれたように目を丸くした。
「君のような女性も異界にはいるんだな」
「それ、褒めてるんですか?」
「無論だ。媚を売るだけの女は好きではない」
「あら、そういう女性観だったのね」
唐突に湧いた声に二人して驚いて顔を向けると、部屋の入口にメルエッタさんが立っていた。
一体いつの間に帰ってきたのかまるで気づかなかったけど、それは目の前の男性も同じだったらしい。
「後は私が引き継ぐから貴方は出ていきなさい。それとも、背中の手当までするつもり?」
二の句を告げずにランフェンさんは退散した。
母は強い。
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