第187話

 夜になっても、アルフェは目覚めなかった。

 フロイドとゲートルードは微妙な空気のまま、二人で野営地を設営した。人間たちが黙って作業をしている間、馬のイコは、荷車の上に寝かされたアルフェに寄り添って、不安そうに彼女の臭いを嗅いだりしていた。


「大丈夫なのか、アルフェは」


 フロイドが声を発したのは、夕食も済んだ後の事だった。まだアルフェは目を開けていなかったが、もう苦しんでいるようには見えなかった。さっきテントの中で見た時、横たえられた胸が、静かに上下していた。

 焚火の傍に座ったまま、ゲートルードは、アルフェのいるテントの方を見た。


「無茶をする性格のようですね、あの方は」

「そんな事は、改めてお前に言われなくても知っているさ。大丈夫なのかと聞いてるんだ」

「体に問題はありません。鼻の出血は止まりました。倒れた拍子に頭を打ったようですが……、こぶ一つ出来ていません」


 体に問題が無いという事は、アルフェが目覚めないのは、それ以外の理由があるからだ。フロイドもゲートルードと同じように、テントの方向を見ながらつぶやいた。


「……心術というのは、無理に破ろうとすれば、ああなるのか?」

「そうですね。ものによっては、としか言えません」

「……いつ目覚める」


 彼らが野営地を設営したのは、廃都市に向かう旧街道のすぐ側だ。周囲には、うっそうとした森が茂っている。今のところ魔物とは遭遇していないが、結界の外なので、その可能性は十分にあった。アルフェがこうなっている今、あまり危険なものに出てこられたら厄介だ。


「じきに回復します。このままになるという事はありません。恐らく、精神的な疲労から来る睡眠です。今は眠るのが最も良い」

「……」

「……本当は、それ程度で済むこと自体、奇跡のようなものなのですが。アルフェさんの精神にかけられた術は、最高位の術者が、繰り返し丁寧にすり込んだもののはず。いくら術者の側から離れたとは言え、本来ならば一生その術の影響下にあってもおかしくない。だが、アルフェさんは違うようだ」

「何が違う」

「あの方は、生まれつき魔術に対する高い耐性があるようです」

「耐性……?」

「魔力の量と質が、常人とは異なります。それ故、魔術に非常にかかりにくい体質になっているのでしょう」

「……そうか、なるどな」


 ゲートルードが語った内容については、フロイドにもいくつか思い当たる節があった。


「それは、彼女がラトリア大公の娘である事と関係しているのか?」

「そうです」


 ゲートルードは、自信ありげに頷いた。


「そもそも、高い魔力を持つ者は、この国では統治層にいる事が多い。いや、この国だけとは言えませんが。そうなっているのは、魔力の素養は親から子へ、血で受け継がれる事が多く、昔から魔力の才を有する者が、王侯を務める傾向にあったからです」

「……? 魔術を使えれば、出世できるのは当然だ。そういうことを言いたいのか」

「まあ……そうですね。後は、昔から魔術を使える者同士が婚姻するという事を繰り返したため、高い位の貴族ほど、魔力量の多い子が生まれやすいという事で――」

「…………」

「……理解できていますか?」

「分かる。馬鹿にするな」

「失礼しました」


 ゲートルードが出来の悪い学生に教えるような言い方をしたので、フロイドは憤慨した。こういう学者肌の人間との会話が、彼は少し苦手だった。アルフェの魔力が強いのは、高位貴族であるラトリア大公の子供だから。それだけで済む話を、どうしてこうも回りくどい言葉で説明する必要があるのだろう。

 そして、ゲートルードの説明は、まだ続いた。


「ラトリアは、過去は一個の独立国でした。つまり大公家は、元々は王家。そう言う意味で、アルフェさんの家系は、他の八大諸侯とも少し違うのかもしれません。彼女が有しているのは、それ程の魔力です」

「ふむ……」


 確かに、とフロイドは思った。

 この間アルフェに魔力を見る方法を教わって、フロイドも多少は魔力に敏感になった。それだからという訳でも無いが、ゲートルードの言葉が正しいという事は、直感で分かる。


 ――という事は、エアハルト伯のユリアンも、アルフェと同じような体質なのかもしれないな。ノイマルク伯とトリール伯は……そんな風には見えなかったが。才能だけで無く、鍛錬も重要という事なのか?


 魔力に関する談義が終わると、フロイドとゲートルードは、再び沈黙して向かい合う事になった。

 夕食はとっくの昔に済んでいる。後は寝るだけだ。アルフェがこのまま眠っているなら、二人で交代して見張りをする必要がある。その打ち合わせだけ済ませてしまおうとフロイドが言うと、ゲートルードは占星術士としての提案をした。


「私の魔術で、この周囲に警戒を敷きます。そうすれば、夜警は必要はありません」


 そう言うと、フロイドが了承する前に、ゲートルードは詠唱を始めた。

 そして、薄く光を明滅させる蛍のようなものが数匹、ゲートルードの手から羽ばたいていく。蛍は広範囲に飛び散り、草の裏や岩の隙間に隠れて、傍目からは見えなくなった。


「一人旅には便利ですよ。魔物が近付けば、彼らが私に教えてくれます」

「……朝まで保つのか?」

「二、三日なら、問題無く」


 確かに便利だが、ゲートルードに全てを任せるのは危険だ。そう考えたフロイドは、この魔術は魔術として、自分はさりげなく起きている事にしようと思った。

 しかし、翌朝になってもアルフェは目を覚まさず、その場所での二回目の夜になった。フロイドの苛立ちは募ったが、ゲートルードは相変わらず、じきに目覚めるとしか言わない。

 もしかしたら、このままここに置いておくよりも、アルフェを馬車に乗せて一旦引き返した方が良いのだろうか。いや、無理に動かすのは、それはそれで悪手かもしれない。戦い以外のこういう状況には慣れていない。フロイドが苛立っているのは、主の不調に際して、何も出来ない自分自身に対してなのかもしれなかった。


「何かが居ます」


 夜更けた頃、ゲートルードの声がにわかに緊迫した。あの蛍が、ゲートルードに外敵の接近を知らせたようだ。ずっと穏やかだったゲートルードの目が、険しくなっている。

 ゲートルードに倣って、フロイドも警戒を高めた。フロイドの感知できる範囲には、まだ敵は見つからない。しかしゲートルードは、相手は確実に近付いていると言った。


「魔物か」


 それ以外に、こんな所に住むものはいない。

 フロイドはイコをちらりと見たが、獣であるイコにとっても、その魔物は遠い所にいるのだろうか。イコはアルフェの寝ているテントの横に足を折り、くつろいだ格好をしていた。

 俺が主人のために一人で気を張っているのに、同じ家来のお前は暢気なものだ。フロイドは馬に対しても苛立ちを覚えたが、流石にそれは八つ当たりだった。


「こちらの様子をうかがっているようです。遠巻きにして、ある範囲から中に入って来ようとしない」

「油断するのを待っていると? こすい魔物だな」


 そろそろ、森の中に何かがいる気配が、フロイドにも伝わってきた。だが、イコはやはり微塵も警戒する様子が無い。夜だというのに、フロイドに餌を寄越せといなないたくらいだ。


「やかましいぞ、イコ」


 フロイドが叱ると、イコはもう一度、不満そうに声を上げた。


「う、ん……。…………イコ? イコですか?」


 イコの鳴き声に反応して、テントの中から寝ぼけた声が聞こえた。アルフェが目覚めたのだ。イコは大層嬉しそうに立ち上がり、ばさばさと尻尾を振っている。フロイドも正直ほっとしたのだが、彼は魔物が接近している事を忘れなかった。


「アルフェ」


 フロイドは外からアルフェに呼びかけた。フロイドと、アルフェが彼を呼ぶ声がすぐに返ってくる。


「早速だが、魔物が来ている」

「え?」

「いや、俺たちだけでも大丈夫だが、起きられないなら無理はしないで……」

「いえ、問題ありません。すぐに――、……ッ!」

「無理はしないでいい」


 フロイドは剣を抜いた。ゲートルードも両手を開き、魔術の準備を始める。

 アルフェが目覚め声を出したと同時に、森の中の気配が真っ直ぐにこちらに向かって来たのだ。ここまで接近されれば、フロイドにも相手との距離が完全に知覚できた。


 ――手強い。


 敵は一個。しかし、かなりの強敵だ。

 前衛を務めるべく、フロイドはゲートルードの前に進んだ。そして彼は剣を構え、相手が姿を現すのを待った。


「…………」


 すぐそこで、敵は再び止まった。至近から、こちらの様子をうかがっている。

 ゲートルードは呪文を詠唱した。彼の眼前に、小さな魔法陣で構成された、片眼鏡のようなものが現れる。それを通して、ゲートルードは相手の姿を見ているようだ。


「オークです」


 ゲートルードは魔物の種族を看破した。

 オーク。思ったよりも珍しくない魔物だった。しかしならば、この威圧感は何なのか。群れを作るはずのオークが、こんな所に一匹だけ。部族から爪弾きにされたはぐれ者か。


「…………ん? オークだと?」


 そして、フロイドがオークという単語から何かを連想した時、闇の中から彼に呼びかける声がした。


「やはりフロイドか、久しぶりだな。アルフェ様の声も聞こえたが」


 その魔物はオークのくせに、流暢な帝国語でそう言った。その声に反応し、イコが抗議するように、ひひんと鳴いた。


「うん、お前も覚えている。怒らなくていい。……もう一人は知らないな。――出ても良いか?」


 その時には、フロイドはもう剣を下ろしていた。ゲートルードだけが、一人困惑の表情を浮かべている。何かを詠唱しようとしたゲートルードを、フロイドの手が制止した。がさりと草が揺れ、その魔物が彼らの前に姿を現す。


「グラム……」


 フロイドがつぶやく。

 現れたのは、かつてバルトムンクの地下闘技場に囚われていた、人語を解する灰色のオークだ。そう言えば、彼の住み処はこの近くにあった。


「また会ったな、フロイド」


 グラムはフロイドの顔を見ると、牙をむきだして微笑んだ。

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