川の流れと共に
第201話
カランカランと、船着き場に鐘の音が響く。
都市バルトムンクを経由してレニ川を下り、帝都へと向かう輸送船の出航だ。
専用の客船ではない。メリダ商会所有の、帝都に高地領邦産の乳製品などを運ぶための船である。しかし少数ではあるが、下流に向かうために便乗している人間もいた。
ゼスラントから帝都に新婚旅行に行くという夫婦と、彼らの護衛である冒険者が二人。バルトムンクから乗った商人が一人。そして、同じくバルトムンクから乗船した、白髪の老執事と護衛の若い騎士を連れた商家の令嬢。船員以外の乗員は、それで全部だった。
お忍びで旅行しているらしい、くすんだ灰色の髪の令嬢は、船縁に立って、高級そうな日傘をくるくると弄びながら、離れていく岸の様子を観察していた。
船は、二つの四角い帆がある帆船だ。その帆は基本的に、レニ川を遡航する際に用いられる。帝都に向かうためには、レニ川の緩やかな流れに乗って下るだけで十分なので、今は二つの帆のうち、一つしか張られていない。
船着き場を離れると、船はバルトムンクの大橋をくぐる。高く高く積み上げられた石橋が、船全体をすっぽりと覆う程の影を作っている。令嬢は目を丸くし、口を少し開いて、船に乗らなければ目にする機会のない、橋の裏側を見上げている。
「“お嬢様”、そんなにぼうっと見上げていると、川に落ちますよ」
令嬢の近くに、護衛騎士が寄って来て言った。
「落ちません」
忠告にもかかわらず、令嬢は船縁に背中で寄りかかるようにしながら、首と上体を反らしていた。大理石のような白い喉が、露わになっている。少しばかり、はしたない格好だ。
「船に乗ったのは、初めてです」
観察に満足したのか、令嬢は船縁に寄りかかるのを止めて、護衛騎士に顔を向けた。
「それは、乗る前にも聞きました」
「そうでしたか?」
そんな事は覚えていないとばかりにつぶやいて、令嬢――髪を染めて変装したアルフェは、風が強くなってきたので日傘を閉じた。
実際、フロイドの言う通りだ。アルフェは乗船前に、自分は船に乗ったことがないと、しきりに言っていた。船は揺れるのかどうかとか、沈没する心配は無いのかとか、色々な事を聞いてフロイドを辟易させたものだ。
今も、アルフェは無表情ながら、船に乗って何時になくはしゃいでいるようだ。
「この川にも、魚が住んでいるのですよね」
「そりゃ、住んでるでしょう」
「やはり、食事は魚なのでしょうか」
「食事時になれば分かる」
「船員の方々が釣るんでしょうか」
しかし、ちょっとはしゃぎ過ぎだとフロイドは思った。苦心の末に、一応髪を目立たない色に染めてみたものの、アルフェはやはり目立っている。
この船はゲートルードの情報屋組合に所属している、ゲイツ・メリダの商会所有で、身元の不確かな怪しい人間は乗り合わせて居ないはずだ。それこそ、最も素性が不確かで怪しいのは、他ならぬこのアルフェであった。
彼女の髪を、元の輝くような銀髪から、今のくすんだ灰色に髪を染めるには、フロイドの涙ぐましい奮闘があった。他の色も試してみたのだが、どうもしっくり来なかった。全体的にアンバランスで、何となく不自然に見えた。アルフェも臣下に対し色々と注文を付け、結局、元の色とどこか近い、灰色という色で染めることに落ち着いたのだ。
アルフェはその髪を、更に編み込んで短く見せている。つばの広い帽子も被って、風に飛ばされないようにそれを手で押さえてみせる様などは、なかなか念の入った変装ぶりだ。バルトムンクの宿でやっていた貴族令嬢の演技が、彼女はかなり気に入ったらしい。
「取りあえず、今は船室に入りませんか?」
フロイドは提案した。
髪を染めた程度で、この娘の異様な美しさは抑えられない。特に化粧もしていないはずなのに、妙に目を引きつける気配を放っている。甲板に居る船員たちからすれば、気が散って仕方がないだろう。
それに、中で打ち合わせたい事もあった。
「釣りをしたかったら、後でいくらでもやる時間がある」
「そうですね、後でやりましょう」
「おいおい……」
フロイドが冗談のつもりで口にした事に、アルフェは真顔で頷いた。しかしともかく、アルフェは船上からの風景を観察する事に満足したようだ。フロイドを伴って、彼女は船内に降りた。
「ご苦労様です、ゲートルード」
アルフェが自身にあてがわれた船室に入ると、そこには情報屋組合の長、歴史学者ゲートルードが控えていた。
ゲートルードもフロイドと同じように、アルフェの家来という形で船に乗り込んでいる。ゲートルードが身に着けた執事のような服は、フロイドの騎士然とした格好よりも、余程違和感なく似合っていた。
「お嬢様こそ、お疲れ様です」
アルフェに一礼したゲートルードの前には、帝都と皇帝直轄領を中心とした、帝国北西部の地図が拡げられている。都市バルトムンクは、その地図のちょうど中央下部にあった。
アルフェは地図の前に立つと、腕を組んでそれを見下ろした。
ゲートルードは、自動的に口を開いた。
「何も支障が無ければ、帝都まで四日といったところです」
「四日? 随分かかるな」
フロイドが言った。この規模の船の速度なら、寄り道をしなければ一日で帝都にたどり付く事も可能なはずだ。
「通常の航行ですので。途中の町に寄る事も、そこで荷を積み下ろす事も、特に制限はかけませんでした」
「それで良いです、ゲートルード。不自然な事は避けましょう。我々はあくまで、普通の商家の人間として、帝都に入ります」
「はい、お嬢様」
廃都の大聖堂の奥であった出来事以来、ゲートルードはアルフェに心服してしまった。情報屋組合の長として、色々な知識を持っているこの男がいれば、何かと都合が良いだろう。そう考えたアルフェは、帝都までゲートルードを伴うことにしたのだ。
「大峡谷地帯を抜けて平原に入ると、レニ川は大きく蛇行を始めます。流れもより緩やかになるので、あまり速度は出せません。途中寄るのは、ここと、ここと、この都市です」
地図を指しながらゲートルードが解説し、アルフェはそれに頷いている。
しばらく前から頭にあった帝都行きを、彼女が決意した理由とは何か。それは無論、彼女の旧友であるテオドールが候補にも挙がっている、選帝会議の開催が正式に布告されたからだ。
布告は十日ほど前、帝国全土で同時に行われたという。例えば、この船に乗り合わせている新婚夫婦などもそれを知っていたから、既に帝国全臣民に触れが行き渡ったと言っても良いだろう。
「帝都には、メリダ商会の名前で邸宅を確保してあります」
「邸宅……、あまり大きなものはちょっと」
「心得ています。閑静な場所ですが、帝都の各区画への移動の簡便な、小規模な家を選びました」
「流石、優秀ですね」
アルフェはそう言ってゲートルードを褒めると、ちらりとフロイドを見た。
それに引き換えとか何とか言いたいのだろうか。フロイドが憮然とした表情をすると、アルフェは口元に手を当ててくすりと笑った。
かけられていた心術が解けてきた影響か、アルフェは最近、感情表現がとみに豊かになっている。以前の彼女から豹変したという事は無いものの、こういうからかいまで覚えてしまったのは困りものだと、フロイドは思っていた。
「帝都に居るテオドールさんに身の危険が及ばないよう、我々は選帝会議の成り行きを見守ります。何事も無ければ、それで良い」
旅の目的を確認するように、アルフェが言った。
帝都には、ベルダンで友人だったテオドールが居る。そしてきっと、彼と一緒だったマキアスも居るだろう。以前会った時、自分はマキアスに酷いことを言った。今さら彼の前に顔を出せるような自分ではない。だから、陰から見守るのが一番良い。アルフェはそう考えていた。
テオドールに対する心配も、杞憂に終わってくれるのが最も良いのだ。二人には会いたいと思うが、何事も無ければ、会わずに去ろう。
これは、本来の旅の目的から外れた、大きな寄り道だ。
――でも、お師匠様なら。
そうだ、コンラッドはきっと、自分のための復讐よりも、友のために何かをしようとするアルフェの方を喜ぶに違いない。
それが分かるようになってきただけに、己の中にある憎悪の気持ちと、優しい人であってくれと言った師の言葉の矛盾に、アルフェは決着を付けかねていた。
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