第169話
開拓村の宿屋で夕食を取りながら、アルフェは歌と演奏を聴いていた。
隅の椅子に腰掛けた短い髭の男が、リュートを鳴らしながら、響きの良い低い声で歌っている。この空間でその音楽に真剣に耳を傾けているのは、恐らくアルフェだけだった。他の人間は、男の事など大して気にも止めず、がやがやとお喋りに花を咲かせている。
男が演奏しているのは、どこか哀切を含んだ、緩やかな曲だ。夜の空気には合っているとアルフェは思ったが、酔っ払いたちにとっては、もっと賑やかな曲の方が欲しいのかもしれなかった。
アルフェは吟遊詩人というものの実物を、今日初めて見た。
数日前、アルフェたちが片付けた依頼の副産物として、この開拓村は新しい魔石の鉱脈を発見する事になった。魔石は銅鉱よりもずっと貴重で、はるかに高値で取引される。欲に正直なこの村の村長は、鉱脈の発見以来、濡れ手に粟という表情を崩さない。
今は鉱脈周辺の安全確保と、試掘が行われている段階だが、鉱脈の発見から早数日で、この村に滞在している人間の数は明らかに多くなった。この酒場の人口密度も、数日前とは比べものにならない。鉱夫の口を求めて来た者たち以外にも、一攫千金を求める山師たちが、村長の幸運にあやかろうと押し寄せている様子だ。
村長にとって、アルフェは紛れもない幸運の使者なので、宿の部屋が満員になっても、アルフェたちが追い出されるような事は無かった。むしろアルフェたちに提供される食事等のサービスの質は向上して、村長の媚びる笑みも大きくなっている。
ともかく、そんなこんなで増えた人間の中に、その吟遊詩人の姿も混じっていた。
「…………?」
突然、吟遊詩人が演奏を途中で止めた。音楽に集中していたアルフェが目を開くと、村長が吟遊詩人に文句を言っている様子が見えた。
恐らく、もっと流行の盛り上がる曲を、とでも言っているのだろう。客が思わず金を使いたくなるような。吟遊詩人は愛想笑いをしながら、腰を低くしてぺこぺこと頷いていたが、その眼は少し不服そうだった。
村長が去り、肩を落としてため息を吐いた吟遊詩人は、開き直ったように明るい曲を演奏し始めた。
もう夕食も済んだ。興味を失ったアルフェは、宿の自分の部屋に戻った。
「情報屋は、何も預かっていませんでした」
翌朝、近い町に使いに行っていたフロイドが戻ってきた。
何も預かっていないというのは、アルフェの生家であるラトリア大公家に仕えていた、クラウスという従者からの連絡だった。彼は今、大公領を侵略したドニエステ王国の臣下になっており、アルフェが仇と狙う魔術士の情報を送る約束をしていたが、ここのところ音沙汰が無い。
一応、しばらく連絡が取れなくなるという断りの手紙だけは、事前に送ってきていたのだが。
落胆を隠し、アルフェは臣下を労った。
「ご苦労でした、フロイド」
「礼には及びません。イコの脚も、たまには走らせないと鈍ってしまうし」
「この村は、狭苦しいですからね……」
「それはそうと、妙な噂を聞きました」
「妙な?」
「はい。近々、帝都で選定が行われるかもしれないという噂です」
「……皇帝?」
それは確かに妙な噂だ。アルフェは怪訝な表情をした。
皇帝選挙ということは、この帝国で百年間空位であった皇帝、それを新しく決めるという事なのだから。政治に疎いアルフェですら、なぜ今という疑問が頭に浮かんだ。
――……ユリアン・エアハルト?
その疑問は、アルフェがかつて対面し、皇帝への野望をほのめかした男の顔と結びついた。フロイドを見ると、この男も似たような事を想像していたようだ。アルフェの思考を読んだように、フロイドは頷いた。
「俺も、あの男の下にいた頃、そんな話を聞かされた事があります。そしてあの男なら、実際にやりかねません」
「……そうですね」
同意しながら、アルフェは別の事を考えていた。
ユリアンは、フロイドに自分の野望を語って聞かせていた。深く接した訳では無いが、アルフェが知るユリアンには、そういう事を無闇やたらに人に教えるという印象は無い。
つまりユリアンは、フロイドの事をかなり高く評価していたのではないだろうか。少なくとも、自分の野望を直接語って、付いて来いとほのめかす程度には。
「どうしましたか?」
「いえ……」
そういう大望を持った男の下に居た方が、自分の下に居るよりも、お前が望むものを手に入れる機会が有ったのではないか。アルフェはつい、フロイドにそんな事を聞きそうになったが、現実としてこの男がここに居る以上、それは言ってはならない事なのかもしれない。
「皇帝選挙は、どういう手順で行われるのですか」
アルフェはその考えを相手に悟られないために、自分でも既に承知している事を聞いた。
「帝国元老院が開催を決定すれば、帝都の宮殿に八大諸侯が呼び集められ、皇帝の選定が行われるはずです。当然、貴女の御実家とも関係する話になるが……」
ラトリアに関する話題について、フロイドはアルフェの顔色を窺い、言葉を選んでいるようだ。アルフェは首を横に振った。
「別に気を遣わなくても結構です。その名前は、既に捨てました」
「――はい。八大諸侯を全て呼び集めるのは、現状では不可能のはずだ。ラトリア大公が死去した後、その代理は大公妃が務めていたと聞きます。だから本来ならば、大公妃が選帝会議に呼ばれるのでしょうが……」
「ラトリアはドニエステ王国に征服された」
「そうです」
「では、ラトリア大公を欠いた残りの七人で、選帝会議を行うという事になるのですね」
「普通はそうなるはずです。――大公妃の代理を、さらに立てるという事も可能なのでしょうが」
アルフェは考え込んでいた顔を上げると、フロイドと目が合った。
フロイドの言う通り、話の筋だけで考えれば、ラトリア大公家の縁者が大公妃の代理として会議に出席する事は可能だ。そしてここに、亡きラトリア大公の血を、最も色濃く受け継ぐ者が一人居る。
アルフェは意地悪そうに微笑んで見せた。
「私に出て欲しいのですか?」
「……失礼。ただ、可能性はあると言いたかった。いや、貴女自身にその意志が無くとも、貴女が大公の遺児だと知っている者がいれば、それを利用しようと考えることもあり得る」
「ユリアン様……、エアハルト伯は知っていますね。今思えば、あの人は私に、そういう事を頼みたかったのでしょうか」
アルフェもユリアンに、自分に付いて来いと言われた事がある。フロイドは顔を曇らせた。
「まあ、断りましたが」
「……そうですか」
「ほっとしたでしょう」
「いえ、別に」
「ふふ」
アルフェは口に手を当てた。
フロイドが自分の言動に一々感情を動かしているのを見て、少し微笑ましくなったのだ。しかしすぐに、悪趣味だったと表情を引き締めた。
「それより、肝心の皇帝候補は誰なのです。ユリアン様以外にも、名乗りを上げる者は居るでしょう?」
選帝会議で八大諸侯の支持を得られれば、原理的には誰でも皇帝になれたはずだ。だが、どこの馬の骨とも分からない輩を皇帝に推す者はいない。皇帝になる者は、会議に出席する八大諸侯だけでなく、他の中小諸侯や、帝国臣民全体を納得させる事ができる人間の必要がある。
フロイドはさっきよりも若干不機嫌な顔で、情報屋から聞いた話と自分自身の見解を述べた。
「普通に考えれば、前皇帝の血を引く者という事になる」
「沢山いますね」
「そうです。皇帝そのものは空位でも、皇帝の血筋はずっと受け継がれてきた」
ここで言う皇帝の血筋というのは、この帝国を築いた初代皇帝の血という事である。原理的には誰でもなれる皇帝だが、当然、血の力は強い。
「しかし、血を引いているだけで良いのなら、それこそ貴女にも、皇帝の血が入っているはずだ」
ラトリア大公家だけでなく、八大諸侯のほとんどの家はそうだ。縁組という形で、皇帝家との繋がりを持っている。その点で言えば、ユリアンにも皇帝の血は流れているだろう。それどころか、その気になれば大抵の貴族は、系図を引っ張ってきて数百年さかのぼれば皇帝家との繋がりを見出す事が出来るのではないだろうか。
単に濃いか薄いかの違い。血筋と言ってもその程度の話だ。だが、その程度の話が、多くの人間にとっては重要で、国を動かすためには不可欠なのだ。
「そこから考えると、有力な皇帝候補は絞られる。情報屋の口からも、幾つか具体的な名前が挙がった。聞きますか?」
「はい」
アルフェは頷いた。こういう事は、アルフェの目的とはあまり関係無さそうな話だが、一応だ。冒険者として仕事をする際にも、知っておいて損は無い。
「まずはユリアン・エアハルト。最近勢力を拡大しているのは、全て皇帝になるための布石だと言われている。次に帝国元老院の重鎮で――」
ユリアン以外は、アルフェの知らない名前が続く。ユリアンはそれらの誰かと争う事になるのかと思いながら、アルフェはぼんやり聞いていた。
だが、フロイドがある名前に触れた時、アルフェの顔色が変わった。
「後は、神殿騎士団のテオドール・ロートシュテルンが――」
「え?」
「……?」
「……テオドール?」
しかし、ついでのつもりで聞いた話の中に、アルフェにとって気になる名前があった。
知っている名かと、フロイドが無言で聞いてくる。
「い、いえ」
神殿騎士団のテオドール。それは、アルフェが知っているあのテオドールだろうか。即ち、ベルダンに居た頃、アルフェの友人だった二人の騎士の内の一人だ。
テオドールという名前は、この国ではそれ程珍しくない。騎士のテオドールに限定しても、帝国に二桁くらいは存在するのではないか。だからフロイドが口にしたテオドールが、アルフェが知っている人物と同一であるとは限らないはずなのだが……。
「そのテオドールという人は、どういう……」
「まだ二十歳くらいの、若い騎士らしい」
年代までぴったりと合っている。アルフェは少し身じろぎした。
フロイドの説明によると、神殿騎士テオドール・ロートシュテルンは、八大諸侯以外の貴族の中では、かなり有力な皇帝候補と見られている人物だった。彼の亡き父親は、それこそ先代皇帝の直系に近い血筋だったのだそうだ。
帝都にいる貴族の子弟が、神殿騎士団に籍を置く事は珍しくない。だから彼も神殿騎士になったのだが、そのせいか、神聖教会と神殿騎士団が皇帝候補を立てるとしたら、それは彼だという予想がされていた。
――そんな、まさか。
違うと思っても、そうではないかという気持ちが拭えない。
騎士のテオドール。同じく騎士のマキアスと共に、都市ベルダンで、アルフェと同じ時間を過ごした。
マキアスの方とは、バルトムンクで再会した。アルフェを探していた。アルフェの力になりたいと言ってきたマキアスに対し、彼女は思ってもいない事を口にして、手ひどくはねつけた。
その時の事を思い出して、アルフェは下唇を噛んだ。
テオドールとマキアスは、そもそもどういう所属の騎士だったのだろうか。二人は自分たちの身分を秘密にしていたから、アルフェは未だにそれを知らない。
しかし、バルトムンクには神殿騎士団のパラディン、ロザリンデ・アイゼンシュタインが居た。パラディンほどの者が単独行動をするとは考え辛いから、マキアスは彼女の供としてあの町に居た、神殿騎士の一人だったという可能性はないか。
神殿騎士のマキアス。ならば、テオドールも神殿騎士だったのではないだろうか。
アルフェの想像は、僅かの間にそこまで飛躍した。
アルフェの知っているテオドールが、フロイドの言うテオドールと同一人物だったとしても、それ自体は特に心配する事ではない。ただ彼が、予想していたよりも由緒ある家柄の人だったというだけだ。
だが、皇帝位を巡る争いが有るようなら、テオドールはそれに巻き込まれて、危ない思いをしていないだろうか。
アルフェはそれが、どうしても気にかかった。
「帰ってきたばかりで済みませんが」
フロイドが、心配そうに己を見ている。アルフェは彼に、新しい仕事を言いつけた。
調べる事で安心できるなら、今のアルフェには調べる方法がある。
「そのテオドールという神殿騎士の事を、もっと詳しく知りたいです。どういう容姿の、どういう性格の人で、どこに住んでいるのか。それに、その人が今、どういう状況にあるのかも、全部。町に戻って情報屋組合を動かして下さい。――お金は、幾らかかっても構いません」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます