正しくはなれないし、優しくもない
第186話
その少女の眼には、映るもの全てがぼんやりとして見えた。
少女の部屋は広かったが、その部屋だけが、彼女の世界の全部だった。
部屋と外とを繋ぐのは、入り口の扉に付いた小窓と、ベッドの横にある鉄格子入りの窓だった。
今は使われていないはずの、高貴な罪人を閉じ込めるための塔。そこに、その家には存在しないはずの少女が、うつろな目をして暮らしていた。
鉄格子の隙間からは、背の高い木々が生い茂った森が見える。あれは、この城の裏手にある山の一部だと、少女は知っていた。彼女も始めから、この部屋に閉じ込められていた訳ではない。ずっとずっと幼かった頃、姉と一緒にあの森の中で遊んだ記憶が、おぼろげながら、彼女にもあった。
――……お姉様。
己の姉の事を思いだして、少女のぼんやりとした心は、少しだけ明瞭になった。
少女は窓際に移動し、壁に貼り付くようにすると、つま先立ちになって鉄格子を掴んだ。
扉の前に立っている衛兵は、部屋の中の様子を気にしない。外に出ようとしない限り、少女が部屋の中で何をしていようと、彼らは気にも止めないはずだ。
鉄格子に顔を寄せると、窓の下にあるものが辛うじて見える。塔の外壁と城の防壁に挟まれた、狭い砂地がそこにあるのだ。
そこは元は草地だったが、誰かが繰り返し踏みしめたせいで固められ、砂地になった。そこには人の身長ほどの、細い丸太が突き立てられており、丸太には綿入りの布が巻かれている。あれを使って、あの人は剣術の稽古をするのだ。
書庫から見つけてきた何冊かの本。そしてこの窓の下に見える風景。それだけが、閉じ込められた少女の心を楽しませてくれた。
――お姉様は……?
背伸びをし、鉄格子を掴んだまま、少女はその人が来るのを待った。
一日中待っても来ない日もある。その人は、公務や学園に通う事で忙しい。
――アルフィミアも、きっと行けるから。
小さい頃のその人が、余りに少女の部屋に入り浸ったからだろうか。その人はやがて少女の部屋に入る事を禁じられ、さらに扉の前からも追われるようになった。
――いつかきっと。きっと私が、貴女を――
だからその人は、この窓の下に姿を見せる。
剣術の稽古をするために。でも本当はきっと、少女に自分の姿を見せるために。
だから少女は、その人が来るのを延々と待った。
――……お姉様。
しかし、その日は来なかった。
少女はうつむいて、窓から離れた。
哀しくはない。寂しくもない。怒りも喜びも、少女は感じない。そんなものを感じないよう、少女の心は、ずっと前に閉じられた。そして、その閉じた心を誰かが開こうとすると、少女の頭の中で、恐ろしい「声」がするのだ。その声に、彼女は逆らう事ができなかった。
でも、会いたかった。
その人の顔を見たかった。
閉じられた心でも、少女はそれを願う事だけはできた。
●
「……よし」
部屋に届けられた朝食を平らげ、久しぶりに装備一式を調えると、アルフェは両掌を握り開き、その感触を確かめた。
体調に問題は無い。気力も魔力も充実している。これならば、万全の体制で廃都市に向かう事ができる。
ゲートルードとは市門の近くで待ち合わせている。あの老人を連れて、廃都ダルマキアの大聖堂に向かう事が今回の旅の目的だ。旅と言っても、恐らくそんなに長期にはならない。せいぜい数日で、ここに戻ってくる事ができるだろう。
準備は終わった。後ろ髪をばさりとかき上げると、アルフェは部屋の入り口のドアノブを握った。
「……お姉様」
ドアノブを回す直前、アルフェの口からそんな単語がこぼれた。それは彼女自身、意図してない発言だった。姉の事など考えていなかったのに、つい漏れてしまったという感じだ。
なぜだろう。ドアノブを握ったまま、アルフェは少し考えた。
今朝、起きる直前まで、夢を見ていた気がする。かなり明晰な夢だった。そこに姉は登場しなかったが、夢の中のアルフェは、ずっと姉の事を考えていた。
「……」
城の部屋に閉じ込められていた時、アルフェはよく、姉が剣術の稽古をする姿を眺めていた。それはアルフェにとって、唯一眺める事ができる外の風景だった。窓の下にある稽古場は、きっと姉が私的に作ったものだ。
その稽古場に、姉は一人で来る事も多かったが、半分くらいは自分の従者を連れて来ていた。その従者がクラウスだ。姉は強く、いつもクラウスは姉に負けていた。
――いつかきっと。きっと私が、貴女をここから出してみせる。アルフィミア、約束よ。
「――っ! …………おねえ、さま」
そうだ、姉は約束してくれた。あの部屋から、あの塔からアルフェを出してくれると。そして外の世界を見せてくれると。外壁をよじ登り、鉄格子の隙間から小指を出して、アルフェと指切りをしてくれた。とても大切な約束だったはずなのに、自分はどうして忘れていたのだろう。
でも、思い出した。
自分には家族がいるのだ。姉はきっと、この大陸のどこかで、アルフェの事を探している。母はどうだろうか。かつてのアルフェのように、ラトリアの城に囚われている母も、アルフェの事を思っているのだろうか。
自分には家族がいる。自分には、姉がいて、母がいるのだ。何の拍子なのか、今までは単なる“知識”だったそれが、迫るような実感となって、アルフェの心に押し寄せていた。
これももしかしたら、アルフェにかけられた心術が弱まっている影響なのだろうか。
「そろそろ、ゲートルードとの約束の時間です」
急なノックの後にフロイドの声がして、アルフェの身体はびくりと震えた。
アルフェがドアノブを回すと、フロイドがそこに立っていた。
「――! 扉の前に居たのか……。早く行きましょう」
「ええ」
フロイドも、アルフェと同じく服装をいつもの感じに戻していた。これを見れば、従業員のデカムはきっと嫌な顔をするに違いない。しかし、今朝はデカムがフロントの持ち場を離れていたので、アルフェたちは何かを言われる事も無く、黒馬のイコに荷物をくくりつけて、市門に向かう事が出来た。
ゲートルードは既に来ていた。
旅支度ではあるが、白いシャツと手袋、茶色い上着とズボンといった服装は、家で見た時の彼とほとんど変わらない。ゲートルードは方々を廻って歴史の調査を行う事もあると聞いたが、恐らくいつもこのような格好なのだろう。
「お待ちしていました」
そう言って胸に片手を当て辞儀をする初老の男は、まるでアルフェの新しい臣下に見えた。
フロイドが御者台に座り、アルフェとゲートルードは向かい合わせで荷台に座った。そして、バルトムンクの市門が見えなくなるまでは、三人ともに無言だった。
「ゲートルード、あんたはあの廃都市に行った事があるんだろ」
廃都市に向かう旧街道に入った頃、間を持たせるようにフロイドが発言した。
「前に俺たちが訪ねた時も、あんたは都市の構造まで知っていた。実際に見てきた事があるように」
「はい、何度か訪れました。考古的な調査のためです」
「大聖堂にも行ったんだな」
「行きました。しかし、私では何も見つけられなかった」
「礼拝堂の奥の、秘蹟の間にも入ったのですか? あそこの扉は鎖で封印されていましたし、中で魔獣が巣を作っていましたが」
「鎖は有りましたが、別の崩れた場所から入る事ができました。その魔獣には、私は遭遇しませんでした」
アルフェが問うと、ゲートルードはそのように答えた。嘘を言っているようには見えない。多分、あの空を飛ぶ魔獣は、アルフェたちが訪れる少し前に住み着いたのだろう。
「一人であそこまで行けるって事は、あんたは戦えるんだよな?」
アルフェも思っていた事を、フロイドが聞いた。ゲートルードは彼ほどの年齢にしてはがっしりとした体つきをしていたが、それでも特に身体能力に優れているようには感じられない。
しかし結界の外を、単独で廃都市まで移動するには、道中に出没する魔物を退ける力が必要になる。特に、このバルトムンク周辺は凶暴な魔物が多いから尚更だ。
「はい、私は魔術士でもあります。特に占星術は、人並み以上に扱えるという自負を持っています」
ゲートルードは己の力を誇張して述べるような性格ではないだろう。その男が人並み以上と言うからには、かなり使えるはずだ。
占星術は幻術と対抗するような魔術体系で、幻を破って真実を見通したり、探し物をしたりするのに向いている。情報屋組合の長で歴史学者のゲートルードが扱う魔術として、どこか相応しい感じがした。しかし、お世辞にも戦闘に適しているとは言えない。
すると、ゲートルードはまるでアルフェたちの思考を読んだかのように言った。
「確かに占星術は戦いに不向きですが、相手の位置や、苦手としているものが掴めれば、いくらでもやりようは有るのです」
「占星術か……。それで、アルフェの術の事も分かったのか?」
「そうです。しかし、アルフェさんにかけられた心術は、帝国でも数名と使い手の居ない最高位魔術です。かけられているのが分かるだけで、解く方法などは私には分かりませんでした」
「でも、この術を行使できる者に、あなたは心当たりが有るのですよね」
「はい。私は一名だけ、その人物を知っています」
ゲートルードはそう言った。
それは誰かと聞くまでもなく、ゲートルードの頭の中にある人物の事を、アルフェも知っている。
――……学長。
ラトリアで最高の魔術士。魔術学園の学長。
その人物がアルフェに、この魔術を【やめろ】。
「……」
学長がこの魔術を【思い出すな】。
「…………っ」
学長はアルフェを■■■■■■ために、■■■■■■■■■■■■■■■。■■前で、学長は■■■■■■■■■■。■■■■■■、誰かを■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■? ■■■■■■、■■■■■■■■■■■■。アルフェの■■■■■■■■■■■■■■。
【やめろ】
――邪魔するな。
【なぜ思い出そうとする】
――うるさい!
【いいんだ。そんなに無理をしなくても】
――私は……、私は思い出したいの!!
「――――ッ!」
激痛に襲われたアルフェは上半身を丸め、両手で頭を抱えた。
「アルフェ!?」
フロイドが動揺し、イコの足並みが乱れる。荷台が揺れ、アルフェはその上で横に倒れた。
「どうしたアルフェ! まさかゲートルード、お前がまた――!」
「違います」
ゲートルードはアルフェを見ている。彼がアルフェの首筋に白手袋をはめた右手を伸ばそうとした所で、フロイドは剣を抜いた。
「動くな!!」
その剣速は凄まじかった。これまでの人生で、フロイドが数多繰り出して来た抜き打ちの中でも、あるいはその一閃が、最も速かったかもしれない。
「動くなよ、一寸でも動けば首が飛ぶぞ!」
フロイドの刃はゲートルードの首筋に当てられ、ゲートルードは倒れたアルフェに手を差し出した体勢のままで固まっている。
「違います。私ではありません」
ゲートルードは、波のない湖面のような、穏やかな瞳でフロイドを見つめた。
「ぐ……」
「アルフェ?」
「アルフェさんは、無茶をしたようです。枷が外れかかっているとは言え、完全ではない。無理矢理思い出そうとすれば、その反動は尋常ではないはず。やり過ぎれば――」
フロイドはゲートルードに顔を向けたまま、一瞬だけアルフェに目線を走らせた。
アルフェの鼻から、鮮やかな赤い血が流れている。明らかに異常な量だ。
「私が診てもよろしいですか?」
「――――ちっ!」
フロイドは忌々しそうに剣を引いた。
ゲートルードは、フロイドに中断させられた動作を再開した。アルフェの首筋に軽く手を当て、彼は目をつぶった。しばらくしてから目を開くと、今度は呪文を唱え始める。フロイドの剣先が、また少し動いた。
ゲートルードの手から漏れたのは、治癒術の光だ。
「大丈夫です。大したことは無い」
その言葉を聞いて、フロイドが荒げていた息を収めた。
「しかし、どこかで休ませた方が良い。まだ早い時間ですが、野営地を設営しましょう」
「お前が命令するな!」
フロイドは、苛立ち紛れに強い言葉を吐いた。だが結局は、アルフェの事を考えて、彼もゲートルードと同じ結論に達したようだ。
「……どこかで野営するぞ!」
苦々しい顔でフロイドは言った。
アルフェはまだ、荷台の上で鼻血を流し、倒れたままだった。
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