第179話

 ゴブリンは当然として、並のオークよりも身体が大きい。オーガと言っても話が通る。頭が異様にでかく、全体が奇妙にアンバランスだ。恐らく、これはゴブリンの変異種だ。目の前に居るゴブリンを見て、ウェッジはそう判断した。

 構わず逃げるという選択肢は有った。並のゴブリンよりも、この魔物は多分、ずっと手強い。ゴブリンたちがここまで集落を大きく出来たのは、間違い無くこの王の力があったからだ。

 他のゴブリンと同じように、戦って勝てるかは分からない。それでもウェッジが逃げずに短剣を構えたのは、自分がこの王を討ち取れば、この群れを瓦解させる事が出来るかもしれないと考えてしまったからだ。そうすれば慌てて逃げる必要は無いし、正面で多数を引きつけている、クルツの危難も救う事ができる。


 無謀な賭けではない。勝算は有る。ゴブリンは所詮ゴブリンだ。

 ウェッジは息を落ち着かせて、玉座に座ったままのゴブリンをにらみつけた。


「う……」


 ウェッジが床に横たえた娘が、苦しそうに呻いた。だが、ウェッジは敵を見据えたまま、短剣を構えて微動だにしない。

 彼が蹴破った入り口からは、焦げ臭い空気が漂ってくる。都市の中に、火が回り始めているのだ。


「どうした」


 ウェッジはゴブリンを挑発するように、低い声で話しかけた。


「このままじゃ、お前の国が燃えちまうぞ」


 ゴブリンは、大きな瞳をウェッジに向けた。そこには、ゴブリンとは思えない、知性の光とでも言うべきものが宿っている。最初は静かに見えたその光は、やがて怒りの色に切り変わった。


「それでいい」


 短剣の柄を握る手に、ウェッジは一層力を込めた。



「団長、無事か! 無事だな!」

「レスリック! どうして来た!?」


 俺はネレイアを守れと命じたはずだと、クルツは唾を飛ばして叫んだ。その言葉を無視し、レスリックは槍を振るう。

 たった一人でも、加勢が来た事で安心してしまったのか、クルツの膝からは、一瞬がくんと力が抜けた。彼自身が思っていた以上に、クルツは体力を消耗していたのだ。


「後退するぞ、団長!」

「馬鹿を言うな! まだウェッジが!」

「カジミルが向かった! あいつらなら、きっと大丈夫だ!」

「うるさい!」


 再び足に力を込めて、クルツは団旗を振るった。ウェッジが自ら刺繍した銀の狼は、ゴブリンの血に汚れて見る影も無い。


「ウェッジが戦ってる! 俺はあいつを見捨てない!」

「――!」

「俺は逃げないぞ! 逃げてたまるか! ――ぬぅッ!?」


 頑なに声を上げ、敵の集団に踏み込もうとしたクルツの腰に、レスリックの腕が巻き付いた。


「団長! 良く考えろ! あんたは団長だ!」

「ぬうううう!」

「あいつらを信じろ! ここは退くんだ!」


 クルツは心底悔しそうに唇を噛みしめて、団旗を握る両手を細かく震わせた。


 ――撤退する。


 しかし、その一言はあと一歩、彼の口から出てこない。


「団長!」


 レスリックがもう一度叫んだ時、二人を囲んでいたゴブリンたちに異変が起こった。



「………………う、ん」


 ゴブリンの都市を見下ろす丘の上、一人で気を失っていたネレイアは、よろめきながら起き上がった。

 まるで酷い二日酔いのように、頭がガンガンと鳴っている。こめかみを押さえつつ、彼女は這うように前に進み、戦場の様子を見た。


「団長……、レスリック……」


 背中合わせになって、二人が戦っている。

 彼らの周囲にはゴブリンの死体が散乱しているのに、魔物は撤退する気配も見せていない。このままでは、やがて押し包まれる。上からだと、それがはっきりと分かった。

 クルツに向かって、レスリックが何かを言っている。クルツはそれに耳を貸さず、団旗の付いた槍を振るっているようだ。レスリックが、クルツの腰を抱き留めるようにつかまえた。


「ぐ……、――げほッ、うッ、おえッ」


 自分も、彼らのために戦わなければ。しかしネレイアには、立ち上がる余力さえ残っていない。彼女は四つん這いのまま、胃の中のものを戻した。

 艶姿を台無しにして、ネレイアは草地の上に座った。そして座ったまま、残された魔力を振り絞る。


「【ひでりの、神よ……】」


 ネレイアの口上に合わせて、一帯を取り巻く水のマナが、ざわりと不安な音を立てた。それと共に、明るい青に輝いていた彼女の魔法陣は、暗く濁った色に変色していく。


「【干枯れの、王よ……】」


 それは、“水の魔女”と呼ばれ、水のマナに寄り添う彼女としては、あまり使いたくない奥の手だ。古流の魔術を伝える、小さな一族の出である彼女だからこその秘術。帝国では「呪い」とも呼ばれる禁術の一種だ。

 いつもならば、水のマナに力を与えるはずの彼女の呪文は、今回は全く逆に働いた。マナのバランスが急速に崩れ、水はみるみると力を奪われた。


 仇のルサールカと戦った時でさえ破らなかった一族の禁忌を、今のネレイアが破ろうとしているのは、最早それを使うしか、魔術具無しでの大規模な攻撃が不可能だったからである。

 そして何より、仲間を見捨てないためには、それを使う必要があったから。


「【全てを潤す、命の水は、枯れ、果てて……】」


 ネレイアの座っている地点を中心に、草はしおれた。魔術を行使しようとしている彼女自身の肌も、瑞々しさを失っていく。彼女の美しい顔に、まるで何十歳も老化してしまったような、細かな皺が走って行く。

 今のネレイアにとって、唯一の心配はクルツたちだ。この呪いに、彼らを巻き込んでは何にもならない。だが、周囲の異変を感じたのか、クルツが団旗を投げ出して、レスリックに覆い被さったのが見えた。鎧の防御が発動するのが、ネレイアの目にも映る。

 ネレイアは、ひび割れて血が流れる唇を、にっこりと歪めた。


「【――渇け】」


 そして詠唱は完成し、一帯の生命に悲劇が起きた。



 ゴブリンたちに異変が起きたのを見て、母よ、守りたまえとクルツは叫び、隣の男に覆い被さった。彼にとって、それはほとんど本能に近い行動だった。

 クルツは自身の意志に反応して、鎧の魔術が発動するのを初めて感じた。柔らかく、温かい光が二人の男を包む。これは、あのアンデッドの夜にクルツとウェッジを助けたのと、全く同じ光だった。


 地面に目を向けていたクルツに、何が起きたのかはよく見えなかった。

 だが、残っていたゴブリンたちが、同時に悲鳴を上げだしたのは聞こえた。

 悲鳴は最初、鼓膜を破るかと思う程に大きかった。だが、それは段々と小さくなっていった。まるで喉が貼り付いたように、ゴブリンたちは悲鳴を上げる事すらできなくなっていったのだ。

 全ての水分を奪うネレイアの秘術が、無差別に命を渇かしていく。草は枯れ、虫は落ち、その場に落ちていた石ころですら、風化したように割れて崩れた。


 局地的で急速な干魃が通り過ぎ、クルツたちが顔を上げた時、彼らの周りには、からからに渇いたゴブリンだったものが、無数に転がっていた。


「……こ、これは」


 ネレイアの魔術の仕業だろうか。だが、その光景にクルツが言葉を奪われたのは一瞬だった。


「――ウェッジ!」


 眼前にあるゴブリンの都市から、火の手が上がっているのが見える。クルツは叫んだ。



「ゴホッ、ゴホッ! ――畜生ッ!」


 ウェッジは悪態をついたが、この煙の原因となる火を付けたのは、誰でも無い彼自身だ。

 ゴブリンの王は、ウェッジの短剣に首を裂かれて死んでいる。図体の割には、呆気ない魔物だった。

 しかしこの魔物を倒すために、ゴブリンの都市に火が回り切るだけの時間を費やしてしまった。都市の中央にあるこの建物は、完全に火と煙に巻かれている。

 主を倒したからか、増援のゴブリンが押し寄せてくる気配は無い。いや、彼らもこの火事から逃げ惑っているのだろうか。しかし、そんな事はともかくとして、脱出の方法を講じなければならなかった。


「マジかよ……」


 ウェッジは途方に暮れたようにつぶやいた。

 建物から出ると、火はあちこちに燃え移っていた。ゴブリンたちが英々と作り上げたであろう住居群が、バキバキと音を立て、赤い火の粉を巻き上げながら崩れていく。あちこちで、ゴブリンたちが悲鳴を上げて逃げ回っていた。

 都市の終わりを感じさせる光景だが、自分もそれに付き合って、こんなところで最期を迎えなければならないのか。


「……けほ」


 脇に抱えていた娘が、かすかに咳き込んだ。娘の鼻と口は、ウェッジのバンダナで覆われている。

 ウェッジは、決意を固めた表情をした。


 ――……そうだな、クルツ。お前の言う通りだ!


 生存者を救う。そうしなければ、傭兵団の仕事は失敗するのだ。逆に言えば、ウェッジさえこの娘を連れて脱出すれば、仕事はめでたく完了だ。全員でどこかの酒場に繰り出して、派手に打ち上げでもかましてやればいい。


「我慢しろよ!」


 ウェッジは上着を脱ぎ、娘の上半身を覆った。こうすれば、少しでも火と煙の害を押さえられるかと思ったのだ。その代わり、ウェッジ自身は大きく肌をむき出すことになったが。

 ウェッジは可能な限り身を低くし、走り出した。


 ――死んでたまるか!


 だが、死ぬ気は無い。命と引き換えにしてでもという気持ちは更々無い。生き残る。何としてでも生き残る。リグスやグレンたちに会いに行くのは、まだ先でいい。今の自分はクルツと共に、死んでいった皆の代わりに、少しでもこの世に何かを残したい。


「死んで、たまるかよ!!」


 煙が目に刺さる。まともに息をする事も出来ない。それでもウェッジは、都市の外だと思われる方向に向かって、全力で駆けた。


「ぐうッ!?」


 やがて彼の身体は、何かにぶち当たった。一瞬魔物かと思ったが、そういう感触ではない。これは、木の柵だ。


 ――外!?


 木の柵という事は、これを乗り越えれば外だ。

 だが、娘を抱えたままでは飛べない。置いて行くという選択肢も、ウェッジの頭には毛頭無い。


「ウオオオオオオオ!!」


 ウェッジは吠えながら、両手で娘を投げ上げた。高い丸太の柵の上すれすれを、娘の身体が飛び越えていく。次は自分だ。ウェッジは助走を付けようと後ろに下がった。


「――ごほっ!」


 しかし、彼は咳き込んだ。煙を吸い過ぎたのか、息が出来なくなり、目の前がくらむ。


「ウェッジ! ウェッジだな! 居るのか!?」


 もう駄目かと思った時、ウェッジに呼びかける者がいた。あれはカジミルの声だ。都市に接近しながらも、入るタイミングを掴めず様子をうかがっていたカジミルは、急に柵を越えて、空から振ってきた娘を見て仰天した。


「カジミル、助けてくれ……!」

「待ってろ!」


 生にしがみつくために、ウェッジは最後の息で叫んだ。一も二も無く、柵の向こうからカジミルがそれに答える。だが、その木の柵にも、既に火が燃え移り始めている。ウェッジは自分の足元が、ジリジリと熱に焦がされるのを感じた。

 まぶたが落ちる瞬間にウェッジが見たのは、柵を乗り越えてくるカジミルの姿だった。















「余計なお世話だよ」


 当初に立てた作戦からは大きくずれてしまったが、最終的に、クルツたちの傭兵団はゴブリンの都市を滅ぼし、その中にいた生存者を救い出した。たった五人の傭兵団が成し遂げた事として、これは偉業と言っても良かった。

 何とか全員生き残ったクルツたちは、次にトリール西方を回って、救い出した娘の村を見つけ出した。もちろん、娘をその村に帰すために。


 ――余計なお世話。


 その村の男から、クルツがかけられたのがその言葉だ。


「……はっきり言って、かえって迷惑だ」


 男は、娘の親類だという人間だった。ウェッジがゴブリンの食料庫で目にした死体は、寡婦である娘の母親だった。つまり娘の親類は、今はその男の一家しかいない。


「頼みもしないのに、余計な事をしたもんだよ。あんたたちも」


 余計な事だと、その男はもう一度言った。男に娘を引き取る気が無いのは、その言葉を聞かずとも、態度から明白だった。

 クルツは男に何も言わず、ゆっくりと首を回し、連れてきた娘に視線を向けた。

 茶色の髪の娘は、クルツたちから離れた場所で、立ったままあらぬ方向を見ている。ゴブリンの都市から脱出してから十五日が過ぎたが、娘は今日まで一言も、人間の言葉を発していない。


 そう、クルツたちが命がけで救い出した娘は、哀れにも気が触れてしまっていた。


 母親を目の前で食糧に加工され、自身は魔物の家畜にされて、魔犬と共に飼われていたのだ。娘は僅か十四である。狂わない道理が、有っただろうか。


「こっちはとっくに、死んだと思って諦めてたんだ」


 そうは言っているが、肩をすくめた男の声からは、特に娘に対する思い入れを感じなかった。


「それにこの村じゃ、気狂いを食わせる余裕なんか無い。本当に迷惑だよ」


 クルツが何も言い返さないからか、男は次々と無情な言葉を吐いた。剣を携えた傭兵に、ただの村人が良くもこんな強気な口をきけたものだと思えるが、クルツの背後には、槍や鋤を持った男たちが集合している。

 何のことは無い。クルツはこの村にとって、ただの厄介な災難を連れ込んできた、流れ者の異分子でしか無かった。


「帰ってくれ」


 最後に、男はクルツにそう告げた。もちろん、娘は連れて行け。そういう響きが、その台詞にはこもっていた。

 ウェッジたち四人は、村の外に待機している。クルツ以外の四人は、村の中にすら入れてもらえなかった。


「さっさと帰りな、兄ちゃん」


 娘を見たまま動かないクルツに、別の男が強い声で言った。クルツはもう一度、娘の親類の男に目を戻した。クルツが口を開いた時、村人たちは、まるでクルツが暴れ出すとでも思ったかのように、手に持った武器を構えた。


「この娘の――」


 だが、クルツの声は穏やかだった。彼の片方だけ残った瞳は、寂しげに男を見ている。


「この娘の、名前は?」


 村人たちが拍子抜けした気配が、クルツにも伝わった。そんな事かとばかりに、親類の男が笑う。


「アイシアだ」

「……アイシア」


 口の中で、クルツは娘の名前を反芻した。あの銀髪の少女の名前に、どこか似ているとクルツは思った。

 それから、彼は男に詫びた。


「騒がせて、済まなかった」


 もしも今、クルツの隣にウェッジが立っていたら、村人たちを殴りつけるくらいの事はしただろうか。それとも、それ以上の事をしただろうか。

 しかしクルツは、村人たちに何もしなかった。文句を言おうともしなかった。


「行こう、アイシア」


 クルツが言うと、アイシアは駆けてきて、彼の身体に取りすがった。それはまるで、唯一の庇護者に助けを求める、幼い子どものような仕草だったが、それを見て、下卑た笑いを浮かべた村人が居た。


「な、何だよ」

「……いや」


 クルツはその村人を見て、かつての自分を思い出した。そう言えば、自分があの銀髪の少女に嫌われていたのは、良くこんな風な目を、彼女に向けていたからかもしれない。クルツは何となく、そう思った。


「……?」


 クルツは、自分が弱い力で押されたのを感じた。脇を見ると、アイシアの頭が、彼の腕に押しつけられている。彼女の身体は、細かく震えていた。


「……うん」


 クルツは少女を怯えさせないよう柔らかく頷くと、やはり穏やかな声で言った。


「では、これで失礼する」


 そうして、彼は娘を連れて、村から去った。



「飲め! クルツ! 飲め、この野郎!」


 次の日の夜、どこかの小さな町の居酒屋で、どんちゃん騒ぎを繰り広げている傭兵団が居た。


「もっと飲みやがれ! 畜生、なんで言い返して来なかった! 俺がいたら、そんな奴らぶっ殺してやったんだ!」


 飲み続けること数時間、ウェッジは既にベロベロに酔っ払って、クルツに無理矢理酒を勧めていた。レスリックもかなりの量を飲み、あまり飲まないカジミルの前で、うとうとと船をこぎ始めている。正気だった時には、レスリックもウェッジと一緒になって、村人の悪口で盛り上がっていた。

 ネレイアは底無しだったが、アイシアの寝床を整えると言って、この不毛な宴会から先に消えた。


 ――あの術は、あまり使いたく無かったの。……お肌が数年分老化しちゃうから。


 冗談めかしてそう言っていたが、ネレイアの口調は、どこかクルツを気遣っているようだった。唯一の女性団員として、積極的にアイシアの世話を焼いているのもそのためだろうか。

 この宴会も、最初はまともな反省会だった。結果として上手く行ったから良いものの、作戦は穴だらけだったし、途中から各々が独自の判断で行動して、一歩間違えれば大変な事になった。

 もう少しきちんと打ち合わせていれば。もっと全員の意思が通じていればと思う部分は沢山有り、次の仕事に向けて、皆がそれぞれ建設的な意見を出した。

 次の仕事の話をするという事は、レスリックたちもネレイアも、もう少しだけ自分に付いて来てくれるつもりなのだろうか。クルツは口に出して聞かなかったが、そうならば有り難いと思った。


「団長、お疲れ様でした」


 何十杯目かを空にして、ウェッジが床に昏倒すると、カジミルがクルツの側に寄ってきた。


「……本当に、お疲れ様でした」


 もう一度、念を押すように言われ、クルツは微笑んだ。カジミルが口にしたのはそれだけで、彼はレスリックとウェッジを肩に担いで、宿まで運んでいった。

 もう深夜だ。居酒屋に、クルツ以外の客はいなくなった。それでもクルツはもう少しだけ、一人でちびちびと飲んでいた。


「……ふぅ」


 流石に切り上げて寝ようと、クルツは町の通りに出た。

 月は雲に隠れているが、星明かりで十分に歩けた。


「……」


 クルツはふと、宿に向かう道を外れて、建物の無い、星を見上げやすい広場に来た。広場には町の聖人の像が建っていて、クルツはその台座に腰掛けた。


「……くっ、くく」


 しばらくすると、うつむいていたクルツの口から、呻きが漏れた。最初、それは泣き声のようだったが、やがて彼が笑っているのだと判別が付いた。

 ひとしきり笑ってから、彼は星を見上げた。


「……一人、か」


 クルツはつぶやいた。

 ウェッジたちは自分が傷ついたと思ったのかもしれないが、クルツにとって、村人たちの冷たい態度など、何ほどの事も無かった。それよりも遥かに、彼の心を捉えているものがあったからだ。


「一人…………」


 あの、死者が溢れた地獄の夜。あそこから抜け出した時、クルツは新たな生を得た。帝都の広場で新しい傭兵団を立ち上げ、民のために戦うと、彼は高らかに宣言した。

 民のため。今の自分が言うと、何とも空虚な台詞である。クルツは己を嘲った。


 ――……クルツ、一体、お前は何様のつもりだ?


 何様のつもりで、「民のため」などと白々しくのたまえるのか。他でもない、あの地獄が生まれた原因は、クルツ自身にあったというのに。皆を惨たらしい死に巻き込んだのは、他ならぬクルツだったというのに。

 あそこで死んだ人々だって、民だったのだ。そんな彼がのうのうと生き延びて、新しい生を享受する資格など、どこに有るのだろうか。

 自分がそんな思いを抱えていた事を、クルツはウェッジにも明かしていなかった。


「五千、引く、一人……」


 だから、彼は孤独に数えていた。あの夜に、自分のせいで死んだ人間の数を。

 あそこには、クルツが直接顔を合わせた事も無い、名前も知らない兵士が多かった。だが、せめて何人死んだのかだけは、可能な限り数えていた。

 兵とそれ以外を合わせて五千人。クルツはその数を、そう結論した。

 五千人、自分の野望と兄に対する劣等感のために、それだけの人間を無意味に死なせた。だから少なくとも五千の命を、自分は死ぬまでに救わなければならない。


「あと、四千九百、九十九」


 クルツは空を見上げながら、星を数えるようにそう言った。

 今回の仕事で、クルツはアイシアという少女を救う事が出来た。彼女の事は、きっと一人と数えても良いはずだ。


 ――……いや、でもな。


 クルツはうつむいた。

 アイシアの母親は救えなかった。なら、救えた命から救えなかった命を引いて、差し引きゼロだという気がする。いや、自分たちが来る前にも、あのゴブリンの集落で、他に何人も死んでいるはずだ。その分も、クルツは己が死なせた人の数に含めるべきなのではないだろうか。


 ――……やっぱり、五千だな。


 クルツは弱々しく首を振った。

 うぬぼれてはならない。自分は所詮、天使にも聖人にもなれない。あまり際限が無くなっても困るから、アイシアの母親の分だけ数えて、五千という事にしておこう。万や十万なら途方に暮れるしかないが、五千なら、まだ何とかなるという気がする。

 五千人の命を救う。個人の罪悪感から来る、酷く利己的なその誓いを、「民のため」と言って誤魔化す自分は、やはりウェッジたちを裏切っているのだろうか。一人では無理そうだからと、他人の力まで借りようとする自分は、やはり甘ったれた卑怯者なのだろうか。

 その疑問からは目を逸らし、クルツは尻を払って立ち上がった。

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