密造刑場

孔雀 凌

もしも、死刑執行が名ばかりの物だったら。

鹿革を被せた頑丈なロープを首にかけられ、楪(ゆずりは)は無気力に床板が開くのを待っていた。

全てが終わる、はずだった。

だが、命を失った彼は覚醒した。

落下への衝撃はあまりに強く、意識が再び持ち上がるには多少の時間を必要とした。

周囲の状況をようやく把握できた楪は、薄暗く狭い空間で僅かばかり戸惑う。






鼻をつく、不愉快な匂い。

そこは、地下にある排水管だった。

自分は吊るされたはずなのに。

考えなければならないことは沢山あった楪だが、目の前を流れる排液を掌で掬い、無造作に口の中へ放り込んだ。

薄汚い下水道は、南の方角へと続いている。

彼は胸の奥で脈打つ確かな音色を噛み締めるようにして、左手の指頭で囚人服を掴む。

水路は、一本だけだ。

進むしかない。

そう感じた楪は苦し紛れに咳払いを繰り返しながら、直向きに歩き始めた。






『21XX年、某月某日。三人の死刑囚の死刑執行がなされた。執行を命じた、法務大臣は……』

刑が執行されると、国民はその事実を報道などから簡単に手に入れることができる。

ブラウン管や紙面から発信される言葉の伝達を、彼等は何の疑いもなく受け入れているのだ。

だが、水面下では信じ難い状況が繰り返されていた。

死刑は本当に執行されているのだろうか?

絶景を誇る、ユネスコの世界遺産登録でも有名な屋久島では、朽ち果てるほどに歳を重ねた一人の男が余生を謳歌していた。






老人の名は、楪。

彼は嘗て強盗殺人という重罪を犯し、最高裁判決で死刑確定となった。

気が遠くなる様な長い拘留生活の末、執行となったのだが。

大きく報道されたのにも拘わらず死刑は執行されず、表面上の儀式にしか過ぎなかった。

しかし、一部の人間を除いては、未だ誰も真実を知る者はいない。






当時、就任中の里川法相と死刑囚である楪は、正に奇妙な運の巡り合わせの中にいた。

里川は、死刑には決して賛成派ではなかった。

特に珍しいことではない。

しかし、彼には絶対的理由があり、重要な任務に就いていたのだ。

里川と、彼を支持する周囲によって綿密に練られた計画を実行するためである。

里川の就任狙いは『法に叛く』行為以外の何でもない。

死刑囚に対して、冤罪の可能性がある者、情状酌量の余地があるなど、裁判では救え切れずにいた罪人達を助けるという物だ。






間諜目的で幾人かの刑務官を潜り込ませ、刑場改装の為の建築技術者も密かに配置させた。

下準備は完璧だ。

一方、楪は自身の犯した罪を深く反省していた。

彼は独房内で昆虫を飼うことを許されていた。

話す相手もいない檻の中で、大切に育ててきた。

時は来るべき日を迎える。

明け方の徴候の寒気も緩み始めた頃、彼は全身に受ける『それ』を一寸足りとも逃さなかった。

総身を襲う脱力感。

近付く刑務官の跫が、楪の独房の正面でその気配を弛める。

呼気を乱した楪は、ためらうこともなく、掌大の昆虫を一握りで捻り潰した。

特殊な二重構造のエレベーターで、複数の刑務官に周囲を固められ向かった先は言うまでもない。

表層的執行。

楪、六十五歳だった。






途方もなく続く下水道を辿り、時に地上で飲食物を調達しながら到着した場所は、南九州の果てだった。

そこには、楪を待っていた人物がいた。

楪より五十以上は若く見える青年は船を一艘出してくれるという。

何の疑いもなく、力添えをしてくれる男を楪は不思議に感じた。

小型船は、穏やかに東シナ海を目指す。






「あなたも、助けられた数少ない人間の一人ですか」

青年の言葉は意味深だったが、彼が言いたいとしていることの要が何であるのか、楪には容易く憶測出来た。

あれから、二十五年の月日が経過した。

楪はこの地、屋久島の袂に身を置いている。

二十五年もの月日を重ねた身体は、その顔付きも含めて犯行当時の面影は褪せ始めていた。

人気のない場所に拠点を持ち暮らしているためか、楪の存在に違和感を抱く者は少ない。

彼が拘置所に収監中、就任していた里川法相は職責を果たし、とうに辞退していた。

彼等の巡り合わせが少しでもずれていれば、楪がこの世に命を引き継ぐことは不可能だっただろう。

楪を屋久島まで導いた若い男は現在でも彼と接点を持ち、老人の慣れない自給自足に近い生活を支えている。

楪は時に狂気を露にする。

小さな哺乳類なら捕らえて、自身の食を満たすことも躊躇わない。

だが、青年は動物を犠牲にする行為を咎めた。

虫一匹も殺せない様な若者が一体、どの様な犯罪に走ってしまったのだろうかと、楪は疑問に感じていた。

この男も間違いなく、刑場行きの一人だったはずなのに。






「僕ですか? まだ、十九の時に両親と弟を殺めてしまったんです。成人してから、死刑が確定しました」

彼等が身を降ろす傍らには、巨樹を誇る弥生杉が幽玄な佇まいを見せている。

二人にとっては、この巨杉が唯一の癒しだと言う。

「理想郷だね」

清々しい表情で上空を仰いだ楪が満足そうに一言、呟いた。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

密造刑場 孔雀 凌 @kuroesumera

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る