第202話

 概して、帝国は水に恵まれた国である。

 国中を流れる、レニ川を始めとする太い河川は、水量が豊富で底が深く、船舶の航行に適している。春と秋の終わり頃には長雨が降り、中流域で洪水が起きることもあったが、基本的に水の流れも穏やかだ。

 結界の外では、水中にも危険な魔物は棲んでいる。しかし、生身で泳ぐというならともかく、船を襲うほどに巨大な魔物は、外洋には居ても、河川で目にする事は滅多に無い。ゆえに、帝国内の河川を行き来する船舶が冒険者などの護衛を雇うのは、主に空から襲い来る羽を持つ魔物や、小舟に乗って現れる川賊などへの対策であった。

 アルフェたちが乗り込んだ船には、専属の護衛は乗っていなかった。その代わり、船員たちの腕はどれも太い。いざとなれば、彼らが武器を持って戦うのだろう。


「あそこの水面に顔を出している、彫刻の施された石柱が見えるでしょうか。あれは、帝国成立以前にこの川にかかっていた大橋の遺構です。それが跡形もなく破壊されたのは、帝国草創期の統一戦争において、時のバルトムンク領主が――」


 船首の側で、周囲に見える遺跡や地形の解説をしているのは、歴史学者のゲートルードだ。船に乗り合わせた新婚夫婦が、その解説の聞き役となっている。高地領邦のゼスラントから出るのは初めてだという夫婦は、目にするもの何もかもが珍しいという顔をしていた。


「じゃあ、ゼスラント伯もこれから帝都に出発か。やっぱり船で?」

「結局それが一番便利っすから。俺たちも首都の港から出て来たんすけど、そこで伯の御座船の用意をしてたっす」


 一方でフロイドは、ゲートルードたちから少し離れた位置で、新婚夫婦の護衛冒険者に、高地領邦の動向を聞いていた。


「ゼスラントじゃ、選帝会議の事はなんて言ってるんだ?」

「色々っすね……。今さら皇帝なんてって話をしてる奴も多いっす。でも、伯は乗り気らしいっすよ?」

「そうなのか

「――ねえ、それよりあんたの話を聞かせてよ、騎士様」


 冒険者の片方が、フロイドに尋ねた

 護衛冒険者は二人組で、珍しく片方は女だった。だが、この新婚夫婦のように、護衛には女が含まれていた方が良いと考える者もそれなりに居た。男ばかりの冒険者を護衛に雇って、それが襲う側に早変わりしないという保証は無いからだ。

 女と言っても、この冒険者は下手をすれば男と見間違いそうな顔つき、体つきをしていた。革鎧の下から出ている腕には、歴戦の傷痕が残っている。声すらも男のように野太かった。まだしも相棒の男の方が、繊細な見た目をしている。


「あんたが護衛してるのは、一体どこのお姫様よ?」

「んん……」


 フロイドは、ぽりぽりとあごを掻いた。

 その“お姫様”は今、船尾の方で一心に釣り竿と格闘しているはずだった。フロイドが今朝見た時は、船員から借りたという竿を抱えて、「釣れたらあなたにも食べさせてあげます」とか何とか言っていた。


「お姫様というほど、上等なものじゃ無い」

「はぐらかすねぇ。ま、やっぱり簡単には話せないか。お忍びの旅行か何か?」

「そんなものだ」


 彼らが乗っている船はまだ、魔物が出現する結界の外を航行している。それでも陸路を進むよりは、船はずっと安全だった。船員と違ってやることも無いので、彼らはこうして世間話するか、船室に引きこもって寝ているか、アルフェのように釣りでもするしか無い。


「どれ、じゃあ、うちの“お姫様”の様子を見てくるとするか」


 フロイドはそう言って、護衛冒険者から離れた。ゲートルードは、新婚夫婦相手にまだ名所解説を続けている。そこまで広くない甲板を、フロイドは船尾に向かって歩いた。


「釣れますか?」

「…………」


 フロイドはアルフェに声をかけた。アルフェから返事は無い。

 アルフェは船尾に、どこからか持ってきた小さな樽を置いて、それに腰掛けて釣り竿を握っている。垂らされた釣り糸は、船が水をかき分けて出来た波の中に沈んでいた。


「釣れま――」

「釣れていません」


 フロイドがもう一度言おうとすると、アルフェが不機嫌な声を出した。アルフェは朝からこうして釣り糸を垂らしているはずだが、彼女の脇にある桶には、何の戦利品も入っていない。わざわざ釣れるかと尋ねずとも、釣果は明らかであった。

 フロイドは二時間ほど前にもこうやって尋ねたが、その時にはまだアルフェは笑っていた。しかし今のアルフェは精神を集中し、その身体からは闘気が発散されている。フロイドも釣りの経験が無いので分からないが、その闘気は余計に不味いだろうと、アルフェの背後で呆れ顔をした。


「そんな顔をするなら、あなたがやってみせなさい」


 アルフェは振り返りもしないで、凄味のある声を出した。

 フロイドは、しれっと真面目な表情に戻り、じゃあ、お言葉に甘えてと言った。こういう釣りというものに、彼も全く興味が無い訳ではなかった。


「この川には、きっと魚が居ません」


 アルフェは、フロイドに釣り竿を押しつけるようにしながらそう言った。

 そんなはずは無い。フロイドが水面をのぞき込むと、大小の魚影がそこかしこに見える。


「お、釣れた」

「――――!!」


 そしてフロイドが適当にその辺りの水面に針を投げると、早速手応えがあった。竿を引けば、確かに川魚が一匹、釣り糸の先にかかっていた。


「なんだ、結構楽勝だな」

「…………!!」


 フロイドはその魚を水の入った桶に投げ入れ、釣り竿をアルフェに返却した。アルフェは桶の中で泳いでいる魚を見、それから両手に持った釣り竿を見て、うつむいたまま唇を噛みしめた。


「覚えていなさい……」

「え?」

「何でもありません。私は釣りを続けます。邪魔をするならあっちに行って下さい」

「そろそろ、昼食の時間ですが」

「私は、私が釣った魚を食べます」

「……ああ、そう」


 アルフェが何だかもの凄い表情をしているので、フロイドはその場を離れる事にした。触らぬ神に祟りなしとも言う。

 しかしこの調子だと、直接川に潜って採ってくるなどと言い出すのではなかろうか。


「ああ、釣れたようですね」

「…………私が釣ったのではありません」

「そうなのですか? 朝からずっと挑戦していらっしゃるようでしたから、私はてっきり……」

「――――!!」


 フロイドと入れ替わりになるように、ゲートルードがやって来た。ゲートルードもまた、フロイドと同じように禁句を口にし、ならばお前がやってみろと、アルフェに釣り竿を押しつけられたようだ。


「いやしかし、私はこういう事には、余り慣れて……。おや? ――釣れました。なんだ、案外簡単ですね」

「…………!!」


 ゲートルードがそう言ったところで、フロイドは船内に退避した。



「船なのに、火を通した料理が食えるってのは有り難いな。俺が前に海で乗った船は、火気厳禁だった」

「この船は、調理室が石組みの耐火仕様になっています。そのお陰ですね」


 その後、男二人は船内で遅めの昼食をとっていた。食堂は全乗員の共用だが、スペースは限られている。交代での使用ということで、今は二人しか食事をしていない。食卓には、パンとチーズと、焼いた魚が乗っていた。この魚は、もちろんアルフェが釣ったものではない。


「ゲートルード、あんたは大丈夫だったのか?」

「いえ、何かがアルフェさんの逆鱗に触れたようです……。表面上は、穏やかに笑っていましたが。……一体、何が悪かったのでしょうか?」

「あまり真剣に悩まない方が良いと思うぞ。あいつは結局、子供なんだ」

「子供……ですか」


 フロイドは己の主の事をそう表現したが、ゲートルードは納得がいっていないようだった。

 フロイドには、ゲートルードの気持ちも分かる。アルフェは毅然としていて、合理的で、時に冷酷であり、そして、常人とは思えないほど強い。見た目が少女でも、並の人間ではない超然とした“何か”なのではないかと考えてしまうのは、むしろ自然な事だった。フロイドも、前はそう考えていた。

 だが、そうではないとフロイドが気付いたのは、ごく最近の事である。


「まあいいさ。それにしても、このチーズも美味いな」

「ゼスラント産の山羊のチーズですね。これは帝都に持っていけば、かなり良い値が付きます」

「この船の商品じゃ無いのか?」

「少しくらいは良いんでしょう」

「メリダ商会は、まともな商売もしてるんだな」


 この船を所有しているゲイツ・メリダは、都市バルトムンクにおいて、地下闘技場の経営やオークの奴隷化など、後ろ暗い事ばかりしているイメージがあった。この船には、チーズやその他の雑貨以外に、怪しい禁制の品を運んでいる気配は無い。


「むしろ、そちらの方が本業です。と言っても、私は彼の商売そのものには介入していませんが。情報屋組合には、他のギルドのような強固な上下関係はありませんしね」


 利害が一致する時だけ、お互いを利用する。ゲートルードたち情報屋組合のスタンスは、都市にある他のギルドより、どちらかというと冒険者組合などに近い。


「なので、メリダ商会がバルトムンク侯と組んで何をしているかも、直接聞いた訳ではありません」


 ゲートルードがほのめかしたのは、都市バルトムンクの領主である、ゲオ・バルトムンクの動向だった。バルトムンクには、彼によって多数の傭兵や冒険者が集められていた。この話は、アルフェとフロイドの間でも、気になる話題として挙げられていた。


「メリダ商会は侯のために、主に武器の調達などを行っているようです」

「何のために武器が必要だ?」

「まずは、バルトムンク侯も選帝会議に出席するからです。そのためには、多くの供回りが必要になります」

「ゲオ・バルトムンクが? ……八大諸侯でも無いのに?」

「選帝会議には、八大諸侯以外にも多くの諸侯が集まりますから。中でも、バルトムンク侯の扱いは特別です。侯の家は、元々は八大諸侯の一員でした」

「ああ、そう言えば、そんな事を話していたな」


 バルトムンクの結界が消失する前まで、バルトムンク侯家は八大諸侯の中でも筆頭扱いの家だった。この辺りの話は、アルフェもゲートルードから資料を受け取って、念入りに調べていたはずだ。


「既に八大諸侯では無いにしても、バルトムンク侯の発言は大きな意味を持ちますから」

「じゃあ、ゲオ・バルトムンクも、いずれは俺たちみたいに川下りか。本当に、帝都に色々集まるんだな」

「ええ、これは帝国の歴史上でも、まれに見る重要な会議です。アルフェさんに命じられずとも、どのみち私も帝都に赴くことになったでしょう」

「歴史ねぇ……。何でもそれか。難儀な生き方をしてるな、あんたも」

「私にとっては、褒め言葉です」


 それからしばらくして二人は食事を終えたが、甲板で釣りをしているアルフェは、まだ下りてこなかった。釣れない限りは、本当に飯を抜くつもりなのだろうか。


「ちょっと様子を見てくるか」


 そう言ったフロイドは、パンが乗った皿を手にしていた。






「見なさいフロイド。どうですか!」


 しかし、彼は上に行く途中で、小さな小さな川エビを釣ってふんぞり返るアルフェに出くわし、そのパンを引っ込めてしまった。

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