第200話
人狼は、繁殖期につがいで行動する以外には、基本的に群れを作らない。一カ所に長く留まる事は無く、頻繁に移動を繰り返し、他の魔物の縄張りを荒らすことも良くある。そうやって移動する人狼に目を付けられた村は、不運としか言い様が無い。武器を持った人間よりもはるかに強靱で俊敏な魔物に、大抵の村は為す術も無くやられてしまう。
人狼の武器は、その鋭い爪と牙である。爪は鋼の剣を折り、牙は鉄板の鎧を簡単に貫く。そして、人狼の毛皮は天然の鎧だ。並の剣と腕前では、針のような剛毛に遮られて皮膚を傷つける事すらできない。
だから、人狼に対する時は、必ず一個小隊以上の集団で当たれ。無惨に引き裂かれて死にたくなければ、絶対にそうしろ。騎士訓練所で、マキアスは教官に口を酸っぱくして教えられた。
「【我が祈りに応え、この剣に神の力を――――】」
マキアスは、森を警戒態勢で歩きながら、小声で呪文を詠唱した。彼の剣に、ほのかな白い光がまとう。引き出しは少しでも多い方が良いと、剣を磨くのと並行して鍛えた神聖術だ。
マキアスを先導するクレディは、破壊された罠のあった地点から、迷うこと無く森の中を奥へ進んでいる。彼も既に長剣の鞘を払って、魔物による不意の襲撃に備えていた。
「うううう……」
まるで自身が狼のようなうなり声を上げているのは、カタリナである。彼女は剣を両手に握り身体の正面に構えているが、剣先はぶれて、どこか危なっかしい。
「カタリナ、まだ遭遇はしない。力を抜け」
「は、はいっ!」
「大声は出すな」
「はい……」
マキアスは、ときたまカタリナの様子を気遣えるくらいには落ち着いていた。人狼が相手でも、彼は恐怖を感じていない。適度な緊張があるだけだ。
数ヶ月ヴォルクスと直接手合わせをしていた彼は、大抵の敵なら恐れずに済むようになった。それに、人狼並に恐ろしい魔物にだって、彼は何度か目にした事もある。クレディ一人で行かせるのは危険だが、三人ならば十分な勝機があると、マキアスは踏んでいた。
「――!」
一時間ほど歩くと、顔をこわばらせたクレディが片手を上げて、マキアスたちを停止させた。それから、ゆっくりと身をかがめるように指示してくる。神殿騎士の使うハンドサインそのままだ。クレディは、マキアスだけに側に寄るように言った。
「あれだ」
前髪が触れ合うほどに顔を寄せ、言葉も最小限に留めながら、クレディはマキアスに、草むらの奥を指し示した。
その方向に、木の根に覆われた洞穴の入り口がある。あれが、人狼の仮のねぐらという事だろう。敵は中に居るのかと、マキアスは視線だけでクレディに尋ねた。入ってみないと分からない。そう言いたげに、クレディは首を横に振った。
カタリナを中心に、マキアスとクレディは両翼に展開した。草むらに身を隠しながら、穴の入り口を挟み込むように、彼らは接近していく。仮に飛び出てきた魔物がカタリナに飛びかかった場合は、男二人が左右から押さえ込む陣形だ。
入り口の横に貼り付いたマキアスは、中の様子をうかがった。
それほど深くない穴だ。そしてここまで近付けば、穴の主が居ない事は気配で分かった。少し息を吐き、剣に施していた付与術を消して、マキアスは言った。
「出かけてるみたいだな。……村の方に行ったんじゃなければいいが」
「それなら、ここに来る前に鉢合わせる」
人狼は夜行性だ。夜に動いて、朝にはねぐらに戻り、日中は寝ている。今の時刻は早朝である。いずれにしても、敵は近いうちにここに戻ってくるはずだった。
「待とう」
「分かった。――カタリナ、大丈夫だ。こっちに来い」
「は、はい」
マキアスが声をかけると、カタリナが彼らの方に寄ってきた。
それから、マキアスとカタリナを外の警戒に残し、クレディが穴の中を確かめた。出て来たクレディは、針のような灰色の体毛を指に摘まんでいた。
「やっぱり昨日の夜から戻っていない」
「森の奥に、餌でも探しに行ったのか?」
「だろうな、足跡が多くて良く分からんが」
三人は、洞穴の入り口から少し離れた岩陰にしゃがみ込んで、敵が戻ってくるのを待つことにした。
「マキアス、お前の上司は誰なんだ?」
「え?」
暇というのは語弊があるが、待っている何も無い時間に、ふとクレディがマキアスに尋ねた。
「何も自分の意志だけで、“あいつら”を殺して回ってる訳じゃ無いんだろ? 総長でもケルドーンでも無いなら、誰が命令してるのか気になっただけだ」
「…………」
「……答えられないか。まあ、そうだな。だが……」
クレディは真剣な表情で、マキアスに忠告だと言った。
「誰にしても、そんな命令を下す奴は、ろくな奴じゃないぞ」
「何……?」
マキアスは険悪な表情になった。
彼にこの任務を与えたのはヴォルクスである。ヴォルクスはマキアスにとってみれば、彼が親無しの貧乏貴族として、訓練所で白い目で見られていた時代から、ずっと目をかけてくれた大恩ある上官だ。そのヴォルクスをけなすような事を言われて、彼は平静ではいられなかった。
それにヴォルクスは、マキアスにこの任務を与えるのは本意では無いと言っていた。しかしパラディン筆頭として、騎士団の負の部分に目を背ける事はできないのだとも。
反論しようとしたマキアスを、クレディが言葉で押しとどめた。
「そいつだけじゃない。今の神殿騎士団は、ろくなもんじゃない。俺が愛想を尽かしたのは、俺の部隊だけじゃなく、騎士団にもだ」
「……」
「本当に騎士をやろうとしてる奴は、あまりいない」
その部分は、マキアスにも頷けるものがあった。今の騎士団には、家柄と財産を重視する者が集まり、出世争いに終始している。安全な帝都から出て、危険を冒しても人々のためになろうと考える人間は少数派だ。特に高位の騎士ほど、そういう傾向にある。
「お前はどうだ? マキアス」
「俺?」
「お前は腐ってないと、俺は思った。友達のために戦いたいんだろう? 腐った騎士は、そういう事は言わない」
「……ずいぶん、ロマンチストなんだな」
「そうさ」
はぐらかしたつもりのマキアスに、クレディは真剣な表情で頷いた。まるで、それこそが騎士に最も必要なものであるとでも言いたげに。
クレディは、マキアスに聞いた。
「……ランディ・バックレイを知ってるか?」
「バックレイ卿? ああ、もちろん」
突然出て来た名前だったが、神殿騎士なら、その名前は誰でも知っている。他ならぬ、現パラディンの第三席だ。
「あいつは元々、俺の後輩だ。――違う、“そっちの部隊”じゃなくて、騎士訓練所の後輩だ。帝都に戻って何か有ったら、あいつに相談しろ」
どうしてクレディがランディ・バックレイの名前を挙げるのか、マキアスは腑に落ちなかった。確かにランディは第三席だけあって、パラディンの中でも筆頭のヴォルクス、次席のアレクサンドルに迫る実力を持つと言わている。
だが同時に、いつもだらしなく、真面目に任務には取り組まない、やる気の無い適当な男。それがランディに対する騎士団内の評価だ。
マキアスはクレディの勧めに頷かなかったが、一応、心にはとめておこうと思った。
彼らはそのまま、二時間以上もその場で待った。
日は高くなり始め、もうそろそろ昼に届こうかという時間になった。しかし、クレディは移動しようとは言い出さない。彼には、人狼がここに戻ってくるという確信があるようだった。
「マキアス」
「ん?」
「戦いの前に、確認しておきたい事がある」
「なんだ?」
「お前は良い奴だ。だから、聞くか聞くまいか、迷ったんだが……」
クレディはちらりとカタリナを見た。彼女は男たちではなく、洞窟の入り口に顔を向けている。
「やっぱり聞いておく。それが、“あいつ”のためだからな。……マキアス、お前は俺の居場所を、どうやって知った?」
「…………」
マキアスは唇を引き結んだ。クレディに質問された内容は、マキアスの心にも引っかかっていた事だった。マキアスがクレディの隠れ住む村の位置を知ったのは、ここに来る前、クレディのかつての同僚を斬り、その同僚とクレディが交わした手紙を読んだからだ。
マキアスが斬ったのは女だった。その女と戦った時に付いた胸の傷は、まだ完全に癒えていない。
証拠になるような記録を残さない部隊に所属する者が、クレディからの手紙だけは、焼かずに懐に仕舞っていた。クレディもそうだ。自身を死んだ事にまでして抜けたかった部隊の女に、自分の居場所を知らせていた。
「……そうか」
マキアスの表情から全てを察したのか、クレディは、哀しそうな顔で頷いた。
「隊長、何か来ます」
男二人の会話が終わってからおよそ十分後、カタリナが囁いた。
カタリナに言われるまでも無く、男たちも、森の奥から近付く敵の気配を察知していた。その気配は、自身のねぐらに近寄った人間たちに対し、明らかな敵意を向けている。
「マキアス、どっちにしろ、続きはこれが終わってからだ」
クレディはそう言うと立ち上がり、戦闘態勢を整えた。
だがマキアスは、どこか心ここにあらずという様子で草むらに座っている。カタリナが、マキアスに心配そうな目を向けた。
「……分かった」
カタリナが声をかけようとした時、ようやくマキアスは頷くと、再び剣に神聖術を付与し直した。
◇
「……何となく、こういう事になる気がした」
剣を握ったまま、仰向けになって地面に倒れているクレディが、口の端から血を流しつつ、穏やかな声で言った。
「だから俺は……、一人で戦いたかったんだ」
少し離れた場所には、三人が戦った人狼が、木の根元にうずくまるように屍をさらしていた。
クレディが腹部を血に染めて倒れているのは、人狼に負傷させられたからではない。マキアスが彼と戦い、己の剣で彼の腹を貫いたからだ。これをやった当のマキアスは、感情の読み取れない顔で、黙ってクレディを見下ろし、彼の言葉を聞いている。
「戦って俺が死ねば、こういう事にもならないと思ったからな」
「クレディ……」
「まあ、気にするな。こうなったのは……、俺の、昔の義理のためさ。……本当に、つまらない話だよ」
クレディの声は、段々と弱々しくなっていく。
人狼との戦いに決着が付いた後、クレディは、マキアスが手にかけた昔の同僚への筋を通すと言い、マキアスはクレディの決闘の申し出を受け入れた。その結果がこれだ。
「結局、俺は騎士団から、逃げられなかったなぁ……」
クレディは苦しそうに顔を歪めると、口からごぼりと血の塊を吐き出した。
「――――」
クレディは最期の息で、誰かの名前を呼んだ気がした。ほんのか細い声だったが、マキアスには、それが女の名前であるように聞こえた。
「隊長、大丈夫ですか?」
立ち尽くすマキアスの側に、カタリナが寄ってきた。
「大丈夫ですね。――良かったぁ」
カタリナは胸に手を当てて息を吐いた。彼女は純粋に、マキアスが無事だった事に安堵しているようだ。しかしその口調は、場違いな程にいつも通りだと、マキアスには感じられた。
マキアスとクレディが剣を持って向き合った時、カタリナもまた、即座に剣を抜いて、マキアスに助太刀しようとした。普段の臆病な彼女とは、とても思えない速度で。マキアスは手を出すなと一喝したが、自分が彼女にそういう行動を取らせたのだと、マキアスは痛感せざるを得なかった。
「……すまない、カタリナ」
「え、ど、どうして謝るんですか? 全然、隊長が謝ることなんて無いですよ!」
クレディにも、謝る必要は無い。クレディも、マキアスに気にするなと言った。
マキアスは、その通りにするつもりだった。
気にはしない。自分の行動は、友のためにやっている事なのだから。
だが、友のせいにして、自分の行動を正当化する。他人の犠牲も厭わない。
それこそが、本当に「汚れた」という事なのではないか。
そもそも、こんな事が本当に、彼女のためと言えるのか。
強くなれば、彼女のために戦えると思っていた。
そして自分は、あの時よりも強くなったはずだ。絶対に、確実に強くなったはずなのに。
――いや、迷うな。
あの町を去ってから、彼女が味わってきたであろう辛さに比べれば、こんな自分の思いなど、取るに足りない塵のようなものだ。大事なことは、己の心の痛みではない。彼女の心の痛みなのだから。
迷うのは、まだまだ自分が弱いからだ。クレディが死んだのも、単に弱さのせいでしかない。だから敢えて、マキアスはクレディの死体を、冷たい目で見下ろした。
「次に行くぞ」
マキアスは、剣を収めるとそう言った。
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