第178話

「――はっ」


 少し立ちくらみがして、ネレイアは息を整えた。

 一発放っただけでも、高位魔術の行使はネレイアの魔力を大きく削いだ。遠距離から広範囲に、これほど大規模な魔術を行使したのは久しぶり――アルフェたちと共に、仇のルサールカと戦って以来だ。

 鈍っていた。それ以上に、ルサールカとの戦闘で、ネレイアの術を補助していた魔術具を失ったのが痛い。この調子では、とても一人であの数のゴブリンを相手にはできなかった。

 丘の上から、ネレイアは戦いを見下ろす。一度空中に舞い上がったクルツとゴブリンたちは、草の付いた土や石塊と共に、水浸しの地面に落下した。

 ゴブリンの中には、地下水の爆発や落下の衝撃で死んだ者も多いが、クルツは無傷だ。彼はすぐに立ち上がって、生き残りのゴブリンと交戦し始めた。ネレイアが初めて目にする団長の太刀筋は、意外と鋭く見えた。

 作戦は継続している。休んでいる暇は無い。ネレイアは身体のバランスを整え、息を吸った。


「【水よ、我が呼びかけに応え、その力を示せ】」


 周囲に水場は無くとも、空気中、地面の中にも水のマナは混じっている。ネレイアの呼びかけに応じて、青いマナの光が揺らめき、ほのかにネレイアの周囲を照らした。

 ネレイアを護衛しているレスリックたちは瞠目した。草に落ちた露や大気に含まれる僅かな水が、ネレイアの頭上に集まって水球を形成しているのだ。彼らのような傭兵が、戦場でも滅多に見る事ができない高位魔術、ネレイアはそれを連発しようとしている。

 詠唱を終え、ネレイアはかっと目を見開いた。


「【貫け】!」


 水球から、細い線のように圧縮された水が、ゴブリンたちめがけて一直線に伸びていく。水はその内の一体に命中し、易々と魔物の頭部を貫通した。

 ネレイアが手を一振りすると、それに呼応するような動きで、水の線は戦場をなぎ払う。熱いナイフでバターを切るように、ゴブリンたちの身体は次々と両断されていく。彼女が事前に言ったように、この距離からでは魔術の精妙な操作は不可能だ。その通り、水はクルツにも命中したように見えた。しかし、彼の鎧はそれもはじき返す。


「――く」


 ネレイアの口から、短い呻きが漏れる。発動前に彼女が想定したよりも、魔術の威力は弱く、持続時間は短かった。やはり魔力が安定していない。立ちくらみも酷くなった。

 それを誤魔化すように、ネレイアは大声を出した。


「あなたたち!」


 レスリックとカジミルが、はじかれたように振り返る。この二人は団長であるクルツの作戦通り、律儀にネレイアを護衛している。だが、今ここには、三人もの人手は要らない。何のかんの言って、最も危険な位置に居て、最も手助けが必要なのは、下に居るクルツとウェッジだ。


 クルツはウェッジに対して、自分たちは対等だと言った。

 ならばこの三人も、傭兵団の団員として、同じように命をかけるべきだ。


「私はいいから、下に行って!」


 次の魔術のために魔力を練りつつ、ネレイアは男二人にそう言った。


「早く!」


 ネレイアの言葉をどう捉えたのか、レスリックは頷いた。


「分かった、姐さん! 行くぞカジミル! 団長と副長を援護する!」

「応!」

「……え? ちょっと! 姐さんて何よ!」


 十は年上のひげ面の男に姐さんと呼ばれて、ネレイアは憤った。しかしレスリックたちは、既に丘の斜面を走り降りている。彼らは二手に分かれ、レスリックがクルツの、カジミルがウェッジの援護に回るつもりだ。

 姐さんと呼ばれた衝撃に、くらんでいたネレイアの頭ははっきりとした。まだ、大規模な魔術の二、三発は放てる。彼女の口は、再び長い呪文を紡ぎ始めた。



 何かが爆発したような轟音の後、戦闘音は断続的に響いている。集落の中の気配が移動し、十分に警戒が弱まったと感じたとき、ウェッジは柵を乗り越えた。

 内側に入ると同時に、魔物の体臭と汚物、腐った肉の臭いの入り交じった空気が、より強くウェッジの鼻を貫いた。彼は顔をしかめたが、この腐臭こそが捜索の頼りだ。感覚を研ぎ澄ませ、彼は臭いを嗅ぎ分ける。


 ――“食料庫”はどっちだ……。向こうか!?


 背をかがめたまま音も立てず、ウェッジは素早く移動する。彼が目指しているのは、ゴブリンが食糧を貯蔵している場所だ。ゴブリンにとって、人間は捕虜でも財産でもない。奴隷の様な労働力にもなり得ない。即ち、彼らが攫った人間を入れておくとしたら、食糧庫以外に無いのだ。

 クルツに誘われて、大半のゴブリンは集落の正面に集まっているらしいが、それでも相当数が集落内に留まっている。完全に発見されないのは不可能だ。

 ウェッジはかち合ったゴブリンが警戒音を発する前に、その息の根を一撃で止めた。彼は十年以上、リグス傭兵団の斥候として手強い魔物や同業と渡り合ってきたのだ。このくらいは朝飯前である。

 しかし、ゴブリンの数の暴力の前には、いずれ限界が来るだろう。そうなる前に見つけるものを見つけ、一目散に脱出しなければならない。


 ――ここだ!


 目的の、死肉の臭いを発する小屋に、ウェッジは踏み込んだ。

 明るいところから急に暗がりに入ったので、目が慣れるのに数瞬かかった。そして中には、吐き気を催す光景が広がっていた。

 何匹もの死んだ魔物や動物が、天井から吊り下げられている。どれも腹を割られ、内臓を引き出す、食肉としての“処理”が終わっているようだった。部屋の隅には、桶のような容器一杯に溜まった血の中に、臓物がぷかぷかと浮いている。

 嫌悪感を思考から切り離し、その中に人間は居ないかと、ウェッジは素早く目を走らせた。


 ネズミ、鶏、ウサギ、ワーグ、ワーグ、同族のゴブリン、羊、鶏、ゴブリン、ワーグ、羊。そして、人間。


 やはり、攫われた人間は死んでいた。両手を縛られ事切れた全裸の女が、天井からぶら下がっている。恐らく、死んでから数日も経っていない。裂かれた腹は、まだぬらぬらと艶めかしく光っていた。


「――くッ!」


 ウェッジは奥歯を噛みしめる。同時に彼の短剣が閃いて、女の縛られた手を自由にした。その死体が、どさりと地面に横たわる。

 遺体を持ち出し、埋葬してやりたいところだが、今できるのはそれくらいだ。生存者は居なかった。それだけは確認できた。これでクルツも納得する。ウェッジはゴブリンの食料庫を出た。


「――!?」


 その時、犬の吠え声がした。ウェッジが声の方向を見ると同時に、通路の角を曲がって、二匹の小型の魔犬が走り出てきた。

 ゴブリンに飼われていたのか。ゴブリンが他の魔物を飼うなど、聞いた事が無い。そう思う前に、ウェッジの投げた礫が、魔犬の額を割っていた。しかしその二匹を処理しても、別の数カ所から吠え声が上がり始めた。集落の正面に動いていた気配の流れが変わった。一部は集落の侵入者――ウェッジに向かって移動している。

 逃げなければ。ウェッジは走り出した。


 四方から、数十のゴブリンの気配が押し寄せてきている。ウェッジは遭遇を最大限回避しつつ走ったが、いつしか、彼の姿は完全に捕捉された。屋根の上から、ゴブリンが警戒音を発している。彼を狙って石や矢も飛んできた。

 通路をジグザグに動き回りながら、ウェッジは逃げた。どこをどう走っているのかも、段々と曖昧になっていく。


「オラぁッ!」


 敵に前後から挟まれそうになったので、それをやり過ごそうと、ウェッジは脇の小屋の壁を蹴り飛ばした。小屋は脆くも倒壊し、瓦礫が通路を塞ぐ。混乱の隙に、ウェッジは適当な別の小屋に走り込んだ。


 ――うおッ!?


 その小屋に入ると、無数の魔犬の吠え声が、ウェッジの耳をつんざいた。彼は思わず腕で顔を覆ったが、魔犬は襲ってくる気配が無い。ただしきりに吠えているだけだ。


 ――ゴブリンの犬小屋か!?


 目を開けて確認すると、その小屋には幾つもの木の檻があった。どの檻にも、魔犬が何匹も詰め込まれている。ウェッジには知るよしも無かったが、この家畜小屋で、ゴブリンたちは魔犬を飼育、養殖していたのだ。

 この檻を開け、中の魔犬たちを放って混乱を誘うべきか、ウェッジは逡巡した。


「う……」


 そして、吠え声に混じってかすかに響いた人間の呻きを、彼は聞き逃さなかった。良く見渡すと、奥にある檻の中の一つに、一人の人間の娘が入れられている。服は無惨に引き裂かれ、ほとんど半裸の状態だ。肌にも細かい傷が無数に付いている。

 だが、娘は間違い無く息をしていた。


 ウェッジは一瞬で決断した。彼は娘の入っている檻をたたき壊し、脇に娘を抱え上げた。年の頃は十四、五か、痩せてはいるが、意識を失った人間の身体は十分に重たい。

 次にウェッジは、腰のポーチから取り出した小さな筒から伸びた導線を、己の歯で引き抜いた。魔力式の着火剤。貴重な品だが、ここが使いどころだ。


「恨むなよ」


 そう言って、ウェッジは着火剤を魔犬の檻に投げ入れる。汚い寝藁に、あっという間に火がくすぶり始めた。煙がもうもうと立ちこめ、魔犬たちの吠え声は、キャンキャンという悲鳴に変わる。

 そしてウェッジは、家畜小屋を脱出した。



「まだまだぁッ! ゴブリン共、俺はまだ元気だぞ!」


 クルツは剣を振り回しながら大声で叫んだが、実際のところ、彼の息は上がってきていた。重たい鎧を着たままで、走り回りながら大量のゴブリンを相手にしていれば当然だ。しかし、ぜえぜえと喉を鳴らしながらも、クルツは大声を出すのを止めなかった。

 クルツが、できるだけ多くの魔物の注意を引く。これは、他ならぬ彼自身が立てた作戦なのだ。

 ウェッジはもう、ゴブリンの集落の内部に忍び込んでいるはずだ。あの男ならば、必ず生存者を見つけて助け出してくれる。あのアンデッドの夜に、あの男はこんな自分ですら、最後まで見捨てなかったのだ。

 クルツは、ウェッジを固く信じていた。


 いや、ネレイア、レスリック、カジミルたちの事も、クルツは一片たりとも疑っていなかった。世間知らずの傲慢な貴族の次男坊は、あの夜に死んだ。自分は生まれ変わった。己に付いて来てくれた人間を、自分は最後まで信じ切る。生まれ変わったクルツは、そうやって生きると決めたのだ。


「おあああッ!」


 傭兵団長と言えば、クルツの中に焼き付いているのは、リグスの姿だった。リグスはクルツが手にしているこの団旗より、遥かに重そうな鋼の戦鎚を、片手で軽々と振り回していた。

 それぐらい出来るようにならなければ、団長として、団員の命を支える事は出来ないのだ。火事場の馬鹿力で、クルツは団旗を振り回し、槍の柄の部分で数匹のゴブリンを打ちのめした。新品だった団旗は、既にゴブリンの返り血や吐瀉物に濡れ、矢で幾つもの穴が開いていた。


 敵はまだまだ残っている。


 ネレイアからの魔術支援は多くのゴブリンをなぎ倒したが、丘の上から飛んでくる魔術は段々と散発的になり、数分前についに止んだ。

 最後に数十のゴブリンを巻き込んで炸裂した水の塊によって、下は水浸しのぬかるみのようになっている。クルツの足はくるぶしまで地面に埋まり、それが更に彼の体力を奪う。


「ぬん!」


 余計な事を考えるのを止めたクルツは、いつしか長剣を投げ出し、団旗を両手に持って戦っていた。


 クルツは目の前の敵と戦う事に夢中だ。しかし冷静に考えると、ここに一つ妙な事があった。

 この戦闘において、ゴブリンはこれで、既に何百匹死んだのだろうか。

 ゴブリンは狡猾で臆病な魔物である。彼らが群れで戦う場合、これ程までに被害を出しながらも踏みとどまるという事は、通常あり得ないはずなのだ。百匹のゴブリンが居たとしたら、その二割も死なないうちに、大抵は潰走を始める。

 だが、この集落のゴブリンは踏みとどまっている。その理由は恐らく、彼らにとって恐れるべきものが、敵以外にもあるからだ。

 そしてその恐れるべきものは、今は一体どこに居るのだろうか。


「こなくそッ!」


 それを考える余裕の無いクルツは、泥臭い戦いを続けている。

 いっそ目の前の敵が全滅するまで、最後まで戦い抜いてやろう。彼がそう覚悟を決めたときに、声がした。


「団長!」


 槍を携えたレスリックが、丘の上から加勢に駆けつけたのだ。


「ぜはあッ!?」


 息の上がったクルツは、レスリックに対して、意味不明の音しか返す事ができない。そして参戦したレスリックは、クルツよりもずっと腰の入った構えで、槍をゴブリンに突き出した。



 集落内から火の手が上がり、ゴブリンたちの混乱は加速した。慌てふためくゴブリンを蹴り飛ばしながら、ウェッジは脱出口を目指して走っている。

 しかし、かなり滅茶苦茶に逃げ回ったせいで、ウェッジには己の現在地が判然としなかった。進んだと思えば、さっきと同じような通路に戻る。無秩序、無計画に拡大したゴブリンの都市の構造が、ウェッジを更に迷わせた。


 ――屋根の上なら――!


 目立つかもしれないが、既に見つかってしまった今なら同じだ。そう考えたウェッジは、抱えた娘を屋根の上に乱暴に投げ上げると、自分も屋根に飛び乗った。背中を打った衝撃で、娘が僅かに呻いたが、これくらいは耐えてもらわなければならない。彼は娘を抱え直し、屋根の上を駆けた。

 屋根と言ったが、ゴブリンの住居は屋根と床の区別が曖昧だった。屋根の上にはまた更に住居が積み重なっていて、所々は三重、四重になっていた。適当な小屋に残った最後の着火剤を投げ入れて、ウェッジは走った。

 屋根の上では、飛んでくる矢の本数が増えた。黒い石の矢尻がウェッジの肌をかすり、幾筋もの赤い線を刻んでいく。一本が背中に刺さったが、骨が内臓に届くのを防いでくれた。


「どけぇッ!」


 屋根の上で遭遇した一匹のゴブリンを、ウェッジは短剣の腹で力任せにぶん殴り、下の通路にたたき落とした。下から這い上ろうとしていたゴブリンたちは、落ちてきた同族の身体に当たって仰向けに折り重なった。

 矢を回避する過程で、ウェッジは段々と、上へ上へと逃げていた。そうしている内、彼が徐々に都市の中央にある、最も高く大きな建物に向かって行くことになったのは、単なる偶然か、それともウェッジがそうするように、ゴブリンたちが彼を誘導したのだろうか。

 いずれにしても、ウェッジはあちこち逃げ回ったあげく、その一番大きな建物の扉を蹴破る事になったのだ。


「…………ちッ」


 そして、その中に居たのはもちろん――


「王様気取りか、ゴブリン風情が!」


 娘を床に下ろし、短剣を横に構え、ウェッジは忌々しそうに吐き捨てた。

 その建物の中央には、ゴブリンとは思えぬ程の巨体の魔物が、骨と皮で作られた玉座に鎮座していた。

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