第170話

 マキアスがおよそ二ヶ月ぶりに竜窟から出ると、ダンジョンの暗さに慣れた目に、太陽の光が突き刺さった。

 青年の焦茶色の髪は耳を覆う程に長くなり、襟足は紐で結んでまとめてある。無精髭も生え放題だ。精々身体を拭くくらいで、当然風呂にも入っていないから、恐らく相当臭うはずである。

 神殿騎士団の鎧はボロボロで、鍔の取れた剣には、布を巻いて応急処置が施してある。鎧の下の肉体には、生傷も多く有るだろう。

 何とか生還した。今のマキアスは、まさにその言葉が相応しい風体をしていた。

 頬はこけているが、眼の光だけは強い。そこにはある種の修羅場をくぐり抜けて来た人間特有の、自信の様なものがあった。


「ようやく、戻ってこれたな……」


 マキアスは、感慨深そうにつぶやいた。


「ええ」


 それに短く答えたのは、マキアスと一緒に竜窟に潜っていたクラウスだ。

 二ヶ月一緒に生活したのに、クラウスという男は相変わらず愛想が無かった。しかしマキアスが気を悪くする事はなく、苦笑すると、片手を差し出した。


「ありがとう。お前がいなかったら、とても帰ってこられなかった」

「……お互い様ですよ」


 クラウスの外見も、マキアスと同じように薄汚れている。ちょっと笑みを浮かべ、クラウスはマキアスの手を握った。マキアスがこの男の笑顔を見たのは、これが初めてだ。それだけ安心したのだろうか。二人の青年は、やがて抑えきれない笑い声を出した。


「――俺は、ヴォルクス様に報告が有ります。すぐに帝都に戻らなければ」


 しかし、クラウスはふっと笑顔を消した。帝都に戻るのはマキアスも一緒だが、団長の元に帰還の報告をするのは、せめて身綺麗にしてからだと思っていた。だが、クラウスは一刻も早くという表情をしている。

 マキアスはこの竜窟に、単なる修行を目的にして潜っていたが、クラウスにはマキアスのお守りだけで無く、ヴォルクスから命じられた別の目的が有ったようだ。夜営時などにたまに姿を消して、この男は何かを調べている様子だった。

 だが、大いに助けられたのは事実だから、マキアスがそれを咎めるような事はしなかった。


「メルヴィナさんは?」


 クラウスがヴォルクスの所に行くのなら、彼女も行くのだろう。マキアスは首を回し、メルヴィナの姿を探した。

 メルヴィナはすぐに見つかった。彼女は竜窟の入り口側に立っている男二人から離れて、木の陰に隠れるようにしている。マキアスと同じくメルヴィナを見つけたクラウスは、どうしてあんな所に居るのかと眉をひそめ、彼女に近寄ろうとした。


「おいおい、ちょっと待て」

「……? どうしました」


 マキアスに乱暴に肩を掴まれて、クラウスは怪訝な表情を浮かべた。マキアスはその顔を見て、なるほど、テオドールが自分の女の扱いに対して腹を立てる時というのは、こういう気持ちだったのかと、妙な発見をした気分になった。

 まだ引き留められた理由が分かっていない様子のクラウスに、マキアスは顔を寄せて囁いた。


「メルヴィナさんの気持ちも考えろ」

「メルヴィナ……様の……?」

「分からないのか? 風呂にも入らないで二ヶ月だぞ。俺やお前が良くたって、彼女にしたら近寄り辛いだろう」

「ああ」


 クラウスはようやく理解したようだ。


「別に俺は気にしません。俺が臭いのは、我慢してもらいます」

「おいおいおい、おい……!」


 もう一度引き留めようとしたマキアスの手が空を切った。

 メルヴィナは、今のお前に近寄られるのを嫌がるはずだ。マキアスがどういう意図でそれを忠告したのか、やはりこの男は理解していない。クラウスはメルヴィナに向かって、ずんずんと歩を進める。

 マキアスには、木の陰にいるメルヴィナがいつも以上に背中を丸め、身体を小さくしたのが見えた。


 ――この鈍感野郎!


 気になる異性に体臭を嗅がれたくない。メルヴィナの乙女心を解さずに、クラウスは彼女の前に立つと、小さくなったメルヴィナを見下ろす形で淀みなく喋っている。

 うつむいたメルヴィナの顔は、いつもの青白さがどこへ行ったかと思う程に紅潮していた。

 黒髪の魔術士であるメルヴィナは、従者のクラウスという男に好意を抱いている。このダンジョンに入る前から、もしかしたらと思っていたマキアスだったが、三人で二ヶ月一緒に暮らす事で、その推測は確信に変わった。

 クラウスに対する時だけ、メルヴィナの言葉や態度の中には、マキアスに対する時には無い感情が含まれていたのだ。


 しかし、その感情を向けられている当のクラウスは、あの通り全く意に介していない様子だった。クラウスというのは、かなり腕が立つ上に色々と目端の利く男だったが、所々に世間一般とずれた部分があった。

 例えば、竜窟に潜ってから一ヶ月も過ぎた頃、マキアスたちが持ち込んだ保存食が底をついた。流石に一旦地上に戻らなければとマキアスは思ったが、それは時間の無駄だとクラウスは言った。


 ――それより、魔物を食いましょう。


 そして平然と、どこかの誰かと同じような事を提案したので、マキアスは驚いた。

 獣系の魔物の肉ならまだしも、昆虫系の魔物の幼体すらも当たり前のように食材として見なし、それらを焚き火だけで巧みに調理する様は、マキアスが知るあの娘と本当に似ていた。出来上がったものの味は、あの娘が作ったものよりもクラウスの方が優れていると思ったくらいだ。

 他にも、丁寧な物腰の割に戦い方に手段を選ばないところがあったりと、姿は全く違うのに、どうしてかあの娘――アルフェと重なる部分が、クラウスにはあった。

 そんな事をマキアスが考えていると、メルヴィナとの話を終えたらしく、クラウスが彼の方に戻ってきた。メルヴィナはまだ、木の陰に隠れている。


「次の船で帝都に戻りましょう。日数が正しければ、ちょうど今日の昼、出航の予定です」

「あの中で数えてたのか?」

「はい」


 時間の感覚さえ曖昧になるダンジョンの中でも、クラウスはきちんと正確な日数を把握していた。そんな部分にも感心する。


「戻ったら、お別れですが」

「そんな事は無いだろ。二人はまだ、帝都に滞在するつもりなんだろ?」

「……はい。そうですね」

「帰ったら一緒に食事でもしよう。俺の妹も、メルヴィナさんに会ってみたいって言ってたしな。できれば四人で」

「……そうですね。できれば、そうしたいです」


 マキアスは本当の所、親友であるテオドールを交えた五人でと言いたかった。だが帝都に居る間は、テオドールはそんな迂闊な行動をする事はできない。


 ――そうだな、団長の所に報告に行く前に、一度テオドールの様子を見に行くか。


 マキアスはそう思った。



 船で帝都の港に移動し、マキアスたちはそこで解散した。クラウスとメルヴィナは、騎士団本部に居るヴォルクスの元へ直行するつもりのようだったし、マキアスはマキアスで、まずは妹のステラに、無事な顔を見せてやりたかったからだ。

 敗残兵の様な薄汚れた格好の青年騎士を、すれ違う人々は次々と振り返って見た。マキアスは苦笑しつつも、港湾地区を抜け、中央通りから自宅の有る大聖堂近くの区画へと向かう。

 そこで彼は、帝都が二ヶ月前よりも、やけに騒然としている事に気が付いた。区画ごとに立っている掲示板の前には、どこでも人だかりができているのだ。


 ――何だ?


 不思議に思ったマキアスは、少し歩調を緩めた。


「なあ、あの張り紙はなんて書いてあるんだ?」

「ああ、お前は字が読めなかったな。俺は読めるぜ? 仕方ねぇから、俺が読んでやろうか?」

「恩着せがましく言うな。早くしろ」

「待て待て」


 二人の職人風の男が、都合良くそんな会話をしていた。


「え~っと。“帝都臣民に告げる――”」


 マキアスは完全に立ち止まり、男の声に耳を傾けた。人だかりの中には、男の連れの他にも字が読めない者がいたらしい。その人々を含めて、男に注目が集まった。


「“この度、光輝ある帝国の新たな皇帝を選出する事が、帝国元老院の全会一致で決定された。不幸にして、この国は永らく、共に戴くべき主君を欠いていた。しかし、やがて行われる選帝会議によって、その過ちとも言える状態は正される。神の恩寵によりて、神聖教会総主教の立ち会いのもと――」


 男の読み上げは続いているが、それをかき消す程に人々のざわめきが大きくなっていく。

 マキアスもまた、驚愕していた。文章からして、男が読み上げているのは正式な布告では無く、誰かが書いた檄文のようなものらしい。しかしその文面には、書いた者の確信が籠っていて、単なる落書きであるとは思えなかった。

 この二ヶ月の間に、一体何があったのか。その場から離れて、足早になって家に向かうマキアスの目には、色々な変化が飛び込んできた。

 街角で、身なりの良い男同士が激論している。内容はやはり、皇帝を誰にするべきかという事だ。巡回している衛兵の数がいつもより多く。何かに目を光らせているような感じがする。実際、マキアスも一度呼び止められた。掲示板だけでなく、民家の壁にも皇帝選出を求める張り紙がしてあった。


 マキアスが竜窟に籠る前、この町の人間たちは、皇帝というものの存在を忘れたような顔をして過ごしていた。それなのに今は、どこに行っても皇帝という単語が聞こえてくる。

 これは一体どういうことだと、マキアスはただただ困惑した。


「……テオドール」


 そしてもし、本当に選帝会議なるものが行われるのなら、テオドールは絶対にその話の中心に据えられる事になる。

 やはりヴォルクスの所に行く前に、絶対にテオドールに会わなければならない。マキアスは再度意志を固めた。



「やあ、マキアス。久しぶりだね」


 そしてマキアスは、帝都に戻ったその日の内にテオドールに会った。妹との再会の挨拶もそこそこにして、身体を洗い、服を新しい物に取り替えると、騎士団本部に走った。


「元気だったかい? しばらく顔を見なかったから、心配していたんだ」


 日は落ちて夜になっていたが、テオドールには会う事ができた。皇帝選挙の話が無くても、最近のテオドールは高位騎士や聖職者たちに取り巻かれていた。だから二人きりで会う事は、もしかしたら難しいかもしれないと考えていたのだが、その心配は杞憂に終わった。

 テオドールはマキアスの様な身分の低い下っ端と違い、騎士団本部に個室を与えられている。他の団員と区別される事をテオドールは嫌がったが、内密の話には丁度良かった。


「その顔はどうしたんだ。髭を生やす事にしたのか? なら、きちんと整えないと駄目だ。いつも言っているだろう?」

「あ、ああ。ちょっと帝都の外に居たんだ。連絡しなくて悪かった。髭は剃るよ。髪も切るからさ」


 テオドールの雰囲気に押されて、マキアスは言わなくても良い事から口走った。

 何だろうか、久しぶりに会ったテオドールは、マキアスの目から見ると、異様な雰囲気を放っていた。


「切れって言ったんじゃ無いさ。私たちはもう、髭を生やしていても可笑しくない歳だろ? この機会に伸ばしてみたらどうだ?」


 テオドールは白い歯を見せた。

 その笑顔を見て、マキアスは違和感を堪えかねて尋ねた。


「どうしたんだ、テオドール」

「どうって?」

「いや、帝都に帰ってきたら、嫌な噂を聞いたからさ」

「ああ、もしかしてあれの事か」


 テオドールは、ちょっと顔色を曇らせた。

 そうだ、この表情の方が違和感は無い。帝都を離れる前、マキアスは何度かテオドールの姿を見た。通路で短く会話を交わしたり、遠くから眺めたりするだけだったが、最近のテオドールは、ずっと落ち込んでいて元気が無かったはずなのだ。


「吹っ切れたんだ」


 しかし次に顔を上げた時、テオドールはとても明るい表情をしていた。


「吹っ切れた?」

「私も今まで、色々と悩んできた。自分がこういう家に生まれた事を、受け入れられなかった時期もある。……だが確かに、この国には新しい皇帝が必要なのかもしれない。それならそれで、私は私の責務を果たさなければならない。私は騎士だ。騎士として、持って生まれたものを人々の役に立てるのは、当然の事だ。そうだろ?」

「そう、なのか?」

「そうさ」


 マキアスが居ない間に、テオドールは色々と覚悟を決めてしまったようだった。それはマキアスの目には違和感として映ったが、テオドールの中では、ここに至るまでに様々な葛藤が有ったのだろうか。


「まあ、そんな事を言っても、別にどうしても皇帝になりたいって思った訳じゃ無い。他に相応しい人物が居れば、その人でも構わないんだ。むしろ、誰か別の人になって欲しいと思う。でも、候補として立つくらいなら」

「……本気なのか? 無理してるんじゃないのか?」

「……やっぱり、お前は心配してくれるんだな」


 テオドールはマキアスの肩に手を回し、ぐっと自分の近くに引き寄せると、ありがとうと言った。


「マキアス、お前は私の親友だ。幼い頃から、本当に友人と呼べるのは、お前だけだった」

「……そうだ、俺はお前の友だちだ。だから心配なんだ」


 マキアスはテオドールを引き剥がすと、その両肩を掴み、眼を合わせて聞いた。


「皇帝選挙の話は聞いたよ。そうなれば、お前も候補だって事も分かってる。でもそんな急に……、お前はそれでいいのか?」

「ああ」

「本当か?」

「良く考えた上での結論だ。さっきも言ったが、ここに来るまで、私も悩んだ。――だから、マキアス」


 お前は私の親友だと、テオドールはもう一度繰り返した。


「せめてお前だけは、私の決断を応援して欲しいんだ」


 テオドールの目は真剣だった。それは確かに、マキアスが良く知る親友の眼差しだった。


「あの取り巻きたちに、何か言われたのか?」

「強制された訳じゃない。例え言われたとしても、最後に決めたのは私だ」

「後悔は――」

「するかもしれないな。だが、それを恐れて、自分の血から逃げ回るのはもう止めたい。――頼むマキアス。私の背中を押してくれ」


 これは紛れもなく、マキアスが知っているテオドールのはずだ。そのテオドールが今、正直な気持ちをさらけ出している。

 だが、何か違和感が拭えない。それはなぜなのだろうか。


「頼むよ」


 テオドールは微笑んでいる。だが、この笑顔は本心からのものなのか。マキアスにはどうしても確証が持てなかった。持てなかったが、この場では、彼はただ頷くしか無かった。

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